第35話 岩渕さんは勉強ができない

 放課後。

 オレは、岩渕さんと一緒に女バスの部室へやってきた。

 部室は、教室を半分にした程度の広さ。

 コの字状にロッカーが配置されていて、真ん中にある長テーブルを囲むように、パイプ椅子が何脚か置いてある。

 部員同士の勉強会は、そんな環境で行われていた。

 女子だらけの環境に緊張しながらも、岩渕さんに勉強を教えていたんだけど……。


「うん、うん、わかってる、ここをゴールだとすると、入射角を考えてここに投げれば上手く跳ね返ってバンクショットが決まるんだよね?」

「お、オレそんなこと言ってないよね……?」


 何の教科の発言かわからないことを言い出す岩渕さんは、明らかに脳がパンクしそうになっていた。今にも頭から煙を吹き出しそうだ。

 やがて、体が左右にゆらゆら揺れたと思ったら。


「うほほん、おほっ、おっほぉぉぉん! んほっ、ほぉぉぉ!」

「い、岩渕さん!? 奇声発するのはやめよ!」

「あー、気にしないでいいっすよ。いつものことなんで」


 向かいには、合宿のときにちょっと話した一年生にして大物の風格漂う後輩さんこと佐倉さんがいた。


「い、いつものことなの!? これが!?」

「そっす。うちらの間では『オホ声の彩珠』で通ってますから」

「岩渕さん、正気に戻って! 後輩からのリスペクト失っちゃってるから!」


 思い切って肩を掴み、揺さぶるオレ。

 ゆさゆさするたびに、甘いいい匂いがして混乱するよ。


「……葉山くん?」

「よかった、正気に戻ってくれた」

「そっか、もう中間試験は終わったんだね……?」

「現実逃避しないで。これからだから」

「んほぉぉぉぉぉっ!」

「ああっ、また!」


 こんなかたちで岩渕さんの乱れた姿を見たくはなかった。


「葉山先輩、そうなっちゃったらもう無理っすよ。放置してあげてください。ていうか、シンプルにうるさいんで、もう触らないでほしいっす」

「そ、そうだね……この調子じゃあ……」


 何を教えようとも無理だ。

 佐倉さんを始めとした部員たちが苦笑いをしているので、そっとしておくことにした。赤点回避を目指して頑張っているみんなの邪魔をするわけにもいかない。

 岩渕さん、こんなにも勉強が苦手だったのか……。

 よくこの学校入れたな……。

 いや、理数系が特別苦手なだけか。


 なんだかすっかりアホの人のイメージが定着しちゃいそうな岩渕さんだけど、これまでのテストの点数を教えてもらったところ、実は赤点の危機に瀕しているのは理数系の科目と現国で、それ以外の暗記系科目の点数は決して悪くなかった。

 暗記科目は反復練習なところがあるから、スポーツが得意な岩渕さんならアレルギーは最小限で済むのだろう。

 岩渕さんをそっとしておくことにしたオレは、一年生部員たちに頼まれて、彼女たちの勉強を見ることになる。

 その間も、岩渕さんは抜け殻状態になっていた。


「あの、岩渕さんはまだ回復できそうにないかな?」

「今回は特に重症っすね。しょうがないんで、そこのボール持って体動かしてきたらどうっすかね?」

「体育館で? いいの?」

「まー、勉強中の気分転換くらいなら許してくれるんじゃないっすか? ていうか、うちらとしても岩渕先輩には赤点回避してもらわないと困るんで。うちの部、赤点取ったら夏の合宿に参加できないって決まりがあるんすよ」


 部活動はあくまで学校が管轄する活動。成績には厳しいようだ。


「そうなんだ……また合宿所でやるの?」

「いいえ。顧問のセンセのツテで、海沿いの街にあるデカい施設を使えるんです。練習のあとは海で遊べるそうなんで、先輩も楽しみにしてるっす」

「海……海……海に還りたい……」


 遠くを見つめる岩渕さんが、何かを掴もうとするかのように腕を伸ばすんだけど、気力が衰えすぎてぷるぷるしているのがいたたまれない。


「まー、だからちょっと遊んできてあげてくださいよ。あと、シンプルに今の先輩いるとうるさいんで」

「岩渕さん、ほら、ボールだよ。ちょっとだけ気分転換に行こう」


 佐倉さんが渡してくれたバスケットボールを、岩渕さんの膝の上に乗せる。

 虚ろだった岩渕さんの瞳にみるみる生気が戻っていく。


「うぉぉぉぉぉぉ! 私はぁ、天才バスケットマン彩珠だぁぁぁ!」


 飛び跳ねるように椅子から立ち上がると、肉食獣が駆け抜けるようなスピードで部室の外へ飛び出すのだった。

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