第13話 笑顔の圧力
アーサーの笑顔の圧力にビビり散らかしながら部屋を出た。
しかし待っていた彼の様子は案外普段通りで、開口一番にこう言った。
「まずは掃除をしましょうか」
仕事服を纏った私たちは、アーサーの先導のもと、バケツやら雑巾やらデッキブラシをもって、館内をまわる。毎日の早朝に掃除する箇所が決まっているらしく、その説明を受けつつ実際に作業をするという流れだった。
予想していた流れではある。しかし予想外のことはいくつかあった。
まず仕事服。
つまり使用人の服ということで、私はてっきり白黒スカートとフリルのアレなのだろうと思っていたのだが、実際はアーサーの物とよく似たデザインの執事服だった。多少は女性用に調整されてはいるものの、正直言って胸がきつい。エステルの方はすっかり服に着られているといった感じで、……いや、これはこれでありなのかもしれない。なるほど、パールのこだわりとはつまり嗜好のことだったようだ。
まあそれはさておき。
今はキッチンの掃除を行っている。
「レア、こっち終わったよ」
「はいはーい」
豪邸のキッチンは、赤レンガのレトロな形式で、やはりそれなりに広い。
エステルが床を掃き掃除してから水と洗剤を撒く担当で、私がそのあとを念入りに磨くという方法をとっている。これはエステルが提案したものだ。とりあえずの元気を取り戻しつつあるエステルだが、活発なだけではなく意外とリーダー気質だった。これも予想外だった点のひとつだ。
エステルは昨日の夜から、私のことをレアと呼ぶようになった。私がすべて打ち明けた影響だろう。
……そう、全て打ち明けたのだ。もちろん誤魔化そうとしたが、どうしても言葉遣いがカタコトになってしまって、疑いを晴らすことはできなかった。正直、嘘は得意じゃない。
結果、六界主であることと、記憶のことも話すことにした。後者についてはバレてなかったが、六界主であることを話すならこちらも話さねば私の気が済まない。まるで私だけがすごいみたいになってしまうからだ。
エステルは誰にも言わないことを約束してくれたし、それに彼女はたいして驚いていなかった。曰く、もう驚きつくしたらしい。
「お二人とも優秀ですね、素晴らしいですよ」
紅茶片手に隅で突っ立っているアーサーが、そう呟いた。
そうだ、彼が見ているだけで全く手伝わないという点も、予想外だったことに入るだろう。
一体、その紅茶はいつ淹れたのか。そもそも立ったまま紅茶を飲むのは執事としてありなのだろうか。
やめよう。ツッコミを始めたらきりがない。それに、もし本当に使用人が彼だけならば、ここで料理をしているのも彼だけだということになる。もしそうなら超人だ。少しくらい抜けたところがあったって不思議ではない。
私は気を取り直して、洗剤が撒かれた床をデッキブラシで隅々までこする。細かく泡立っていく床を見ていると、気分が安らいでいく。
掃除は好きだ。運動量が少ないし、集中できるし、気持ちがいい。
なんなら、この作業をちょっと楽しみにしていたところもある。しかもこれで生活する場所を提供してくれるのだから、カインとパールには感謝しなければならない。いや、まだ安心するべきじゃないか。パールから人間以下の扱いを受けるという可能性が残っていた。
それにしてもこの掃除方法、効率がいいのはわかるのだが、洗剤を撒くのは私がやったほうがよかったのではなかろうか。これでは足が滑らないように気を使わなければならない。
「おや」
アーサーが唐突にそう呟いた。彼は部屋の隅にある、壁と一体になったタイプの釜戸の前に立ち、その付近の床を見た。さきほどエステルが、終わったと発言したエリアである。
「エステルさん、ここ掃きました?」
「はッ!!」
エステルが絶望の表情を浮かべる。忘れていたのだろう。
「すすすぐにやります!」
エステルが駆け足でそこに向かう。先輩執事はニコニコしていて確かに怖いが、それにしたってアーサーに怯えすぎだ。
私のエステルは、意気揚々とドジるタイプの人間だった。
先ほど掃き掃除をした時は、私よりも素早く作業を進めていて、表情だって生き生きしていた。だが、彼女は今朝だけでほうきを二本折っている。
賢いし、要領は良いはずなのに、なぜなのだろう。はなはだ謎である。
エステルの駆ける音が、広いキッチンに響く。そこには次第に、液体を踏む音が混じり始める。
その音を聞いて、私はハッとした。
油断した。血の気が引く。
今すぐにエステルを止めなくてはならなかった。
そうしなければエステルが――
「ぐべあッ!」
こうなる!
彼女は案の定足を滑らせた。
このままでは、駆けた勢いを保った状態で、エステルは床に顔面を強打することになる。
アーサーとも、私とも距離が開いている。
間に合わない。
ならば、やるしかない。
体と口が自動的に動き出した。
私のエステルを怪我から守るため。
「
(申請許諾。瞬間的に移動能力を――)
センの言葉を聞く前に、私は足に力をこめる。筋力と魔力を、瞬時に充足させる。
全力でなくてもいい。届けばいい。だからできるだけ、速く。
瞬く間に発生した強大な力により、空気が波紋を生みだし、厨房の調理器具たちを騒がせた。
溜め切ったすべての力を片足に込め、私はそれを、一気にはじき出した。
地面を蹴る音。は、しなかった。
私はそのとき、重大なミスを犯していたことに気づいた。
地面を思いっきり蹴ってしまった。
そこにも洗剤が大量に撒かれているというのに、それが頭からすっかり抜け落ちていた。
「うばあアッ!」
多少は跳んだ。二歩分くらい。残りの勢いはすべて、床の洗剤を撒き散らすことに使われた。そして私は、エステルよりも早く、顔面を床に強打した。
「大丈夫ですか、エステルさん」
我らが先輩の声がした。床から顔を上げてみると、アーサーが見事にエステルを受け止めていた。
間に合ったのか。私はどうやら、先輩を見くびっていたらしい。
「レアさんは、何してるんですか?」
アーサーは私を見た。本当に不思議そうな顔をしていた。エステルは口をぎゅっと閉じたままこちらを見ていて、その顔はプルプルと震えている。笑いをこらえてるな。誰のせいだ。まったく。
いや、でも、エステルの顔がやけに青いような。
「おや、そこの壁壊れてましたっけ」
アーサーがそう言って、私の背後を指さした。
嫌な予感がした。恐る恐る振り返る。
「う……わ」
抉れた床が扇状に広がり、それは壁面に到達して、壁には大きな風穴ができていた。
向こう側にレンガが散らばり、砂ぼこりがまだ立ち込めていた。壁の断面からむき出しになった木材がひん曲がっていて、しばらくぶらぶらと揺れたのち、千切れて落下した。
「そうですね、ずっと壊れてたとおもいます。ここも何とかしなきゃなって、思ってたんですよ。あはは」
「そうだったんですね! 僕としたことが、全然気が付きませんでしたよ」
やっぱりただのアホなのではないだろうか、この人。
(目的の消失を確認。制約の適応を再開。戦闘能力の著しい低下に――)
「うるさい」
「なんですか?」
「いやっ、なんでもないです」
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