第3話 おぞましい魔力

 再び目を開けた時には、視界は正常に戻っていた。

 うつぶせに倒れていたので、地面が間近に見える。木と、血が混じった、土。

 ――血?

 私は、起き上がった。

 そして絶句した。

 まるで、踏み荒らした花壇のような光景だった。

 きっとそこには、町があったのだろう。

 川が、家が、教会が、市場が、酒場が、あったのだろう。

 けれどもう、そこには何もなかった。

 瓦礫と、土と、死体しかなかった。

 いや、二つだけ違うものがある。

 まずひとつ。

 円形状の更地の中心、そう遠くない位置に、化け物がいた。

 四足歩行の生物。その四肢は、筋肉質な人間の腕。女性の胴体。真っ白い体色。

 尻尾らしき長い鎖と、頭部らしき、曲がりくねった街灯の柱。

 そして私でもわかる、おぞましく、禍々しく、強大な魔力。

 あれが魔獣。人間を食らうために、人間から生まれる、化け物。

 並みの魔剣士では到底太刀打ちできない。しかも今回は騎士団でさえ叶わなかったのだから、相当、強いはずだ。

 けど、私の目的は、まさにアレを殺すこと。

 私は視線を下ろして、目の前にあるもう一つの異物を見た。

 そこには一振りの剣が落ちていた。

 長めの刃渡り、革の鞘、護拳と握りは十字で、黒い装飾が施されている。

 私の剣だ。と、直感した。

 手を伸ばし、拾う。

 それは恐ろしいほど手に馴染んだ。

 重心の位置と握りの具合。ほぼ間違いなく、私の、レアのこの手のためだけに作られている。

 であれば、魔力だってたいそう流しやすいはずだ。

 私は剣に魔力を込める。覚えている限りでは、武器に魔力を流すのは初めてのことだった。

 しかし魔力は込められなかった。少したりとも流れなかった。

 代わりに、私の頭の中に正体不明の声が流れた。


(深層診断型戦闘宣言、制約統率魔力体、『セン』、起動しました。あなたの魔力および身体能力の使用は制限されています。行使する場合、一時的な制約解除を申請してください)


 反射的に周囲を見回してしまったけど、おそらく意味はなかった。

 あきらかに聴覚を介した情報じゃない。

 それに、『セン』。カインは「センによろしくね」と言っていたから、多分、あの人が仕向けた何かだろう。

 ならそれはそうとして。じゃあ魔力と身体能力の使用制限って……


「あうええ」


 え――?


「ころそとこどそお」


 顔を上げた。街灯の明かりが、目と鼻の先にあった。

 その時初めて、私は、そいつから目を離していたことに気づいた。

 いつの間に?

 そう考えるよりも前に、鎖の尻尾が、側面から襲ってきた。


「ぐぁッ――!」


 鞭のようにしなる尻尾が、私の脇腹に食い込んで、次の瞬間には視界全体が残像を放ち、私は派手に地面を転がった。

 痛い。

 激痛が体を這いまわる。

 物理的な威力もすさまじいけど、それが更にでたらめな魔力で強化されていた。

 受け身なんてとれるはずもなく、私は地に伏した。

 レアは最強の魔剣士。ならこの体も最強のはず。なのに、今の動きと反応は、ただの病弱な一般人だったかつての私と全く同じだった。

 でも、おかしい。

 私は自分のこめかみに手を触れる。鋭い痛み。出血していた。横髪を液体が濡らしていくのがわかる。

 怪我はそれだけではない。全身に傷を負っていた。

 おかしい。

 たしかに中身は違うのかもしれないけれど、この体は、レアのもので間違いないはず。最強の魔剣士がこうも簡単に傷を負うなんて、ありえるのだろうか。

 私は両手をついて、激痛の這う体をなんとか起こし、顔を上げる。


「あえあおあえあお」


 また魔獣から目をそらしていた。今度は、私のすぐ横にいた。

 真っ白くて大きな男性の腕が見えたとき、私は咄嗟に持っていた剣を振った。

 その攻撃はたしかに咄嗟で、冷静に威力を込めた攻撃ではなかったけれど、それでも、少なくとも攻撃にはなっていたはずだった。

 しかし結果として、それは攻撃にならなかった。

 かん高い金属音とともに、刃は、魔獣の体に到達する前に弾かれた。

 魔獣が纏う圧倒的な魔力によって弾かれた。

 剣が悪いわけでは決してない。そもそも、剣で魔力は破れない。

 魔力を破るには、魔力がなければならない。つまり今の私では、いかなる攻撃も攻撃にはならない。

 剣が弾かれて、態勢が崩れる。

 魔獣はハエでも払うかのように、地についていた片手前足を、勢いよく振り上げた。

 巨大な指先が、腹に食い込んだ。

 体が打ちあがり、空中に投げ出されて、空に向かって血を吐いた。

 重力で地面にたたきつけられるよりも前に、鎖の音が聴覚を覆う。

 鎖が体にぐるぐると巻き付いて、私を空中で持ち上げた。

 またしても鎖によって拘束されてしまったわけだ。

 動けなくなった私に、街灯の明かりが、ゆっくりと近づく。

 私を観察しているようでもあるけど、違うだろう。

 魔獣の魔力が、私の中に入り込んできた。

 そのおぞましい感覚に全身が泡立ち、本能が大きく警鐘を鳴らす。

 それは魔獣にしかできないことで、魔獣が魔獣である所以ゆえんでもあって、そして魔獣が人間でない根拠でもある。

 普通の魔力を清水に例えるならば、今私のなかに流れ込んでくる魔力は、どす黒く煮えたぎり泡立った、液体と呼ぶのも違和感があるような、粘性の極めて高い物体のようだった。

 魔獣は、こうして人を食う。

 締め付けられる鎖。浸食する魔力で、吐きそうになる。このまま塗りつぶされれば、人は死ぬ。

 剣はまだ手に持ったままだったけれど、いまにも落としてしまいそうだった。

 病はもうないはずなのに、心臓が、痛い。

 このまま死ぬ気はない。死んでいいはずがない。

 でもどうしたら……。

 ああ、おなじだ。

 あの時も、たしかこんなことを思っていた。

 このままじゃいけない。死ぬわけにはいかない。でもどうしよう、と。

 でもそれで、結局、――私は死んだのだった。

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