第15話 パの字

 先輩使用人とその後輩二名が外に出ると、馬車が庭門をくぐり抜けて、石畳に沿って停止したところだった。

 私たちは玄関扉の前で道を開けて並んだ。昼の柔らかい温かみの中、広い庭のどこかで鳥が鳴く。その声に混じって、エステルが深呼吸をする音が聞こえた。彼女は馬車を見つめている。客車に誰が乗っているのか、扉が開くまではわからないが、この時点で既に異様な緊張感が感じられた。

 レアを知る者との、再開。私の心臓も鼓動を早くする。

 アーサーが、「ここにいてください」と言って、馬車の方へ向かっていった。

 手綱を握っていたのは、三十歳くらいの男性だった(カインよりは少し年上に見えるし貫禄もある)。彼はアーサーを見ると、親し気に手のひらを上げて、それから手綱をアーサーに差し出した。

 アーサーはきっちりと頭を下げてから、それを受け取った。すると男性は馬車を降り、アーサーと一言二言交わしてから、こちらへ向かって歩いてきた。

 厳しそうな顔つき。少し逆立った短い黒髪。丈の長い、深緑のコート。腰に下げた剣。ただならぬ威圧感。

 歩いてくる彼をまじまじと見つめることはできないが、それでも、彼がこちらを見つめていることがわかる。

 エステルが「パ、パっ……」と声を漏らした。きっとパールのパだろう。

 コートの彼は入り口に向かってまっすぐ歩く。やがて、私たちの目の前を通過すると同時に、私たちは『おかえりなさいませ』と言った。

 すると彼は、私とエステルのちょうど間くらいの位置で立ち止まった。


「そう緊張するな。俺はパールじゃない」


 ちょっと大きい声でエステルが「え」と言う。先ほどの『パ』は彼に聞こえていたらしい。

 声は低いが、意外と優しい口調だった。

 そうか、パール、じゃないのか。


「君たちは例の、新しい使用人だな。初日から屋敷を留守にしてすまなかった。俺はローレンスだ。よろしく頼む」

「はい、えっと、私はレアと言います」

「エステルです!」


 エステルのバカでかい声に、ローレンスは口元に微笑を浮かべた。しかし直後、私の方を見て真顔になる。


「そうか、君がレアか」


 気づいた。この人はきっとアーサーが言っていた、パールの弟さんだ。であれば、レアのこと、私の正体を知っていてもおかしくない。

 つまりこの人は、私が六界主であることを――


「六界主に雇われるからといって、あまり浮かれるなよ。あいつが君を指名した理由は知らんが、あいつに気に入られてろくなことはない。気をつけろ」


 私とエステルは僅かに首を傾げた。

 もしかして、彼は知らないのだろうか。

 パールが情報を漏らしていない……いや、もしかしたら、パール自身も私のことを知らないのではないか?


「あの、パール様は……」


 エステルが問うた。その声には緊張と期待が混じっている。


「まだ馬車の中だ」


 ローレンスは親指で背後を指し示した。

 馬車の方からアーサーの声が聞こえてきた。


「パール様、大丈夫ですか?」


 手綱を握り、御者用の覗き窓から客車の中を覗いていた。


「うちの姉は、乗り物酔いがひどくてね」ローレンスは呆れを交えて言った。

「わたしとおなじだ」とエステル。


 なるほど、今まさに酔いでへばっているということらしい。


「ん?」疑問を抱き、そう口にした直後、エステルと声が重なる。

『うちの、姉?』


 視線を馬車から戻したが、もうそこにローレンスはおらず、屋敷の中にさっさと入ってしまっていた。

 やり場を失った疑問。もう一度、馬車を見た。

 客車の扉が開いた。

 細く、小さい脚――いや、もはやと言うべき脚部が、震えながら、石畳を踏んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る