第16話 酔い
彼女は口元を抑えながら、真っ青な顔で馬車を降りた。
アホ毛の目立つえんじ色の髪、襟の高い紺のジャケットにショートパンツ。細かい模様があしらわれたブーツを履いていて、髪留めは、宝石を削り出したものを用いている。
細部に〈欲望〉と呼ばれるにふさわしい要素は散見されるものの、乗り物酔いにやられてしまっている現状、残念ながら威厳はなかった。
一見すればエステルよりも幼く見えるほどに小柄だが、ローレンスの姉であるなら、実年齢は三十付近であるはずだ。
「パール様、お部屋までおんぶ致しましょうか?」
彼女の目の前に立ったアーサーが、大真面目にそう言った。
パールは細かく首を振る。
「いらねえ。俺はぜんっぜん平気だ。ウっ……水だけくれ」
「はい、でしたら、あちらの二人がすぐに用意いたします」
こちらに目線をよこすアーサー。
お前がやるんじゃないのか、とツッコみたくなったが、後輩ではあるからおとなしく言うことを聞いておくことにする。
「わたし行ってくる」
「あ、うん」
エステルの方が反応は早かった。きっと、脳内でツッコミを入れている時間で差が付いたのだろう。
さすがに二人がかりで水を持ってくる必要はないだろうと思ったので、私はその場で手持ち無沙汰になった。
パールはふらふらとこちらに歩いてくる。すっかり青くなった顔もあいまって、まるでゾンビみたいだ。
パールが私の目の前にたどり着くよりも少し早く、エステルが返ってきた。「ど、どうぞ」と言って、コップ一杯の水をパールに手渡した。
パールはそれに素早く手を伸ばすと、両手でしっかりとコップを握り、一気に飲み干した。
乗り物酔いがはたして水で治るものなのかは、いささか疑問ではある。
「ぷはあ、たすかったぜ」
パールの顔色が見違えるほど良くなった。
もはや乗り物酔いとかではなくて、最初から水が飲みたかっただけではなかろうか。
「ん、お前……」
パールはエステルの苦笑いを見つめ、首をかしげる。
「あ、えっと、わたしは――」エステルは咄嗟に名乗ろうとしたが、
「エステル、だったよな?」
「え、は、はい、そうです」
パールが先に彼女の名前を口にした。所有物の名を記憶することは、パールにとって当然のことなのだろう。
「だったらそっちが、」
彼女は、私を見た。
その黄色い瞳は、獣のような、射殺す瞳だった。
「レアか」
それは問いではなかった。あくまで確認の一言だった。
事実、私がその言葉を肯定するよりも前に、パールはニヤりと笑った。
「っへへ」
その瞬間、屋敷が爆発した。
いや、違う、錯覚だ。
爆発したのではなく、放出した。
パールが、魔力と殺気を放出した。
彼女の目の前にいたエステルが尻もちをつく。
「待ってたぜレア!」
パールは、右手を横にまっすぐ伸ばした。すると、その手のひらに赤黒い炎が集い、膨張して、かき消える。すると彼女の手には、一振りの剣が握られていた。十字の護拳をあしらった、本人の身長よりも長い特大剣だった。
ああ、やっぱりこうなったか。
やはりこの人は私のことを知っていて、レアに持っていた恨みを果たそうとしていたらしい。
とはいえ、こんなに殺意が高いとは思わなかった。
どうする。六界主から逃れるのはきっと至難の業だ。
「今度は逃がさねえ。俺と手合わせしろ!」
遊び相手に誘うように、パールは笑いながらそう言った。どうやら恨みを返したいわけではないらしかった。
そして、重要な事実が浮かび上がる。パールは、以前のレアしか知らない。つまり、今の私が弱いことを、彼女は知らないということだ。
「待っ――」
自白しようとしたとき、目の前に剣が迫っていた。とても大きな剣なのに、動きが全く見えなかった。
今の私に、この攻撃は捌けない。パールはそれを知らないのだ。
まずい。とってもまずい――。
首筋に、特大剣の刃が、
キンッ
高く、爽やかな金属音がした。
推測するにそれは、威力を受けるのではなく、流したときに鳴る音。
「パール様、落ち着いてください。酔いで幻覚まで見えてるんですか?」
私の前に立っていたのは、剣を持ったアーサーだった。
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