シュウさんとお弁当を食べて、少し勉強をした後は、万年床でシュウさんに抱かれる。



 だけどそれはある意味では、帰宅の合図でもある。



 確かにわたしの勝手な解釈だけど、シュウさんのアパートのお風呂に入るのはどうしても躊躇ちゅうちょしてしまい、結局シュウさんの匂いが消えぬ間にわたしは帰路に着いた。



 西側からなら“お化けトンネル”を通らずに帰れるわたしは、星の瞬く夜空の下を一人で家に向かって歩く。



 ヤシマさんと一緒に帰るのに比べ、一人で帰る道のりはやけに長く感じる。



 どちらかと言えばいつもより、距離としては短いのに。



 ……やっぱり一人というものは妙に寂しい。



 会話があるなしというのは然程さほど関係ないのかも知れない。


 関係あるのは“いる”か“いない”かで、その存在があればそれなりに寂しさなんてものは感じないのかも知れない。



 だって現にわたしは今、言いようのない寂しさに襲われている。



 靴音が夜道に響く。



 それはまるでわたしを追い掛けてくるようで、焦燥しょうそう感に煽られる。



 いつの間にか小走りになっていたわたしがマンションの下に着いた時には、軽い息切れを起こしていた。




「ただいま帰りました」


 誰もいない家の玄関先に虚しくわたしの声が響く。



 基本的にはこの家で、わたしの帰りが一番早い。



 だから門限なんてものは、あってないようなものなのに、それでも律儀に守っているのは、わたしが……



 わたしが――…



 トントンと短いノック音の後、カチャリと自室のドアが開いた。



「はい」とも「どうぞ」とも言っていないのに、ドアが開く。



 机に向かって勉強していたわたしが、背後で開いたドアの方へと振り向くと、そこにはお姉ちゃんが立っていて、



「ただいま」


 申し訳程度に隙間から、お姉ちゃんが顔を覗かせていた。



「おかえりなさい」


 時計を見遣ると23時前。



 勉強に集中していた所為か、お姉ちゃんが帰ってきた事に気付かなかったわたしが、持っていたペンを机に置き、体ごとドアの方に向き直ると、お姉ちゃんは眼鏡のブリッジをクッと中指で上げ遠慮がちに微笑む。



「勉強?」


「はい」


「頑張ってるね」


「はい。頑張ります」


「分からない所があったら聞いて?」


「はい。ありがとうございます」


「勉強もいいけど、早く寝なさいね?」


「はい」


「じゃあ……私はお風呂に入ってくる」


「はい」


「あぁ、それから」


「はい」


「姿勢良くして勉強しないと目が悪くなるわよ」


「はい」


 返事をした直後、バタンとドアが閉まる。



 開いた時よりも明らかに力強いその音に、少し嫌悪感を抱く。



 でも本当に嫌悪してるのは、自分自身になのかもしれない。



 いくら勉強をしても頭が良くならない。



 勉強をして頭に入れた分だけ、覚えてた物が消えていく気がする。



 だから勉強すればする程、嫌悪感にさいなまれる。

 なのにわたしは勉強する事を辞められない。



 そもそもの頭の作りが良くないのかもしれない。



 わたしの頭は恐ろしく悪い。





「ヒロキさん。お願いがあるんですけど」


「ん?」


 お隣に住んでるヒロキさんと駅まで行くいつもの朝の道のり。



“お化けトンネル”の中央部分まで来たわたしは足を止め、隣にいるヒロキさんをチラリと見てから天井を見上げた。



 ほんの数センチの差だけど、それでもヒロキさんはわたしよりも幾分か身長が高く、わたしが人差し指で天井を指差し、



「腕をこう……いっぱいに伸ばすと、天井に手が届きますか?」


 疑問を投げ掛けると、ヒロキさんは一瞬きょとんとしてから天井を見上げる。



「無理だと思うよ?」


「無理……ですか?」


「うん。だって……ほら」


 高々と、いっぱいに伸ばされたヒロキさんの腕は、指先で空を切り元の位置に戻ってくる。



「ね?」


「はい」


 一瞬の出来事に、後どれくらい長さが足りなかったのか分からなかったけど、後もう少しで届くような気がした。



 だからきっとヤシマさんなら……ヒロキさんより背の高いヤシマさんなら、天井に手が届く気がする。



「天井に何かあるの?」


「えっと……その落書きが……」


「落書き?」


「はい。天井にある落書きが気になって……」


「ん?」


「どうやって描いたのかなって」


 立ち止まったまま2人で見上げる落書きは、やっぱり良く分からない。



 アートのような、ただの落書きのような、意味があるような、意味がないような、何度見ても分からない落書きがそこにある。



「これはアレでしょ」


「はい?」


脚立きゃたつか何かに上って描いたんだよ」


「はぁ……」


「じゃないと無理だと思うよ?」


「……それは、」


「ん?」


「それは思い付きませんでした」


 ヒロキさんの意外な答えに、そうは返事してみたものの、未だヤシマさんに腕を伸ばしてもらおうと思ってるわたしは、ヒロキさんの答えに納得していないのかもしれない。



 だけどそこまで思っていたにもかかわらず、わたしはそれを忘れていた。



 繰り返される日常の中、いつでも聞けるという意識があった所為かもしれない。



 ヤシマさんとは毎日のように一緒に“お化けトンネル”を通るけど、わたしはすっかり忘れていて、時折それを思い出しても、家に帰ってからだったりした。





 ――…気が付くと6月に入り、空気が湿気を帯び始めた。



 梅雨時期に入り、世界が少しだけ景色を変える。



 霧がかったような、少しぼやけた世界になる。



 梅雨の雨は憂鬱だけど、6月は好きだった。



 誕生日がある。



 わたしはもうすぐ16歳になる。



 誕生日に浮かれるなんて柄じゃないかも知れないけど、唯一我儘を……というよりは、欲しい物を素直に言える誕生日が昔から大好きだった。



 欲しい物がある。



 誕生石のピアスが欲しい。



 お姉ちゃんも16歳の時にピアスをしたから、わたしも16歳の誕生日には、お父さんにそれをお願いするってずっと前から決めていた。



 ピアスをすると運命が変わるらしい。



 ならわたしの運命も少し変わってくれるかも知れない。



 そんな淡い期待から、自分で立てた計画にすっかり舞い上がっていたわたしに、“それ”が舞い込んできたのは誕生日の1週間前の事だった。





「……え?」


 その声は震え、直後に小刻みに体が震え始める。



 聞き返した理由は聞こえなかった訳じゃなく、聞き間違いだと思いたい一心からだった。



 震え始めた体には、シュウさんの巻き付く腕。



 甘えるように体をすり寄せ、肩口に顔を埋める。



 もっと早く気付くべきだった。



 家に来てからシュウさんはずっと、妙にわたしにくっ付いていた。



「あの……」


「助けてくれよ」


 紡ぎかけたわたしの言葉は、低く悲壮漂う声に掻き消される。



 やっぱり聞き間違いではないらしい。



 シュウさんは切羽詰った状況にいる。



「無くしたんだよ」


「……」


「売れって言われたのに無くしたんだよ」


「……」


「なぁ、ケイ」


 肩口に埋めていた顔を首元まで移動させ、甘えたような声を出し耳元で囁く。



 いつも通りのその行動に、シュウさんの言いたい事は明白で、



「はい」


 わたしにはそう返事する他ない。



「助けてくれよ」


「はい」


「絶対来週には何とかするから」


「はい」


「誰かに金借りて、どうにか穴埋めするから」


「はい」


「先輩に口で――…」



 ……お口で。



 わたしがシュウさんをお手伝いする方法はそれしかない。



 シュウさんの“先輩”に、集金の期限を延ばしてもらう為に“お口でのご奉仕”をする。



 外は雨が降っていた。



 雨音がやけに大きく聞こえた。



 雨音に混じるシュウさんの言葉は、いつもと同じ言葉だった。



「ヤらせはしない」


「口でするだけでいい」


「5万足りない」


「絶対何とかする」


「ごめんな、ケイ」


「頼れるのはお前だけだ」


 聞き慣れた言葉が連ねられる。



 帰り際、凄く申し訳なさそうに「明後日頼むよ」とシュウさんは言った。



 ……外は雨が降っていた。





 翌日も雨はやまなかった。



 むしろ前日よりも雨足は、更に激しくなっていた。



 塾がある雑居ビルの前に、雨の日には大きい黒の蝙蝠こうもり傘を挿してたたずむヤシマさんは、いつもと変わらずわたしを見つけ、ゆっくりと歩きだす。



 その後ろをついて行きながら、変わり映えしないこの穏やかな時間がずっと続けばいいのにと思った。




「お話いいですか?」


“お化けトンネル”の出口に立ち、小さく呟いたわたしの言葉は、激しい雨音に掻き消されたかと思ったけど、きちんとヤシマさんに伝わった。



 足を止め振り返り、わたしを見下ろすヤシマさんはやっぱりいつもと変わりなく、わたしを安心させてくれる。



 ポタポタと傘に雨が当たる。



 その音がやけに篭って耳に届く。



「わたし、目が悪くなりたかったんです」


「……」


「眼鏡が掛けたかったんです」


「……」


「だからいつも勉強する時、ノートに顔を近付けてるんです」


「……」


「だけど目は悪くならなくて」


「……」


「全然悪くなってくれなくて」


「……」


「……」


「……」


 取り留めのない言葉を吐き続けるわたしを、ヤシマさんは顔色一つ変えずに見ている。



 答えを求めてるんじゃないとヤシマさんは気付いてるのかもしれない。



 これはただの愚痴でしかない。



 他人には分からない愚痴でしかない。



「……残念です」


 ポツンと呟いた言葉は、傘から篭って抜け出して、トンネルの中に妙に響く。



 響いた直後に訪れるのは、嫌いな静寂。



「……」


「……」


 だけど。



「……眼鏡は、」


 その嫌いな静寂をヤシマさんは破ってくれる。



「あんたに眼鏡は似合わない」


「……でも掛けたかったんです」


「あんたはそのままでいい」


「掛けたいんです」


「目はちゃんと見えてる方がいい」


「でも、」


 でもわたしは、ずっとお姉ちゃんみたいになりたかった。



 皆が芸能人やモデルに憧れているように、果ては将来の夢の如く、わたしはお姉ちゃんに憧れて、あんな風になりたいって……ずっと、今でもそう願ってるのに、目が悪くなる事さえ叶えられない。



 何をしてもどうしても、結局わたしはわたしでしかなく、所詮わたしみたいな人間はお姉ちゃんのようにはなれない。

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