「また明日」


 にこやかにそう挨拶して、わたしはその部屋を出た。



 駅前の雑居ビルの中にある進学塾。



 ここは引っ越ししてきた当初から通い続けている塾で、このビルもまた都市開発を機に建て直された。



 通い始めた頃はコンクリートむき出しの小汚いビルだったけど、今はレンガ調のお洒落な外壁になってエレベーターまでついている。



 ビルの3階にある進学塾を出て、廊下でエレベーターを待つ人たちに混じる。



 さっき挨拶した友人は、この後まだ1時間他の授業を受けるらしい。



 チンッという軽快な音と共に目の前のエレベーターのドアが開き、待っていた人たちが流れるようにエレベーターに入っていく中、わたしもその人波に加わった。



 狭い空間にブーンという機械音が響き、ゆっくりと箱が下降していく感覚に軽い眩暈めまいを覚える。



 わたしは閉所恐怖症なのかもしれない。



 今の今まで自分でそう認識した事はなかったけど、そう思って考えてみれば、狭い場所や人の多い場所にいると息切れがする。



 だからこのエレベーターも人の多さに密度が増し、不快な思いと眩暈をわたしに与えてくるのかもしれない。



 2度目のチンッという軽快な音に、わたしは救われたような気持ちになった。



 入った時と同じように人波に紛れエレベーターから降りると、目の前に観音かんのん開きになった大きなガラスの扉が現れる。



 わたしはその向こうにいる男性を視界で捕らえた。



 雑居ビルの前に立つ男性。



 わたしはこの人の名前しか知らない。



 それ以外に知ってる事と言えば、視力がある人なら誰にでも言える事で、襟足の短い茶色い髪に目鼻立ちの整った顔。長身の身の丈にがっしりとした体つき。



 俯かせていた顔を外へと出てくる人の気配に上げると見える、手入れされた眉と切れ長の目。



 そしてその鈍色にびいろがかった瞳が捕らえるのは、丁度雑居ビルを出たわたしの姿。



「こんばんは」


 小さくお辞儀をして近付くわたしに、彼は何も言わない。



 ただ小さく頭を下げるだけで、すぐにその目を逸らし歩き始める。



 その態度や行動にもう慣れ親しんでいるわたしは、彼の後をついて行くように駅前を北へと歩きだした。



 5歩ほどの距離を取って、目の前を歩く彼の名前は“ヤシマ”さんという。



 出会った当初は何故か周りに「ハナヤ」と呼ばれていて、わたしはずっと彼の名前が“ハナヤ”さんだと思っていた。



 数ヶ月間「ハナヤさん」と呼び掛け続けたわたしに、彼は「ヤシマです」と小さな声で教えてくれた。



 その時の彼はほんの少し恥ずかしそうな態度だった。



 彼に……ヤシマさんに出会ったのは、確かわたしが中学生の時だったと思う。



 そして何故か出会った次の日から、こうして時間を共有する事になった。



 どうしてなのかわたしには分からない。



 分からないけどヤシマさんは毎日のように塾の前にいる。



 最初の頃はこんな形じゃなく、ヤシマさんはわたしの後ろをついて来ていた。



 数歩の距離を置いて黙ってついて来るヤシマさんを不気味に感じたのは確かだった。



 だけどそれが毎日続き、特に何か変な事をしてくる気配はないヤシマさんに、「出来れば前を歩いて欲しい」とお願いをした翌日から、ヤシマさんはわたしの前を歩いてくれるようになった。



 といってもそれを言えるまで、数ヶ月掛かったけど。



 わたし達は特に会話を交わす訳でもなく――…むしろ無言のまま歩き続ける。



 もう何年もこうした日々を過ごしている。



 だからこれはわたしの日常の一つで、他人からすれば気味の悪い事だとしても、わたしにはもうそういう感覚はない。



 何よりヤシマさんにこうして“送ってもらう”事で、夜の所為で陰気さを増す“underworld”を安心して通り抜けられる。



“underworld”の中心とも言える賑やか通りを抜けると、突然辺りの景色が閑散かんさんとする。



 数年前まで並んでた民家は潰され、本当は建つはずだった物が建たず仕舞いで、ただの空き地と化した場所が続いてる。



 ポツポツと残ってる家はあるけど、この辺りは外灯も少なくて妙に薄気味悪い。



 北側にはこうした都市開発の爪あとが未だに酷く残ってる。



“お化けトンネル”もその一つだった。



 その上に何を作ろうとしたのか分からないけど、高架が出来た。



 50Mほどあるその高架も工事半ばで終わる事を余儀なくされ、今じゃただの薄暗いトンネルみたいな部分だけが残ってる。



 高架の中は殆ど電気もなく、夕方になると視界が悪い。



 夏でも中はひんやりしていて、歩く靴音が響いて気味が悪いその高架を、いつの間にかこの界隈かいわいの人たちは“お化けトンネル”と名付けた。



 お化けトンネルの側壁は、誰かが書いた落書きだらけで、その落書きは天井にまで届いてるから不思議に思う。



 どうやって書いたんだろうとか、この落書きに意味はあるんだろうかとか、そんなどうでもいい事ばかりが気になってくる。



 アートといえばアートのような。



 ただの落書きだといえばただの落書きのような。



 センスがいいような悪いような。



 何だかよく分からないこの落書きが、“underworld”を象徴しているようだった。



 出来れば避けて通りたい“お化けトンネル”。



 だけどわたしの家は丁度、この“お化けトンネル”の向こう側にある。



“お化けトンネル”を通らなきゃ帰れない訳じゃないけど、ここを通った方が随分近いから、ヤシマさんがいる時は、こっちを通って帰る事にしてる。



 前を歩くヤシマさんの靴音が響く。



 その後をついて歩くわたしの靴音も響く。



 その靴音は丁度“お化けトンネル”が終わる場所でピタリと止まり、



「今日もありがとうございました」


 わたしがペコリとお辞儀をすると、また靴音がトンネルに響く。



 だけどその音はもう1つだけ。



 ヤシマさんが戻っていく1人分の靴音だけ。



 わたしはきびすを返すと目の前に建ち並ぶマンションへと走り出した。



 ここから家までの距離を安心して帰れるのにも訳がある。



 わたしが走り出した靴音がトンネル内に届き響くと、さっきまで聞こえてた靴音がピタリと止まる。



 ヤシマさんが振り返ってる。



 その視線を背中に感じる。



 それは毎回、こうして送ってもらう度に感じる視線。



 ヤシマさんはわたしがマンションの中に入るまで、ずっとそうして見送ってくれる。



 だからわたしは安心してマンションの中へと入っていける。



「ただいま帰りました」


「あ、おかえり」


 玄関のドアを開けてすぐの場所から聞こえてきた返事に、俯き加減だったわたしは驚き顔を上げた。



 目の前には丁度お風呂から出てきたらしいお姉ちゃんがいて、バスタオルで髪を拭きながらこっちを見てる。



「今日は早かったんですね」


「うん。晩ご飯あるよ」


 お姉ちゃんのその言葉に、「はい」と返事をしたわたしは、一旦自分の部屋に行き鞄を置いてリビングに向かった。





「中間試験どう?」


 食卓テーブルに並べられたお惣菜を食べるわたしの前に座り、お姉ちゃんはお茶を飲みながらまるで沈黙を嫌がるように話し掛けてくる。



「頑張ります」


 そう答えたわたしにお姉ちゃんはにっこりと微笑み、「無理しすぎないようにね」と呟いた。



「中間試験いつまでだっけ?」


「明後日です」


「丁度明後日お父さんが帰ってくるし、晩ご飯食べに連れてってもらおうか」


「はい」


「じゃあ、私は先に寝るね」


「おやすみなさい」


 スッと立ち上がったお姉ちゃんはお茶を飲んでたコップをキッチンに持って行き、「洗い物は置いておいて」とリビングを出ていった。



 パタンとリビングのドアが閉まると、急に訪れた静寂に何故か落ち着かない気分になる。



 ずっとそうだったのなら大して気にはならないけど、それまであった会話の所為で訪れた静けさが引き立てられる。



 静かなのが嫌いな訳じゃないけど、こういう静けさは嫌い。



 わたしは食べていた晩ご飯を早々はやばやと切り上げ、適当に食器を洗いお風呂場へと向かった。





 わたしの朝は早い。



 でもそれはむを得ない事で、通学時間が電車に乗っても1時間以上掛かるからそうするしかない。



 5時半に目覚ましが鳴り、布団の中でモゾモゾと動く。



 5分後に再び目覚ましが鳴ると、寝起きの重い体を無理矢理起き上がらせる。



 この生活リズムになってからもう3年以上経つけど、未だに朝は苦手だ。



 中学から通ってるエスカレーター式の私立学校は、ちまたでは進学校と言われる分類で、偏差値も高く毎日の授業について行くのも必死だったりする。



 だけどこの学校を選んだのはわたし自身で、誰に言われた訳でもない。



 あの頃のわたしは、そうするしかなかった。



 他のすべを知らなかった。



 ……それは今も変わらない。



 まだ寝てるお姉ちゃんが起きないように静かに部屋を出て、洗面所で顔を洗い朝食を作る。



 食パンの焼ける匂いがキッチンに広がり、カーテンを開けた窓の向こうのベランダで、昨夜干された洗濯物がユラユラ揺れるのを見つめながら、今日も晴れだと確信した。



 お母さんが死んだのはわたしが小学生の時。



 それから家族はお父さんとお姉ちゃんとわたしだけになった。



 ここに引っ越してきたのもその時で、お父さんがあの土地に……お母さんが死んだあの土地に居続けるのが辛いからって理由だった。



 その気持ちは痛い程分かる。



 わたし自身辛く思う。



 そこら中にお母さんの思い出があって、近所を歩いているだけで色んな事を思い出す。



 あの時のわたし達には、“新境地”が必要だった。



 お父さんは元々忙しい人だったけど、お母さんが死んでからその忙しさに拍車を掛けた。



 普段から帰りが遅く、会社に泊まる事も多いし、出張にもよく行く。



 もしかするとお父さんが仕事で忙しくしてるのは、お父さんなりの現実逃避なのかもしれない。



 お父さんは未だにお母さんの死を、誰よりも受け入れられていないのかもしれない。



 でもそれも仕方ないと思う。



 お母さんとお父さんは凄く仲が良かった。



 お父さんが余り家に帰って来ないから、わたしは5つ上のお姉ちゃんと2人暮らしのような生活をしてる。



 大学生のお姉ちゃんが、お母さんの死をどう受け入れてるのかは知らない。



 特別何かを言われた訳じゃないけどこの家は、お母さんの話題を口にしないのが暗黙の了解になっている。



 朝ご飯を食べ終わり少しボーッとした時間を過ごす。



 わたしは余りキビキビと動けるタイプじゃなく、どちらかと言えばのんびり屋なのかもしれない。



 特に朝は動きが鈍くて、その所為で早起きを余儀なくされる。



 家を出るのは6時45分。



 いつも決まってこの時間。



 丁度わたしが家を出る頃、お姉ちゃんが起きてくる。



「おはよう」


 眠そうに目を擦りながら部屋から出てきたお姉ちゃんに、



「おはようございます。いってきます」


 わたしは笑顔でそう告げて、玄関のドアを開ける。



 開けたドアの向こうから射し込む朝日がやけに眩しくて、わたしは反射的に目を細め外へと一歩を踏み出した。



「おはよう、ケイちゃん」


 玄関のドアを閉めたと同時に聞こえてくる挨拶は、隣の部屋に住む大学生のヒロキさんの声。



 いつも同じ時間に家を出るヒロキさんとの挨拶は、毎朝の恒例になっている。



「おはようございます」


 ヒロキさんの方へ顔を向けて挨拶すると、ヒロキさんは眠そうな顔で家から出てきて、「いい天気だね」と欠伸あくび混じりに優しく笑った。



 どちらから誘うでもなく、わたしとヒロキさんは並んでマンションの廊下を歩く。



 恒例なのは挨拶だけじゃなく、駅まで一緒に行くのも毎朝の恒例。



 エレベーターを降り、マンションを出て“お化けトンネル”を通り、わたしとヒロキさんは他愛もない話をしながら駅へと向かう。



 1時間以上も電車に揺られて学校に着くと、テスト期間という事もあってか、教室にいるクラスメイト達はみんな参考書を開いていた。



 エスカレーター式のこの学校の顔ぶれは、中学の時から変わらない。



 変わったのは制服と先生だけで、学校がある敷地も変わらない。



「おはよう、ケイちゃん」


「おはようございます」


 友達はいる。



「テスト勉強してきた?」


「塾で少しだけしました」


 だけど世間一般で言われてる“友達”とは、少し違う気がする。



「家ではしなかったの?」


「はい。寝てしまいました」


 進学校特有なのか、この学校特有なのか、足の引っ張り合いとまではいかないけど、みんながみんな腹の探り合いをしてる。



 相手がどれくらい勉強してるのか、自分とどれくらい差があるのか、みんなそれが気になって仕方ないらしい。



 でもそれがこの学校のいい所なのかもしれない。



 少なくてもわたしはこの学校の、成績で優劣の順位をつけるという明快な部分を気に入ってる。





 学校が終わるとその足で、真っ直ぐ塾に向かう。



 テスト期間は午前中で学校が終わるから、塾で過ごす時間が長くなる。



 塾にも友達はいる。



 だけどここでもみんな同じで、どこか腹の探り合いをしてる。



 成績で優劣の順位を決めるこの進学塾もわたしは気に入ってる。



 完全に陽が暮れるまで塾で過ごす。



 夜のとばりが下りる頃、わたしは塾を後にする。



 塾の前にヤシマさんがいる。



 わたしを見つけて歩き出す。



 その後ろをついて行く。



 もうすぐわたしの一日が終わる。



 ヤシマさんと過ごす静かな時間は嫌いじゃない。



 お互い何も言わず、ただ黙々と歩いてるこの時間が今ではわたしには必要なのかもしれない。



 最初から静かならそれでいい。



 突然の静寂が落ち着かないだけ。



 世界にポツンと一人きりにされたような、あの感覚が凄く苦手。



 だからヤシマさんと着く帰路の時間は、好きな分類かもしれない。



 それに決して絶対に話さないって訳じゃない。



「あの、」


“お化けトンネル”の終わりに来て、踵を返したヤシマさんに呼び掛けると、ヤシマさんは足を止め、ゆっくりと振り返る。



「お話いいですか?」


 その問い掛けに返事はないけど、ヤシマさんはわたしを見下ろし“聞く”体勢に入ってくれる。



 滅多に話し掛ける事はないけど、話し掛ければこうしてちゃんと、ヤシマさんは聞いてくれる。



「わたし、高校生になったんです」


「……」


「この春から」



 そして。



「……知ってる」


「え?」


「制服。……変わったろ」


 素っ気無い内容だけど、優しい低音をわたしに届けてくれる。



 こうして応えてくれるヤシマさんを、わたしは結構気に入ってる。



 どうしてこんな話をヤシマさんにしてしまったのか、自分でもはっきりとは分からないけど、きっと中間テスト期間の所為で、ここ2週間程彼氏に会ってないからだと思う。



 わたしは自分でも気付かない内に、寂しいと思っていたのかもしれない。



 ヤシマさんに高校生になったと告げたのは、高校に入ってから1ヶ月以上が経った、5月中旬の事だった。

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