第3話 初戦
「痛い」
パジャオは目を覚ました。周りを確認する。
「何処だ?」
見た事が無い場所だった。硬そうな石で造られた部屋である。窓は無く、あるのは鉄の扉だけだ。
そしてとても狭い部屋だった。寝台と、糞便をするための壺くらいしかない。
「個室?」
鉱山で働く奴隷達でも、奴隷を束ねる上役の奴隷には個室が与えられ、食べ物も豪華だったらしい。
さらには女奴隷まで与えられていたとかなんとか。
しかし、パジャオの聞いた個室と言う特別な響きのものと比べ、今居る部屋は殺風景過ぎる。これではまさに牢獄、独房である。
「首輪…外れて…ない。違う?」
違和感があった。以前迄の粗末で歪な物ではない。それは奴隷を証明する物ではあったが、明らかに上質な物であった。
「外せ…ない…」
首輪が上質になったのはパジャオには悪い事であった。あの質の悪い首輪なら、いずれは力尽くで壊して外す事も出来たかも知れない。しかし今の首輪はとても頑丈そうであった。
「ふぅ…」
熊と戦ったダメージも抜け切れていないのに、無理は出来ない。首輪を破壊する事は諦める。
「くんくんくん…」
石の床に這いつくばって匂いを嗅ぐ。この部屋には様々な匂いがあった。
糞の匂い、汗の匂い、精の匂い、血の匂い。
そして―――
「死の匂い…」
強い死臭がした。
パジャオの腹には包帯が巻いてあった。清潔で新しい物である。鼻につく軽いツンとした刺激臭は、薬だろう。
何者かがパジャオを治療し、この部屋に閉じ込めたのだ。
「…………………」
流石のパジャオにもこの違和感は解った。
ちぐはぐなのだ。
武術の師であるホエイシャンを別にすれば、ここまで人間に大切にされた事は無い。
何の思惑があるにせよ、彼に良くしてくれる理由が不可解だ。
傷薬だけではない、改めてよく観察すると体は綺麗に拭き清められていた。
だが、今自分は囚われの身である。
治療はしてやるが逃がす気は無いという意思を感じる。
獣は先ずは獲物を殺してから保存する。これは人間の保存方法なのだろうか?
パジャオには生かされてる理由が解らなかった。しかし…
「生きてる」
それで十分。
パジャオは難しく考えるのを止めた。
「ふっ、ふっ、ふっ―――」
パジャオは早速鍛錬を始めた。
何日寝ていたかは解らないが、体が鈍っていたらいざという時に動けない。
「痛っ…」
腹の裂傷だけではない、関節や筋肉も痛む。
思わずはしゃいでしまっていたが、熊を一頭素手で殴り殺したのだ。相当に無茶をしていたのだと自覚する。
(だが動く。死んでない。俺は生きてる―――)
そうして数時間程体をほぐし、基本的な型の鍛錬をしていた。
「誰か来る?」
足音が聞こえた。
ガシャガシャという鉄の軋む音と一緒に、何人かが遠くからやって来る。
「…なんだろう?」
パジャオは匂いや気配で、この分厚い石壁の向こうにも部屋があり、人間が居るのは解っていた。
その部屋がズラリと並ぶ通り道を、何者かが歩いて来る。
ガチャリ
唐突にパジャオの部屋の扉が開く。
入って来たのは、女一人と鎧を着た男が二人。
(殺せる)
パジャオは三人を殺して脱走するかどうか迷う。
体調は万全ではない。敵の数も解らない。
しかし次に扉が開く時に、もっとたくさんの鎧を着た男達が現れたら、勝ち目が薄くなる。
パジャオは先ずは弱そうな女から片付けるかと足を踏み出し…
「わわっ!駄目ですよぉっ!動いちゃ、めっ!ですぅっ!」
その女に抱き締められて寝台に無理矢理戻されてしまった。
(柔らかい)
女の柔らかな胸の膨らみを押し付けられ、パジャオの戦意は喪失した。
(ペリルラより大きい)
知己の少女に対して失礼な事を考えるパジャオ。
「もぉっ!起きた途端に体動かすなんて、死にたいんですかぁっ!貴方は熊に殺されかけたんですよぉっ!」
女はそうぷりぷり怒りながら、パジャオのざんばら髪をかき上げ額を露出させると、己の額を合わせる。
(良い匂い…)
顔が近い。目と目が合う。女がにっこりと笑う。ドキッとした。
「うん、熱も下がりましたねぇ。良かったぁ。薬…の前にご飯ですね。あ、スープだけですよぉ?」
女は鎧の男から盆を受け取り、湯気の立つ椀を手に持ち、匙でドロッとしたスープを掬ってパジャオの口元に運ぶ。
「美味しい…」
野菜も肉も細かく潰され、塩で味付けされている。温かく、空腹の腹に染み渡る様な味だった。
「そうですかぁ?良かったぁ。味には自信無くて…薬草も使ってますし、栄養もありますよぉ」
スープは女の手作りらしかった。大人しく女にスープを飲ませて貰うパジャオ。
この様な状況で見ず知らずの人間に手ずから物を食べさせられる等、警戒に当たるはずであるが…
(良い匂い…)
パジャオは安全だと判断した。ただ単に女の体臭が良いだけではない。罠の匂いがしなかった。それと多少の毒なら効かないという自信もあった。
毒草、毒茸を食べて死にかけた事があり、それ以降ちょっとした毒物への耐性が出来ていた。
毒蛇に噛まれた事もあり、その毒蛇を食べた事もあった。
(だから平気…)
パジャオは自分に言い訳をして、女のされるがままにされた。
「偉いですねぇ。よしよし〜」
女がパジャオの頭を撫でてくれる。思わず目を瞑ってしまう。そうしていると、女が小さな器に入れた何かの粉をパジャオに差し出してくる。
「はい、お薬です。飲んで下さいねぇ」
「苦い…」
口に入れると何とも言えぬ苦味が口中に広がる。
「はい、お水ですぅ」
女が水が入った器をくれる。一気に飲み込む。
「お?偉いですよぉ。良く飲めましたねぇ」
女に頭を撫でられる。気持ち良かった。女に寝かされて布をかけられ、その上からポンポンと軽く叩かれる。そうすると自然と眠気が…
「終わったか。よし立て」
今までずっと無言だった鎧を着た男達がパジャオを乱暴に引っ立てる。パジャオは無抵抗だった。下手に暴れても制圧される可能性があった。
女に毒気を抜かれてしまっていたのもあるだろう。女に優しくされて警戒心が削られてしまっていた。そこで漸く違和感の正体に気づけた。
(手当てをしてくれたのはこの女。閉じ込めているのはこの鎧達…のボスか)
人間は狼等よりもさらに複雑で組織化された群れを持つ動物だ。この鎧二人を倒すのは簡単だ。女を人質にして逃げる事も出来るかも知れない。しかし、もっとたくさんの強い鎧が現れれば、病み上がりのパジャオは負ける。
ここが何処かも解らない。今暴れるのは上策ではない。
(様子見しよう)
果たしてパジャオは大人しく連行されて行く。
「だっ!駄目ですぅっ!そ、その子の怪我はまだ治っていませんっ!」
怪我をした子供への乱暴な扱いに抗議したのは女だった。しかし鎧の二人は聞く耳を持たない。
「ミント先生。ご主人はコイツの性能を確かめたくて仕方無いんだ。アンタの仕事は奴隷の治療だ。分をわきまえな」
その兵士の声音はむしろ優しかった。事実、あまり反抗的だとクビにされる。ミントは奴隷ではなかったが、ただの雇われの治療師なのだから。
「くっ…」
ミントは歯噛みする。治療師として、子供が今から痛めつけられる事を止められない事を悔しく思う。
腹を裂かれた子供の治療をさせられた時は仰天したが、その回復力にもさらに驚かされた。このままならすぐに良くなると安心していたのに…
「お願いします。あまり酷い事をしないであげて…」
鎧の男達は無言だった。それは彼等に決められる事ではないからだ。
力無く項垂れるミントを個室に残し、三人は通路を歩く。何処に連れて行かれるのだろうか。そんな疑問よりも、パジャオはミントの悲しそうな切なそうな表情が印象に残った。心の底から自分を心配してくれている顔だった。
ミントは師ホエイシャンに続き、パジャオに優しくしてくれる二人目の人間だった。
「良い拾い物をしたそうだな?」
貴族の男がグラスを片手に訊ねてくる。
「ええ、取り敢えず様子見です。デビューは華々しくいきたいですからな」
奴隷商人オレガノは勿体つける様に答える。
「では今から行うのは…」
取引相手の一人である豪商がそわそわしている。
「勿論、皆様だけにお見せするのは特別です。まぁ余興です余興」
オレガノはお気に入りの拳闘奴隷を自慢する事が良くあった。その際に集められるのは彼のお得意様ばかりである。闘技場にて行う大々的な興行と違いお遊びの様なものなのだが…太客だけを集めたこの小イベントは、規模の割にかなりの金が動く。
「よし、私は貴殿の粋な心に乗ってやる!熊殺しに賭けるっ!」
オレガノが最近、熊殺しの奴隷の子供を拾った話はその筋では有名だった。オレガノ自身が吹聴していたからだが。
「俺もだっ!」
三度の飯よりも観戦が好きな役人もそう続ける。
「いや、私は狼殺しに賭けよう。奴もまだまだ捨てたもんじゃない」
酒や女よりも、血を見るのが大好きな高名な学者先生が顎髭を撫でながら呟く。彼は派手で盛り上がる激戦より、玄人好みの渋い駆け引きのある戦いが好きだった。
「狼殺しと熊殺し、ふふふ。どちらが強いのかな?」
誰ともなくそわそわしだす。彼等が居る場所はロの字型のバーの様な場所である。中央は吹き抜けになっており、見下ろせば小さめな闘技場がある。
そこはリングだ。小規模であるが、賭博試合を安全に観戦出来る。
皆酒やツマミを口にしながらその時を待つ。やがて二つある闘技場の出入り口の一つから、少年が現れた。
「ほぉ、あれが…」
「にわかには信じられませんが」
「いやいやオレガノ殿のお眼鏡にかなったのだ。期待させて貰おう」
「………柔らかかった」
パジャオは闘技場に通された後も、ぼおっとしていた。
ミントの笑顔と悲痛そうな顔、美味しいスープと苦い薬、温かい手と柔らかい体。
それらが頭の中を占拠しており、現状に対する認識を阻害していた。頭の何処かでは危険信号を発しているのだが、何処か現実味が無い。
そんな時に、パジャオが入って来た出入り口とは反対の方の扉から、大柄な男が現れる。
「うおおおおおおおおおおおおっ!」
その大柄な男、通称狼殺しが吠える。本名は勿論あるが、その二つ名のが覚えが良いし、本人も気に入っていた。
彼が狼を殴り殺したのは事実である。
ある日、オレガノとは別の悪辣な主人の気まぐれで狼対奴隷の見世物が催されたのだ。
哀れな奴隷が狼に食い殺される残虐ショー。
しかし結果は大番狂わせ。彼は他の奴隷が逃げ回る中、一人で五頭もの狼を殴り殺した。
主人は大層喜び、仲間の奴隷達からも感謝された。気持ち良かった。
それが狼殺しの鮮烈なるデビューとなった。
その後オレガノの闘技場に買われ、本格的な拳闘奴隷となる。
労働奴隷からの生活も一変した。望めば酒も女も手に入った。何回かは順当に勝てていた。
だがすぐに壁にぶち当たる。剛腕自慢の彼の膂力は、格上の武術家には全く通じなかった。勿論彼より力が有る拳闘奴隷にも当然の様に負けた。
格下には力押しで勝てるが格上には力でも技術で負ける。そんな評価で人気も下がり始める。
ここ最近は負けが続き、後が無いのは彼自身が一番理解していた。
(女、酒、食い物、女、酒、食い物)
彼には特に自由を勝ち取るとかのビジョンは無い。勝利した暁に貰えるご褒美が欲しいだけだ。
故に強くもある。シンプルな欲望程、力が出る源になるからだ。
「おお、凄い気迫だな」
狼殺しの意外な態度に、観客達も喜ぶ。実の所あまり彼は期待されていなかった。
「子供と侮ってはいないな」
しかし、油断して負けて熊殺しの力を見れないのは困る。彼にはちゃんと頑張って負けて貰わなければならない。そのための飴…鞭もちゃんと用意した。
「ふふふ。ええ、今回もし負ければ拳闘奴隷の身分は剥奪。鉱山奴隷堕ちすると伝えております故。勝てば酒も女でも好きに与えると約束致しました」
「成る程」
観客達も納得する。
「うがあああああああああああっ!」
狼殺しが吠え、パジャオに向かって駆け出す。相手が子供だろうが容赦はしない。酒を飲んで女を抱いて、たらふく肉を食うのだ。子供の一人くらい殺すのに躊躇は無い。
(ミント先生…)
良い匂いだった。柔らかかった。
(もしかしたら…)
「うがあああああああああっ!」
狼殺しがパジャオに肉薄する。
「…怪我をしたら、また会えるかな?」
パジャオが頓珍漢な事を閃いた瞬間だった。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
狼殺しが間合いに入り、拳を振り下ろして来た。普通の子供だったら一撃で殴り殺されてしまうだろう。しかし―――
ヂッ…
「!?」
狼殺しの剛腕は空を切り、カウンターでパジャオの拳が狼殺しの顎を掠めた。
ドサッ…
狼殺しは白目を剥いて倒れた。
それだけだった。
女と酒と食い物を欲する狼殺しは、出会ったばかりの女に懸想する熊殺しに、負けた。
「………?」
パジャオは少し首を捻った。なんだか煩いのが近付いて来たのでちょっと大人しくさせてみた。
そう言えばここに放り込まれる直前に鎧の男達から、今からお前はなんとかと戦う…生き残りたければ勝てとかなんとか言われたのを、ぼんやりと思い出す。
「…俺の戦う相手…何処?」
相手が居ないと勝つも負けるも無い。パジャオは首を傾げて少し困った。
観客席にも困惑と動揺が広がっていた。
「え?」
「終わり?」
「いや、これはそんな…」
「誰か、今のが見えた者はあるか?」
客が周りの護衛兵士に聞いてみるが、誰もが無言だ。
護衛兵士達には真面目に見てない奴も居たが、噂の熊殺しがどんなものか見てやろうと思っていた者達も居た。
オレガノの私兵達に密かに人気のあるミント先生が甲斐甲斐しく世話を焼いているので、痛い目に遭ってしまえクソガキとか思っている輩すら居た。
しかし誰も解らなかった。解ったのは、熊を本当に殺したのかも知れないという、パジャオの得体の知れない強さだけだった。
(くふっ!くふふふふっ!いいぞっ!素晴らしい拾い物だっ!神と聖獣様に感謝をっ!)
内心で喝采を上げながら、オレガノは現金な祈りを神と聖獣に捧げるのだった。
この時の勝敗により、狼殺しは皮肉にもパジャオの元居た鉱山へと売り払われ、そこで労働奴隷となる未来が確定した。
代わりにパジャオは『熊殺しのパジャオ』と言う身も蓋も無いリングネー厶で、第二の奴隷人生をスタートする。
拳闘奴隷として戦う日々の…幕開けである。
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