第31話 むかしばなし
「だからそれ、読みたくてここに来たけど、あなたも読みたいって言うなら、譲ってあげなくもない」
ウズネは『廃墟の街の旅行記』を指さしたまま、私を見上げてそう言った。
「ちょっと待って、君もこの本に思い入れがあるの?」
そうたずねると、ウズネは表情を動かさないまま「そうだよ」と答え、口だけを動かして続けた。
「初めて読んだ本がその、『廃墟の街の旅行記』だった。それを読むために、読み書きを覚えた」
「そう、なんだ」
私は軽く面食らった。こんな偶然あるだろうか。
「私と同じだ」
「そうなの?」
ウズネは首をかしげる。私は、先ほど思い出した記憶を、話せる限りウズネに話した。
「親がくれたんだね」
話し終えると、ウズネはそう言って、私が持っていた本に手を伸ばした。何気なく閉じて手渡すと、ウズネはその表紙に軽く触れた。
「あたしは、たまたま拾った。古いしぼろぼろだし、そのときは文字もさっぱり読めなかった。けど、有名な童話だってことは知ってたし、絵が好きだった。仕事の合間に、母親に隠れて読んでたな」
「仕事、してたんだ」
「うん。男のふりして、イヅルと一緒に煙突掃除してた」
ウズネのまつ毛が下を向く。
「まだ法律が整う前だったから、リヴァグルにはそういう仕事がたくさんあったんだよ」
私は言葉に詰まった。
ウズネは、幼いころから働いていたということだ。私やエステルですら、ごく最低限の教育は受けているが、彼女はきっと違う。そしてウズネの過去がそうならば、双子の姉であるイヅルも同じ境遇だったはずだ。
しかしそれは、決して珍しい話ではない。住む場所によっては、貧富の差はいまだに激しいままだ。工業都市リヴァグルは、その代表例と言えるだろう。
「この本の文字が読めるようになったのは数年前だけど、」
ウズネは、パラ、パラとページをめくりながら言う。
「文字と一緒に挿絵を見ると、今まで眺めてた絵がぜんぜん違うふうに見えたりして、おもしろいよね」
その仕草を見て、無邪気だ、と私は思った。
私が自分の過去を気にせず話したおかげか、ウズネも多少は心を開いてくれたらしく、彼女は滞りなく話をしてくれている。ありがたいことだ。
「お姉ちゃんはその本、好きじゃなかったの?」
ウズネは「あたしの」思い出の本だと言ったので、そんなことを聞いてみる。
「イヅルは全然気に入らなかった」
「ふーん、どうして?」それは聞き捨てならない。
「イヅルは、幻想とか物語とか、そういうのが嫌いなの。つまんないよね」
「ああ、たしかに嫌いそう……」
「うん。イヅルは頼りになるけど、たまにつまんないことする。今回の訓練だって、『昇級試験前に時間を割いてまでいくメリットがあるか分からない』とか言ってて、喧嘩になった」
「へえ、喧嘩するんだ」
ここにいるということは、ウズネが勝ったということだろう。
「いつもはどっちが勝つの?」
「五分五分だよ。昔はイヅルの方が強かったけど、喧嘩で負けないためにあたしも強くなったから」
「……そうなんだ」
意外とガッツがあるらしい、この子。
「はい」
ウズネは閉じた本を私に差し出した。彼女もこれを探していたと知った後では若干気が引けるが、本人がこうして譲ろうとしているので、ありがたく受け取ることにした。
「ありがとう」
「うん」
ウズネは空いた手を後ろに組んで、くるりと勢いをつけて体の向きを変え、他の書架を見ながら軽快な足取りで歩き始めた。
「今思うと、その本を拾ってから色んなことがあったな」
少し声を張って、ウズネは言う。
「イヅルと喧嘩するようになったのも、リヴァグルが魔獣に襲われたのも、あたしが煤で肺を痛めたのも、それくらいの時期だった。だいたい、九か八年前」
「え、災いを呼ぶ、みたいな?」
私は慌てて『廃墟の街の旅行記』の表紙を見た。普通の本だ。
「違うよ。肺を痛めたの以外は、今思うと転機だったのかなって」
「へぇ、転機か。その考えは私も見習いたいな」
「見習ってもいいよ。でも、あたしたちだけじゃなくて、魔獣が来た時、リヴァグルの子供たちの多くが、そういう心の強さを得たんだと思う」
ウズネは本の背表紙ではなく、天井の薄明かりに顔を向けた。
「ねえウズネちゃん、それに関して、ちょっと分からないことがあるんだけど」
「なに?」ウズネは視線だけ寄越した。
「リヴァグルが魔獣に襲われたって、本当なの?」
私がそう言うと、ウズネはまた天井の明かりに視線を戻した。何かを考えているらしい。
魔獣は数年に一度くらいのペースで様々な場所に出現しては、周辺に甚大な被害をもたらしている。そういう意味では、確かにリヴァグルに出現していたって不思議ではないのだが、しかし、それにしては現在のリヴァグルがなんとも無さすぎる。普通の大都市だ、あの街は。十年弱くらい前だとはいえ、魔獣が来たなら都市のどこかに古傷くらいは残っているのが自然であり、魔獣とはそれくらいの脅威なのである。
「さっきも思ったけど、レアさんって記憶喪失?」
数秒後にウズネがそう言った。
「あ……うん、実はそう」
「ふうん、なら当たり前か」
それがバレてしまうということは、つまり、魔獣がリヴァグルを襲ったのは、それほどに常識的で有名な出来事だったということだ。
ますますわからない。有名になったなら、それは過去最高レベルの被害だったということではないのか。
ウズネは言う。
「リヴァグルへの襲撃は、ほとんど被害が無かったんだよ。だからみんな覚えてる」
「被害が、なかった?」
魔獣と人間の関係は、私が死ぬよりずっと前から続いているはずだが、被害がなかったなんて話は聞いたことがない。
「あ」
ウズネはぴょいっと、体を私の方へ向けた。
「もう一つ、歴史に残った理由がある」
「それって……?」
「リヴァグルの魔獣は、〈感謝〉の六界主が初めて対応した魔獣だから」
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