【海洋冒険小説】「青い地平線の向こうへ:とある女性航海士の世界一周航路」

藍埜佑(あいのたすく)

プロローグ「海辺の風景 - 夢の種を育む小さな冒険」

 白い雲が、青い空をのんびりと泳いでいく。

 潮風に吹かれ、波がきらきらと輝く海。

 遠くの水平線には、夏の太陽がぽっかりと浮かんでいた。


 6歳のりんは、緊張と期待で小さな胸を膨らませていた。

「お父さん、今日はどこまで行くの?」

 少し大きめのライフジャケットを着た鈴が、目を輝かせて尋ねる。

 甲板で仕事をしていた父・かなめは、微笑んで娘の頭を撫でた。


「そうだな……今日は沖の小島を目指そうか」

「わーい! 楽しみだなー!」


 小さな手を握り締めて、鈴は嬉しそうに跳ねた。

 幼い頃から海と船が大好きな鈴にとって、父のヨットに乗るのは何よりの楽しみだった。

 仕事の合間を縫って、父が鈴を連れて沿岸の航海に出るのが、二人だけの大切な時間なのだ。


「よし、そろそろ出港の準備だ」

「うん! お手伝いするね!」


 鈴は父についてヨットの中を歩き回り、小さな体で精一杯の手伝いをした。

 ロープを引いたり、浮き輪を片付けたり。

 父の助手を務める鈴の姿は、まるで見習い水兵のようだ。


「セールを上げるぞ、鈴。支えてくれ」

「はーい!」


 要がシートを引くと、大きな白い帆がゆっくりと上がっていく。

 風をはらんだ帆に、鈴は思わず歓声を上げた。

 このヨット「マーメイド」は鈴にとって、海の上の遊園地のようなのだ。


 岸壁を離れ、マーメイドは穏やかな波の上を滑るように進んでいく。

 コンパスの針を見ながら、要は娘に舵の取り方を教える。


「海図を見て、目的地の方位を読み取る。そして同じ方角に、舵を切っていくんだ」

「こう……?」

「そう、その調子だ」


 要に教わりながら、鈴は真剣な表情で舵を握った。

 ちょっぴり大きめの舵輪に、小さな手がかじりついている。

 必死になって針路を保とうとする鈴の姿は、何とも微笑ましかった。


「お父さん、見て! イルカだ!」

「本当だ。イルカの親子か……」


 鈴が指差す海面を見ると、2頭のイルカが弧を描いて泳いでいる。

 優雅にジャンプする姿は、海からの歓迎のようだ。


「イルカって賢いんだよ。昔から人間と仲良くしてるんだ」

「へぇー、すごいなぁ」


 イルカの泳ぐ海面を、鈴はキラキラした瞳で見つめていた。

 海の中には、まだまだ知らない不思議がいっぱい隠れているに違いない。

 探検心をくすぐられ、鈴の好奇心が大きくふくらんでいく。


 1時間ほど航海を続け、マーメイドはようやく目的の島に近づいた。

 エメラルドグリーンの小島は、まるでおとぎ話に出てくるような美しさだ。


「着くぞ、鈴。準備はいいか?」

「うん、バッチリ!」


 颯爽と錨を下ろす要の後ろで、鈴も小さなロープを一生懸命たぐり寄せる。

 どんな小さな役目も、航海を助ける大切な仕事なのだ。

 

 白い砂浜に上陸すると、鈴は弾むような足取りで駆け出した。

「わー、すごーい! お花がいっぱい!」

 黄色やピンクの小さな花が、一面に咲き誇っている。


「ハイビスカスだな。南国の花だよ」

「きれい……海の上の楽園みたい!」


 裸足で砂浜を駆け回る鈴。

 打ち寄せる波が、くすぐったくも心地いい。

 陽射しは暖かく、潮風は髪をなびかせる。

 自然のすべてが、鈴を歓迎しているようだった。


「鈴、こっちに来なさい」

「なぁに? お父さん」


 ニコニコと駆け寄ってくる鈴の手を取り、要は優しく微笑んだ。

「ほら、あれを見てごらん」

 要が指差したのは、沖合いに浮かぶ小さな島影だった。


「あの島まで行けたら、きっと新しい発見があるだろうな」

「もっと向こう……?」


 鈴はキョトンとした顔で首をかしげた。

 すると要は、娘の肩にそっと手を置いてこう言った。


「鈴。この海の向こうには、まだ見ぬ世界が広がっているんだ。冒険の世界がね」

「ぼうけん……」

「大きくなったら、鈴もきっと冒険に出たくなるはずだ。パパみたいにな」


 そう言って、要は海の彼方を見つめた。

 一瞬、哀愁の色が要の瞳を過ぎったように見えた。

 かつて海で事故に遭い、冒険の夢を断たれた過去。

 それでも、娘には夢を追ってほしいと願う父の想い。


 鈴はその言葉の意味をまだ十分には理解できなかった。

 それでも、海の向こうに何かが待っている。

 そんな予感だけは、しっかりと感じ取っていた。


「パパ、私ね、大きくなったら絶対船に乗るの。そしたらどこまでも行けるもん」

「そうだな。鈴ならきっと、もっと遠くまで行けるはずだ」


 可愛らしい決意表明に、要は柔らかく頷いた。

 いつか娘が、自分の夢を追って旅立つ日が来る。

 そう思うと、わくわくと、そして少し寂しくもあった。


「でもその時は、必ず帰ってきてほしい。ここが、鈴の帰る場所だからね」

「もちろん! 約束する!」


 真っ直ぐな瞳で頷く鈴に、要は大きく頷き返した。

 遥か未来の別れを思いつつ、こうして今は親子水入らずの時間を過ごせる幸せ。

 かけがえのないひとときを、二人はゆっくりと味わっていた。


 やがて陽が傾き始め、島に上陸したのとは反対側の海に沈んでいく。

 赤やオレンジのグラデーションが、空と海を鮮やかに染め上げた。

 

「お父さん、あの夕日、絵みたいにきれい……」

「ああ、自然が作り出す最高の芸術だな」


 夕日に感動する鈴を、要は優しく抱き寄せた。

 穏やかな時の流れに身を委ねながら、二人はしばしの沈黙を楽しんでいる。


 ゆっくりと日が沈み、辺りは優しい闇に包まれていく。

 満天の星空が、島を見下ろすように輝いている。

 

「そろそろ帰ろうか。お母さんが待ってるからな」

「うん、今日は楽しかったね」


 名残惜しそうに立ち上がる鈴に、要は優しく微笑みかけた。

「鈴、今日のこと、ずっと忘れないでほしい。海の広さと美しさを、ね」

「絶対忘れない。ずーっと覚えてる」


 満面の笑顔で頷く鈴。

 目を細めて嬉しそうに笑う姿は、将来の夢への希望に満ちている。


「お父さん、私ね、大きくなったら絶対海に出るの。こんな風にヨットに乗って、世界中を回るんだ」

「それは素晴らしい夢だ。パパも全力で応援するよ」


 娘の無邪気な宣言を、要は満面の笑みで受け止めた。

 冒険心に満ちた瞳。海を愛する心。

 自分の分身のような娘が、夢に向かって羽ばたく未来を楽しみにしている。


 こうして鈴の「海への夢」の種は、ひっそりと蒔かれた。

 小さな冒険をともにした日々は、ずっと鈴の心の糧になるはずだ。


 やがて遠い日の旅立ちを予感させながら、親子の小舟は静かに港へと帰っていく。

 夜空の星が、二人の冒険を見守るように瞬いていた。

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