言うことを聞かない

柴公

大人ぶった恋

 無瑕を喜ぶ者は、皆総じて愚者だ。傷一つ無い状態はたしかに美しい。が、そこにあるのは生きていると言うよりは無機質な冷たさだ。それはもちろん人間にも言うことが出来る。心に傷がないことを誇り、心の傷を精一杯隠し、あて布を施し、完璧を装う人間の、いかに感動できようか。

 傷をわざわざ見せつける者も、また愚者だ。過去に起こったことについて、意気揚々と語るその様は、無様と言う他ない。わざわざ傷を増やし、線を描き、いかに凄惨で、いかに苦しかったか。そんなものは見せるものではなく、見るものが判断することだ。


「しかし私は、ここでまた固まってしまう…と」

 大型スーパーのチョコレートコーナーの前で、板型のホワイトチョコを手に取ったまま固まる女がいた。傍から見ればそれは滑稽で、周りに多くの人がいる中のその行動は、随分と注目を集めるものだった。

 それもそのはず、今はバレンタイン期間まっ盛り。チョコを意中の男子に渡さんとする獣たちによる、大・恋愛合戦が始まったのだ。そんな中、白の板チョコを手にしたまま売り場から微動だにしない私は、だいぶ奇っ怪に獣たちの目に写っただろう。

「ふぅン…」

 持っていた板チョコを棚に戻し、屈んだ腰を伸ばして腕を組む。

 …まぁ、私らしくはない。

「むぅ、どうしたものかな。さすがに手作りは重いだろうか。まだ付き合ってもいないわけだし…とでも言いたそうな顔だな」

 後ろから聞き馴染みのある声が響いて、私の肩に感触があった。

 …ぷに。

「どぅえぇっ!?」

「おー、いい反応いい反応。お前ほっぺた柔らかいな。ずるいぜ」

 俺なんて皮ペタよ…とぺたぺた自分の頬を触りながらブツブツ言っているが、全くなんて男だ。人が真剣に悩んでいるというのに、この男は悩む私を呑気に後ろから様子を伺って、隙をついてほっぺをつついてきた。

「つくのはどちらかにしたまえ!」

「ん?何言ってんだ?」

 渾身のボケもスルーされた!

 いや、これは私のボケが悪いか…?

「やー、しかし引っかかるもんだな、あんなセリフでも人ってちゃんと振り向くんだな」

 普通は気持ち悪くて振り向かないと思う、という言葉を寸前で飲み込んで、私だから振り向いたのだ、というセリフを喉元で押し込んで、大人な私はかろうじてため息をついた。

「君なんて、嫌いだ」

 大人な私は、悪態もつくのか?

 なんのために悩んでいたのか、それまで考えていたことがバカバカしくなる。はぁ、本当にどうして…

「俺は馬鹿だからわかんねーけどよ、悩んでくれる気持ちだけで男は嬉しいと思うぜ。何貰ったって、【貰ったという事実】が嬉しいんだからよ」

 どうしてそんなことを言うんだろう。まさかこの男は、私の心を見抜いているのだろうか。

 この、醜い、無駄な、無益な、而して無瑕な。

「それにほら、普段ならもっとクール?にさ、俺の冗談なんて流してくれちゃうのに、今のお前は顔真っ赤にして怒ってるだろ?それだけの気持ちがあるなら、大丈夫だろ、多分」

 あぁ、こいつは。この男は。この人は。この人はなんにもわかっちゃいないんだな。この人は私の気持ちなんて知らずに、無責任にも応援してくるんだな。

 なんだというのだ、そんなの。ずるいではないか。悲しいではないか。傷付くじゃないか。

 しかしそれは、それはそれで。少し喜んでいる自分も、いるような、いないような。

「…そうか、そういうものか。なら君なんて、この板チョコで十分だ」

 なぜにっ!?と彼は驚いて、ちょっとしょんぼりした顔を見せる。

「ごめんって…いやでもくれるのは嬉しいけどさー…くれるならもっと凝ったものくれよなー…ってそういえばお前、本命さんへのやつはいいのか?なんかこういう板のやつ溶かして、型に入れたりとかするんじゃなかったのか?」

 ずっと、気付かないふりをしていた。大人気ないから。真面目じゃなくなるのが、怖かったから。抑えていた。でも今、抑えていた心が、言うことを聞かなくなっている。オーバーヒートしている。顔から火が出るとはまさにこういう時のことなのだろうか。持っているチョコが溶けてしまいそうだ。

「うるさい、もう済んだからいいんだ。私の用はいっぺんに済んでしまった。お前のせいだ」

 口はまだ、最大限の抵抗を試している。でももう、きっと多分、いずれ限界が来てしまう。その時はどうしようか。

「お返しちゃんとするからさぁ、そんな怒るなよお、ごめんなさいって…」

 ホワイトデーのお返しを、彼はきっと忘れるだろう。そうだ、それにかこつけて、いっそ弱みを握ってやろうか。

 そこまで考えて、また少し顔から湯気が出たような気がした。なんて卑しい、極悪な考えだろう、と。そして私はため息をついた。

 本当に、どうしてこんな男を好きになったのか

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

言うことを聞かない 柴公 @sibakou_269

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ