ブラックコーヒー


 目が覚めたのは窓から射し込む朝の日差しの所為だけじゃない。



「……ん……っ」


 まぶたを少しだけ開いてすぐ、朝の日差しの眩しさに目を細めた。



 裸体に絡まるシーツの感触と、彼独特の匂いが私の全てを包み込む。



 今日が休みで良かったと思うのは、体に気だるさが残るからで、出来れば今日は一日中ずっとベッドの上でゴロゴロしていたい。



 それでも再び閉じた瞼を開いたのは、目覚めた要因の一つがすぐ傍にあると気付いたから。



 実際は“ある”じゃなく、“いる”。



 彼の気配が傍にある。



「起きてたの?」


 ベッドの端に腰掛けて、上半身裸のままこっちに背を向ける彼に、シーツを引っ張り巻き付けながら起き上がり声を掛けると、彼はゆっくりと振り返る。



「ん?あー…、悪い。起こしたか」


 振り返った彼は満面の笑みを浮かべ、ベッドから腰を上げた。



 人懐っこいような、悪戯いたずらっ子のような、そんな笑みを浮かべる彼の背中は、何故か哀愁漂うような寂しげな雰囲気を醸し出す。



 それに気付いてる女が何人いるのか分からないけど、私は彼のそのギャップに惹かれているのかもしれない。



 数えるのも面倒なくらい“そういう”女がいる彼の、私は多分古株で……今じゃ一番の古株かもしれない。



 彼はまるで野良猫のように、フラッと目の前に現れる。



 1ヶ月以上顔を見せない時もあれば、会った翌日も現れる時もある。



「楽しまねぇ?」


 そう言って私の仕事場に顔を出す彼を拒めないのは、この年になって抱く淡い恋心の所為せいだろう。



 彼の事は余り知らない。



 年下って分かるけど、実際年齢を聞いた訳じゃない。



 何処どこに住んでいるのかも知らず、いつも一人暮らしの私の家に泊まってく。



 名前も聞いたけど本当の名前なのかさえ分からない。



 分かってるのは1人じゃ眠れない事と、時折寂しそうな表情をする事。



 そして。



「珈琲飲む?」


「おぅ。ブラックな」


 ブラックコーヒーが好きだって事。



 ベッドの下に落ちていた下着を手に取り、シーツで隠しながら体に着ける私を、彼は一切見る事はなくまた背中を向けてぼんやりとたたずむ。



 こうして一緒の時間を過ごしているのに、彼はいつもどこか寂しげで、



「何か食べる?」


「いや、珈琲飲んだら帰る」


 必ず朝になると早々に一人になりたがる。



 彼が一体何を考え、何を思ってるのか分からない。



 数え切れない程体を重ねたのに、さっぱり何も分からない。



 分かってる事は少なくて――…なのに彼を好きな自分を本当に不思議に思う。



 ベッドを降りてキッチンに向かう私の後ろを、彼も黙ってついて来る。



 1DKのマンションはたった1人増えただけで狭く感じ、ソファに腰掛けた彼のその存在感は凄い。



 でもそれは元来彼が持ち合わせている存在感の所為かもしれない。



 やけに綺麗に整った顔。



 中性的な印象を与えるその顔に、似つかわしくはない筋肉質な体。



 彼の持ち合わせてるもの全てが、女を……私を魅了する。



「はい、珈琲」


「ん、サンキュ」


 淹れたばかりの珈琲を、上半身裸のままの彼に差し出すと、彼はやっぱり笑みを浮かべてそれを受け取る。



「やっぱシズカの珈琲が一番美味いな」


 なんて、誰が淹れた珈琲と比べて言ってるのかは分からないけど、“一番”って言葉に嬉しくなる私はまだまだ若いのかもしれない。



 ローテーブルを挟んだ彼の正面に座って、自分の珈琲をすする私を、彼は一度も見る事なく、窓の外を眺めてる。



 いつも屈託のない笑みを浮かべ、楽しそうにしている彼は、こうやってたまに寂しそうな表情を浮かべ黙り込む。



 それがまた、私の母性本能をくすぐる。



「なぁ、シズカ」


「うん?」


 窓の外から目を離さず、珈琲カップから口を離し、その寂しげな表情と同じくらい寂しげな声を出した彼は、



「今日が最後だ」


 ポツンとそう呟くとこちらに顔を向け、いつもの笑顔を私に魅せた。



「……最後?」


「あぁ」


「どういう意味?」


「好きな女が出来た」


 まるで報告するのが当たり前のように、何の罪悪感もないって様子でそう言ってのける彼の言葉に、



「そっか」


 やけにあっさり答えたのは、余りにも彼の言葉に現実味を感じないからかもしれない。



 所詮しょせん私はただのセフレで、彼の心を手に入れるなんてあり得はしない。



 そんな事、最初から分かってた。



 分かってて彼との関係を続けてきた。



「今までの女とはちげぇ」


「うん」


「女全部切る」


「うん」


「今までありがとな」


「ねぇ、一つ聞いていい?」


 涙声にもならない私の質問に、彼は「ん?」と笑顔を絶やさず眉を上げる。



「好きな人って、そのお腹の人?」


 そう聞きながら指差すのは、彼のおへその辺り。



 彼の体にある無数の傷。



 その中の一つの話を聞いた事がある。



 おへそ辺りに斜めに入った切り傷を、彼は「愛情の証」だと笑ってた。



「あー…これとは別」


 指差した辺りを撫でながら彼はやっぱり笑ってる。



「そっか」


「んでも、」


「うん」


「この人くらいは好きだと思う」


 彼のその言葉に、「そっか」と言えたかは覚えていない。

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