第6話 体育館で躍動する憧れの人

 鷹塚たかつか玲緒れおという王子様のフリをした餓狼が立ち去ったあと。


「はぁ……」


 ため息をつくオレは、とぼとぼ歩きながら学校の正門を目指していた。


「なんか、穢された気分だよ……」


 ついさっきの出来事で、オレの世の中への認識が大きく変わってしまった。


「凄い人だと思ったのに。なんか、あんな感じの嫌な人だったなんて……」


 自分の見る目のなさを痛感させられて、気分が沈んでしまう。

 これからどうしようという気持ちが強く、明日から鷹塚さんに言い寄られる日々が始まるのだと思うと、憂鬱な気分でいっぱいだった。


「しかも……」


 頬の熱さを強く感じながら、唇に手を当てるオレ。


「初めてのキスは、もっとロマンチックで素敵なシチュエーションをこっそり想像してたのに~……」


 夏の浴衣姿で花火がどーんとあがった瞬間に、とかサ!

 丸まっていた背中がいっそう丸まってしまう。


「鷹塚さんめ……オレにトラウマを刻んで……」


 こんなことをされて、鷹塚さんのことを好きになるはずがない。


「あーあ、こんな沈んだ気持ちで家に帰るの嫌だなぁ……暗い顔を妹たちに見せたくないよ」


 まっすぐ帰る気にもなれず、校舎と塀の間にある薄暗い道の芝を踏み踏みしながら歩いていたときだ。


「あれ? 葉山くんどうしたの?」


 ダークサイドな気分を浄化するような声が響いて、思わずオレは顔を上げた。


「岩渕さん……どうしてここに?」

「どうしてもなにも。ここ体育館だよ? 放課後の体育館といえばもう私じゃん」


 不思議そうな顔をする岩渕さんだけど、確かに彼女がひょっこり顔を出している向こう側は体育館に繋がっている。体育館と外を隔てている両開きの大きな扉は、今は風通しをよくするためか開いた状態で、大きな掛け声とボールが弾む音とバッシュが床を擦る物音が漏れ聞こえていた。

 岩渕さんは、黒Tシャツに白いハーフパンツの練習着スタイルで、額にはほんのり汗が浮いていて、頬も赤くなっていた。首にはタオルが引っかかっている。


「どしたん? 話聞こか?」


 岩渕さんは微笑みながら、脇にある水洗い場の蛇口をひねると、流れてくる水の中に頭を突っ込んだ。汗を流したかったみたい。ずいぶん豪快だけど、そういう細かいところを気にしないのも岩渕さんの魅力。


「いや、別になにもないよ」

「えー、ホント? 実はちょっと前から見てたんだけど、ぼんやりした顔でふらふら歩いてたから、声かけるかどうか迷っちゃうくらいだったんだよね」

「えっ、そんなところまで見られてたんだ……」


 なんだか恥ずかしくなって、両手で顔を覆いたくなってしまう。


「まー、私も葉山くんとは一年以上の付き合いだからね。なんとなく様子が変だなーってことはわかるよ」


 濡れ髪な岩渕さんは、首に引っ掛けていた赤いタオルで頭をガシガシと拭く。タオルの端には金色で「闘魂」の文字が刺繍されていた。


「話して楽になることもあるし、よかったら話してスッキリしちゃったら? 休憩終わるまでもうちょっと時間あるし、付き合ってあげる」


 タオルを首に引っ掛け直して微笑む岩渕さん。

 鷹塚さんの本性を見抜く力はなかったけれど、オレが好きになった人はちゃんといい人で安心してしまう。

 だからこそ、岩渕さんに余計な負担を背負わせたくなかった。


「ううん。いいんだ。岩渕さんと話せたおかげでほとんど解決したから」


 鷹塚さんから迫られようが関係ない。

 岩渕さんを好きな気持ちを強く持ち続けて、鷹塚さんの誘惑なんて跳ね返せばいいだけなのだから。

 すべてはオレの心持ち次第だ。

 岩渕さんが近くにいてくれる限り、オレは負けない!


「えー、ホント? ちょこっと話しただけなのに?」

「ううん。岩渕さんがいてくれるだけでオレの力になるっていうか……あっ」


 言いかけて気づく。

 なんて恥ずかしいことを言っちゃってるんだろう……。

 オレにとって岩渕さんは特別な存在だけど、岩渕さんからすればオレはただのクラスメイトの一人でしかないっていうのに。


「そっか。そういえばよく見たら、もう悩んでますって顔してないもんね。よかった。葉山くんの役に立てたみたいで」


 自分のことのように嬉しそうに微笑んでくれる岩渕さんを前にすると、やっぱりいい人だと思えた。


「うん。岩渕さんのおかげ。オレ、頑張るよ。岩渕さんのために!」

「えっ、私に関係あることなの? よくわかんないけど、じゃあ私も応援しないとね。ああ、そだ。これ貸してあげる。実はこれ縁起物でね、初めての大会で勝ったときに使ってたやつなの」


 そう言って、岩渕さんは首に引っ掛けていた赤いタオルをオレの首元に巻いてくれる。

 なんて大胆なことをしてくるのだろう。

 岩渕さんの尊い髪を拭った聖遺物とも呼べるタオルからは、汗とは違う仄かな甘い匂いが漂っていて、頭が働くことを拒否してしまいそうだった。

 うわ、オレってばまたキモいことを……!

 オレも煩悩という意味では鷹塚さんのことを言えないのかもしれない……。


「あの、嬉しいんだけど、そんな縁起物を貸してもらうわけにはいかないよ」


 慌ててオレは岩渕さんにタオルを返す。こんなタオルを首に巻いていたら、終始岩渕さんに抱きしめられているみたいで落ち着かない。上の空で歩いて帰り道に事故ってしまいそうだ。


「気持ちだけでも嬉しから……ありがとう」

「そっかー。じゃあ今度別の方法で応援してあげるね。うーん、何がいいかなー」


 タオルを手にした岩渕さんは、再び自分の首に引っ掛け直す。


「まあ色々考えとくね。じゃあ私、練習に戻るから」

「うん。話聞いてくれてありがとう」

「いいのいいの。クラスメイトだもん。これくらいはね。じゃあね」


 岩渕さんは体育館へ戻っていき、ボールを手にして練習を再開した。

 オレは思わず両手の頬に当ててしまう。


「やば……岩渕さん、好き……」


 ついさっきまでニコニコしながら話していた姿と違い、やっぱり彼女はコートの中に入ると人が変わる。チームメイトにバシバシ指示を飛ばしながら、周囲をもり立てて練習を有意義なものにする姿からは、あるべき真のリーダーシップを感じてしまう。

 鷹塚さんみたいなただ強引なだけの人とは違うんだよね。

 惚れ直すオレは、体育館で岩渕さんが躍動する姿を網膜に焼き付けるべく観察し続けようとするのだが、タイムセールのことを思い出して慌てて学校を出た。

 岩渕さんのことも大事だけど、やっぱり妹たちのことを蔑ろにするわけにはいかないからね。

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