3
「何にするか決まったか?」
中間テストが終わったその日。塾から家に帰ると本当に、お父さんが晩ご飯を食べにファミリーレストランに連れてきてくれた。
何ヶ月ぶりかの家族での食事に、隣に座るお姉ちゃんは嬉しそうで、
「決まった。ケイは?」
終始ニコニコと笑顔を絶やさない。
わたしが小さく頷くと、お父さんはテーブルに備え付けてある呼び鈴を押し、程なくして店員さんが注文を聞きにきた。
「ステーキセットと――…お前達は?」
お父さんの視線が店員さんからわたし達に移る。
「デミグラスハンバーグのセットと、ドリンクバー」
お姉ちゃんはメニュー表を見ながらそう注文して、見ていたメニュー表をわたしに差し出し、
「同じ物をお願いします」
メニュー表も見ずに店員さんに視線を向けたわたしに、店員さんは「ご注文を繰り返します」と笑顔で答えた。
先に運ばれてきたドリンクバー用のグラスを持ち、お姉ちゃんとドリンクバーへと向かう。
種類豊富なその中から、わたしが選ぶのは決まってる。
お姉ちゃんが紅茶をグラスに入れた後、わたしも紅茶をグラスに入れた。
テーブルに戻るとお姉ちゃんは楽しそうにお父さんに話し掛け、それに答えるお父さんも久しぶりの家族
幸せそうな家族がいる。
“それ”がわたしの目の前にある。
「ケイは中間テストはどうだった?」
「はい。頑張りました」
「そうか。……うん。それならいい」
「はい。これからも頑張ります」
お父さんの質問にわたしがそう答えた時、丁度注文した品が運ばれて来て、みんなの視線が店員さんに向けられた。
その一瞬。
視線を店員さんに向けるお父さんの顔が一瞬、わたしの事が手に余るといった表情になったのは仕方のない事で、決してお父さんは悪くない。
どちらかと言えば悪いのは、わたしの方なんだから。
注文したハンバーグセットが目の前に置かれる。
本当はオムライスが食べたかった。
食事を終えてファミリーレストランを出ると、少しだけ街が雰囲気を変えていた。
22時を過ぎるとこの街の駅前は雰囲気を変える。
でもそれは北側以外の場所だけで、“underworld”の陰気さは昼も夜も変わらない。
街の雰囲気が変わるのは人が変わるからで、子供の姿がなくなった駅前には、素行の悪そうな人たちや酔っ払いで溢れ返る。
それでもやっぱり華やかで、“underworld”とは違う雰囲気に少し胸が躍る反面、馴染めないと思ってしまう。
わたしはどちらかと言えば“underworld”の寄りの人間らしい。
あの道を通ってばっかりいる所為か、いつの間にかわたしにも“underworld”が染み付いてるようだ。
それでもある意味わたしには、そっちの方が似合ってる。
駅前から伸びている、大きな車道の向こう側。
何気に目を向けたそこに、ヤシマさんの姿を見つけた。
数人の男女と一緒にいるヤシマさん。
周りにいる女の人たちは水商売の人らしく、綺麗なスーツに身を包み、髪を揺らししなやかに動く。
それに対して違和感を感じたのは、ヤシマさんが楽しげに笑っているからじゃなく、“underworld”じゃない場所にヤシマさんがいたからで、何故かそこにいるヤシマさんがしっくりとこない。
「ケイ、行くよ!」
「はい」
ボーッと向こう側を眺めていたわたしは、お姉ちゃんの声に我に帰り、既に歩き出していたお父さん達に急いで駆け寄った。
家に着いて携帯を見ると、彼氏からメールが入ってた。
テスト今日で終わりだろ?
明日の放課後遊びにこいよ
そのメールを見て何故かホッとしてしまうのは、テスト期間で神経が張り詰めていた所為かもしれない。
『行きます』と返事をしてから、お風呂に入ったわたしは、リビングにいたお父さんとお姉ちゃんに今日のお礼と「おやすみなさい」を言って早々に布団に入った。
布団に入ってからも中々寝付けなかったのは、やっぱり神経が張り詰めていた所為だと思う。
目を閉じて下らない事を考える。
“卵が先か鶏が先か”
そんな事を延々と考えてる内に、わたしはいつの間にか深い眠りに堕ちていた。
彼氏と付き合い始めたのは中学の時。
あれは確かヤシマさんと出会って少し経った頃だったと思う。
駅前で声を掛けてきた彼氏は、わたしの2つ年上だった。
彼氏は出会った時からずっと駅の西側で一人暮らしをしていて、「どうして一人で住んでいるんですか?」と
そんな事を笑って言えてしまう彼を凄いと思った。
門限があるから彼氏と会うには塾を休まないといけなくて、だからわたしは学校が終わると、塾の前に立っていた。
その仕組みは分からない。
どういうカラクリがあるのかは知らない。
全く仕掛けは分からないけど、こうして塾の前に立っていると――…
「あ、ヤシマさん。こんにちは」
…――ヤシマさんが現れる。
それは日によって待ち時間は違うけど、必ずと言っていい程ヤシマさんは現れる。
連絡先も知らないヤシマさんに、わたしから会う方法はこれしかない。
塾の前で待ち続ける。
ただそれだけでいい。
わたしにはそれが心地良かった。
上手く説明は出来ないけど、よく分からないこの関係を更によく分からなくさせるヤシマさんの行動が至極心地良かった。
物事に理由を付けるのが好きじゃない。
訳が分からない事が多い方が楽しく過ごせる。
だって“これ”に答えを求めなければ、まるでヤシマさんは映画やアニメのスーパーヒーローみたいだ。
どこから現れたのか、今の今までどこにいたのか、全く分からないヤシマさんはわたし目の前で足を止めると小さく頭を下げ、その鈍色がかった瞳でわたしを見下ろす。
それを合図にわたしは口を開き、
「今日は彼氏の所に行くので塾はお休みします」
いつもの如くそれを告げた。
「……分かった」
数秒の間を作ってからヤシマさんは素っ気無くそう答え、スッと踵を返すと人混みに消えていく。
それは本当に
どこまでも不思議な人だなと感心しながら、わたしはすぐに西へと向かった。
彼氏の住むアパートは、駅の西側といっても結構駅から離れていて、駅周辺から始められた都市開発は、彼氏の住む場所までは手を伸ばさず、未だこの辺りは元の形を残してる。
彼氏が住んでる古い木造のアパートは、今時珍しくお風呂が共同で、アパートというより下宿場に近い造りになっていた。
それもそのはず昔ここは、本当にどこかの会社の下宿場だったらしい。
「どうしてこんな所に住んでいるんですか?」と尋ねたら、「金がないから」と彼氏は笑ってた。
ここの家賃は1万5千円で、取り壊しまでは居座るつもりらしい。
都市開発がここまで来てたら、きっと一番に取り壊されていたと思う。
それでもこの、いつ取り壊されてもおかしくないような古いアパートは、“underworld”より雰囲気がいい。
どれだけ足を忍ばせてもミシリミシリと鳴る薄暗い階段を、なるべく音を立てないように上った。
ドアノブが取れたり穴が開いてたりするドアの前を通り過ぎ、一番奥の部屋の前でわたしは足を止める。
ここにある中じゃ一番マシなドアの前に立ち、トントンとノックすると「おぅ」と声が聞こえて、
「ケイだろ?入れよ」
くぐもった声が続く。
「お邪魔します」
小さくそう言ってドアノブに手を掛け回すと、少し
お世辞にも綺麗だとも広いとも言えない
正面にある唯一の窓にはカーテンすらない。
そんな今時存在しいえないような場所に、わたしの彼氏は住んでいる。
ここだけ時が……というよりは、時代が止まってるようだった。
「なんだ?どうした?」
ぼんやりと部屋の前に突っ立っていたわたしに、彼氏は不思議そうな声で問い掛け腰を上げる。
いつも部屋の真ん中の万年布団の上に座ってテレビを見ているわたしの彼氏は、シュウイチローという名前で、聞いた話だと次男なのに何故か“イチロー”と付けられたらしい。
でもお兄さんにも“イチロー”と付いてるらしくて、「俺の親は頭が悪い」と笑ってた。
笑ってたけど“イチロー”の部分はいらないから「シュウ」と呼ぶようにと付き合った当初強く言われた。
「入れよ」
「はい」
シュウさんはわたしの目の前で横に逸れ、シンクに近付くと前にあるコップに手を伸ばし水を入れる。
それをゴクゴクと音を鳴らして飲み干すと、わたしを見てニッと笑った。
笑うと頬に
シュウさんは幼い子供のように無邪気に笑い、毛先が少しだけカールしたくせ毛を揺らして、また万年床の上に座る。
シュウさんは2週間程会わない間に、少し痩せたようだった。
元々細い体が更に細くなったように思える。
余計な物は何もない部屋。
万年床とテレビと小さなテーブル。
箪笥はなくて、服は全部押し入れに放り込まれてるけど、それも大した量はない。
小さな冷蔵庫もあるけどその中に、食べ物が入っていた
わたしは万年床に座るシュウさんの斜め前に腰を下ろす。
一応布団の上は避けたつもりだったけど、ペチャンコの布団じゃその境目が分からなくて、左足が少しだけ布団の上に載ってしまった。
「ケイ」
「はい」
「お勉強?」
「はい」
鞄の中から参考書とノートを取り出すわたしに、シュウさんはおどけた声を出してくる。
そしてその手がスッと伸びて、わたしの頭の上に優しく置かれ、
「ケイはいい子だなぁ」
クシャクシャと撫でてくれるから、自然と口元に笑みが
特に何もない部屋でする事は何もない。
もしかするとそれはただの罪悪感からなのかもしれない。
塾を休んでしまったからと心のどこかで反省しているのか、わたしはシュウさんの家に来ても、いつも勉強ばかりしている。
だけどシュウさんは何も言わない。
それどころか「ケイはいい子」だといつも必ず褒めてくれる。
シュウさんは高校にも行かず、ずっとフラフラしてたらしい。
それが原因で家を追い出され、今でもシュウさんはフラフラしてる。
たまに“先輩”っていう人の仕事も手伝っていて、わたしもたまにその“仕事”をお手伝いする時がある。
……ただわたしは、お手伝いが余り好きじゃない。
だけどシュウさんもそんなわたしの気持ちを知ってるから、滅多にお手伝いをさせたりしない。
本当に切羽詰った時だけしかわたしに頼んでこない。
最後にお手伝いをしたのは確か……1ヶ月くらい前だったと思う。
「兎に角勉強が嫌いだった」というシュウさんは、わたしがしてる勉強がさっぱり分からないらしい。
だからわたしの事を「天才だ」とか「頭が良すぎる」とか、散々褒めちぎって感心する。
「一緒に勉強しますか?」と尋ねたら、「死んでも嫌だ」と笑ってた。
「ケイ」
「はい」
「いつも言ってるだろ?ノートに顔近付けすぎ」
「あ……」
「目悪くなるぞ?」
「でも、」
「まぁいいや。それより腹減らない?」
窓から射し込んでいた陽の光が茜色に変わった頃、それまで黙ってテレビを見ていたシュウさんの視線が向けられた。
実際わたしはノートを見ていて、シュウさんの顔は見えないけど、明らかにわたしの方を見てるんだと、その視線を感じる。
だからわたしは鞄から財布を取り出し、ゆっくりと腰を上げた。
「お弁当買ってきます」
「俺、唐揚げ弁当」
「はい」
「あ、ウーロン茶も買ってきて」
「はい」
「でっかいの。ペットボトルのでっかいの」
「はい」
「あ、ケイ!」
「はい」
「やっぱハンバーグ弁当」
「はい」
注文の変更を背中で聞いて、振り返り返事をしたわたしは、部屋のドアを静かに閉めた。
夕陽でオレンジ色に染まったアパートを出て、10分程で着くお弁当屋さんに向かいながら、また下らない事を考えていた。
不意に頭に浮かんだ“お化けトンネル”。
あれは……あの天井の落書きは一体どうやって描かれたんだろう。
手が届きそうで届かない天井。
でももしかしたらヤシマさんなら、ヤシマさんくらいの身長なら、目一杯腕を伸ばせば届くのかもしれない。
明日ヤシマさんにお願いして、腕を伸ばしてもらおうなんて、そんな事を考えていた。
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