第36話 つかの間の気分転換……になるはずが

 そんなわけで、オレは体育館に来ていた。

 試験期間中なので、もちろんオレたちの他に誰も人はいない。

 いつも見かけるより広々と感じる体育館には、ボールの音が響いている。


 岩渕さんは、さっきからひたすらとシュート練習に取り組んでいた。

 ボールは一つしかないので、打ったら自分で回収しないといけないんだけど、その作業すら心の底から楽しんでいるような顔をしている。

 ボール拾いくらいなら手伝いたかったんだけどね。

 でも、今の岩渕さんはボールに飢えた獣。オレが勝手にボールを拾おうものなら、牙をむき出しにして食い殺されちゃうかもしれないから……。


「どう? 調子は戻った?」

「戻った~!」


 飼い主とじゃれ合う犬みたいにボールを手にこちらにやってくる岩渕さん。


「じゃあ、まだ時間はあるし、勉強に戻ろっか?」


 それまでニコニコだった岩渕さんは、急に青ざめた顔になり、手にしていたボールを床に落としてしまった。


「やだぁ、勉強やだぁ」

「い、岩渕さん!?」


 よろよろとこちらに寄ってきたので、オレは岩渕さんを抱きとめるような格好になってしまう。

 岩渕さんの体温と香りが真正面から!

 今日暗記した歴史上の人物や出来事をいくつか忘れちゃいそうだ!

 でも、やっぱりこうして真正面から受け止めるかたちになると、自己申告していた163センチはウソだってわかっちゃうな……。この胸元の位置でオレと同じくらいはウソでしょ。


「うぅ~ん、ごめんねぇ、せっかく葉山くんが勉強見てくれてるのに、私はこんなにへろへろで……」


 落ち込んでいる様子の岩渕さん。

 もちろん岩渕さんだって、本気で赤点を回避したいはずだ。

 それができないのだから、悔しいに決まっている。


「いや、いいんだよ……でも、今のままの環境だと勉強に集中できないのかもね」

「そうかもー。家も教室も部室も、勉強する場所といえばって感じでいつも通りになってるとこだから」

「変に慣れてるのが問題なのかも」


 うーん、他に勉強する場所があるとして、いいところはないかなぁ。

 とりあえずこの日は、岩渕さんの学力を効果的に上げられないまま終わってしまった。

 思ったよりずっと手強い相手、岩渕さん。

 でもオレは、諦めたくなかったんだ。

 ……岩渕さんが頼ってくれたことは嬉しかったし、それはオレに期待してくれていたってこと。

 岩渕さんにとって最良の結果を出すことで、報いてあげたかった。

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