第1話「大海原への旅立ち」
横浜港、早朝。
「チェリッシュ」は、単独世界一周航海用に特別設計されたミニトランスアット6.50クラスのヨットだ。全長6.5メートル、幅2.99メートルの小型艇ながら、その流線型のハルと高性能キールは、荒波での安定性と速度を両立させている。マストの高さは11メートルに達し、メインセールとジブセールを合わせた総帆面積は32平方メートルにも及ぶ。船体は最新の複合材料で作られており、軽量かつ高強度を誇る。また、1500リットルの清水タンクと、400リットルの燃料タンクを搭載し、長期航海に対応できる設計となっている。
24歳の彼女の目には、決意と不安が交錯していた。漆黒のポニーテールを海風になびかせ、凛とした瞳で水平線を見つめる。
「出航準備完了!」
鈴の力強い声が、静かな港に響き渡る。
母の
「鈴、無理はしないでね。帰ってらっしゃい」
「うん、絶対帰ってくるから。心配しないで」
鈴は微笑みながら母の手を力強く握りしめた。
父の
「鈴、お前には海の血が流れている。存分に冒険してこい」
「お父さん……」
鈴は目頭が熱くなるのを堪えながら、ぐっと父の手を握り返した。
恋人の
「帰りを待ってる。君の夢、応援してるよ」
「ありがとう。絶対達成して帰るから」
鈴は照れくさそうに微笑み返した。
見送りの人々に最後の別れを告げ、鈴は気丈な様子でヨットに乗り込んだ。エンジンが始動し、「チェリッシュ」はゆっくりと岸壁を離れていく。
「世界一周、必ず成し遂げてみせる……!」
鈴の決意の言葉が、朝もやに包まれた港に響いた。
◆航海の初日
出港から数時間が経過し、鈴は操舵席に座りながら、航海計器を確認していた。GPSナビゲーションシステムが正確な位置を示し、風向風速計が安定した南東の風を捉えている。
「風向きが良いわ。このまま順調にいけば……」
鈴は海図を広げ、ルートを再確認する。太平洋を横断し、オーストラリア北部を経由してインド洋へ。その先にはアフリカ大陸が待っている。途方もない距離だが、鈴の瞳は冒険への期待に輝いていた。
鈴は慎重に海図上の航路を指でなぞる。まず、日本から南太平洋のマーシャル諸島へ。そこからソロモン諸島を経由し、オーストラリアのケアンズに向かう。次にインドネシアのバリ島を通過し、インド洋へ。モルディブ、セーシェル諸島を経て、アフリカ大陸の最南端、喜望峰を目指す。そこから大西洋を北上し、ブラジルのリオデジャネイロへ。最後にパナマ運河を通過し、ハワイを経由して日本へ戻る。
鈴は各寄港地での滞在予定日数や、海流、風向きなどを細かくチェックしていく。GPSプロッターに航路を入力しながら、まるで地図上を旅するかのように、指先で世界を一周していった。
◆予期せぬ嵐との遭遇
太平洋に差し掛かって数日後の夕暮れ時、天候が急変した。
「まさか、こんなに早く……!」
鈴は慌てて気象ファックスを確認する。予報では穏やかな海況のはずだったが、突如として発達した低気圧が接近していた。
風速が徐々に上がり始め、波高も増してくる。鈴は素早くセールを縮め、ストームジブに交換した。
ヨットは荒波に翻弄され、マストが軋み、帆が強風に引き裂かれんばかりに膨れ上がる。鈴は必死にかじを取りながら、この自然の猛威に立ち向かった。
鈴は迅速に対応を開始した。
まず、メインセールを3ポイントリーフ(最小サイズ)まで縮帆し、前帆をストームジブに交換。次に、自動操舵装置をオフにし、手動操舵に切り替える。風上に向かって45度の角度を保ちながら、波を斜めに受け流すように操舵する「クロースホールド」の姿勢を取った。
波が大きくなるにつれ、鈴はヒービングトゥ(波に対して45度の角度を保ち、ほぼその場に留まる操船法)を採用。ストームジブを風上に、舵を風下に固定し、ヨットを安定させる。同時に、ドリフティングアンカー(海錨)を投下し、ヨットの漂流を最小限に抑える。
「くっ……ここで諦めるわけにはいかない!」
雨に打たれる甲板の上で、鈴は滑りそうになる足場を踏ん張り、次々とヨットを襲う強烈な波を凌いでいく。
「だめだっ……負けるもんか……!」
幾度となく荒波の餌食になりかけながら、鈴は歯を食いしばって耐え抜いた。激しい揺れで体をぶつけ、傷だらけになりながらも、諦めずに這い蹲っては立ち上がる。
船体が波に呑まれて、今にも転覆しそうになる度に、鈴は祈るように目を瞑った。家族、巧、そして自分の夢……。大切なものの想いを胸に、決して折れない心を奮い立たせる。
凄まじい嵐は幾時間も続いたが、僅かずつ風は弱まり、空が晴れ間を覗かせ始めた。
ずぶ濡れになりながら、鈴はほっと息をついて空を仰いだ。夕焼けのオレンジがかった雲間から、青空が顔を覗かせている。
◆航海を続ける決意
かろうじて無事でいられたことに感謝しつつ、鈴の胸には新たな感情が芽生え始めていた。度し難い試練を潜り抜けたことへの高揚と、それでも尚この先に待ち受ける未知なる挑戦への期待。
世界を一周するという夢。その重みと驚異を、今はっきりと自覚したのだった。
「まだ始まったばかり……これから幾度となく、こんな試練が待っているんだわ」
しかし、恐れの中にも、確かな自信が芽生えていた。初めての大きな試練を乗り越えたことで、鈴の中に新たな強さが宿ったのだ。
「でも、私は絶対に諦めない。この海を越えて、世界中を巡ってみせる」
満身創痍になりながらも、宇佐華鈴の瞳には新たな光が宿っていた。その瞳には、かつてない決意の色が輝いていた。
「チェリッシュ」は再び、大海原に向かって進み始める。船尾には、白い航跡が美しく延びていった。
宇佐華鈴の単独世界一周ヨット航海は、こうして本格的に幕を開けたのだった。
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