第17話
遠い、遠い昔の話。僕は、その人と出会った。
「キミ、感情が無いんだ。それは可哀そうに。こんなにも素晴らしいものなのにね」
子供が大人の姿を借りたような人で、いつも些細なことをからかってくる。それに自分は、いつも興味なさそうに答えるだけだった。
「…必要ない。怒りも、悲しみも、喜びも。生きることには、何の役にも立たない」
ひどく冷めたことを言うけれど、事実、そのときの自分は、怒るも泣くも喜ぶも、正常な判断を妨げる余分としか思えなかった。
「えぇ?そんなことないよ?だって、感情があれば、誰かを好きになることだってできるんだ。それってとても素敵なことだよ。どれだけ苦しくても、好きな気持ちだけで、全てを頑張っていけるような気がするもの」
ふふん、と自慢げに彼女は胸を張る。だから、と続けて、
「いつか君も、誰かを好きになれるといいね」
ユーリ。そう、その人は呼んで、相変わらず不愛想なままの自分に、苦笑する。
それだけの話だ。何か同じ目的があるのではなく、何かを協力しなければならないわけでもない。彼女は自分を構いたがるし、自分も彼女の存在を嫌とも思わなかった。
たったそれだけの、話だったはず、なのだ。
「――――――」
今でも、深く記憶に残る。火の熱さと、己を抱きしめる赤染めの腕。死の連続するそこは、地獄を現世に移したかのようで。何もかもを諦めた自分に、彼女は言った。
「ごめんね、ユーリ。私は、キミに、生きてほしいんだ」
そう言って、彼女は、己が生きるためのそれを、あっさりと手放した。困惑する自分に、彼女は、精一杯の笑みを浮かべて、
「私は、キミを、愛しているから」
その言葉の意味を、自分はまだ、知らない。
* * *
「……ぁ」
ふと、目が覚める。何か、懐かしい夢を見ていた気がして、けれどもすぐさま現実に引き戻される。
膝を折る自分。冷たく吹きすさぶ風。嘘をやめた自分の身体は、とても軽くなった気がして、それだけで、飛んでいきそうなほどに。――いや、最初から自分は、空虚のままだ。
「―――――」
一心不乱に、近寄ってくる誰かの姿を、自分は諦めたようにただ見つめていた。それが、醜い己に相応しい末路だろう。むしろ、彼女に終わらせられるのなら、それも救いのある話に思えた。
どちらにせよ、これで自分の人生は幕を下ろす。どこかにいるあの人も、結局悲願を果たせないまま、終わってしまうのだろう。何の感想もなく、ふとそう思い浮かべた。
「ゥ、…ィ……」
誰かが、うめき声をあげる。そうする今も、彼我の距離は縮まっていく。己に残された時間を象徴するように。
「―――――」
何もかもが終わる直前で、自分は、瞼を下ろした。そうすればまた、あの夢を、見られる気がして。
視界が黒く染まりきる。意識が、暗闇に融けていく。あぁ、これなら、いつ終わったとしても、気付かない。無明の闇で、自分は、ただそれを待ち詫びた。
けれども。
「………ぇ…?」
そのとき、誰かの泣く声が聞こえた。それは、確かに、今も目の前から聞こえるもので、ふと自分は目を開く。
「……セ、ラ?」
それは、目の前の彼女のものだった。何かを、必死に抑えるように。その頬に、涙を流しながら、苦しく顔を歪める、一人の少女。
「ち、がう…わたし、は、……こんなことを、したいわけ、じゃない……」
振り絞るようなその声に、狂気なんて存在しない。自分を見つめるその瞳は、普段の彼女に戻っていた。
「セラ……っ!」
思わず、自分は声を上げた。これまでの何もかもが、一瞬で関係なくなって、倒れ込みそうになった彼女を寸前で受け止める。
その瞬間、触れた身体の冷たさに、ぞっとした。
「ごめん、ね……ごめん…ね………私が、もっと、強ければ……迷うこと、も。なかった、のに……」
震える声で話す彼女に、自分は必死に訴える。
「………セラが謝ることじゃない!僕が、君のことを、もっと知っていれば…もっと、君を、本当に大切に、していれば……」
ふにゃりと柔らかく笑った彼女。それは、まるで、いつもと変わらないように。
彼女の眼は、とうに曇り始めていた。肌は、雪のように白く、不規則な鼓動は、今にも消えそうなほど弱い。
失われていく。彼女を生かす、何かの力が。それだけは決して、失われてはいけないものが。魔術も、技術も、呪いでさえ、失われていく彼女を、止めることができなかった。己の思考は、無感情に、この現実の意味を理解してしまう。
それなのに、終わりに近づく彼女を前にしてなお、自分の心は、ぴくりとも動かなくて、
「ううん……もう、充分すぎるくらい、ユーリには、たくさん大切にして、もらった、よ」
それ、なのに。そんな自分を見て、彼女は、ひどく満足そうに、笑っていた。
「違う…違うんだ……僕は、君に嘘をついていたんだ……君を、騙して………優しさも、愛情も、全部が借り物の、偽物で……」
だから、そんなふうに、微笑まれる権利なんて、自分には―――
「………セ、ラ?」
沈み込みそうになる自分の頬に、彼女が手を寄せた。曖昧な瞳が、こちらを見つめて、大きくかぶりを振って微笑んだ。
「……そんな、こと、ないよ。だって、私、とっても…幸せだった。あなたが、私にしてくれたこと全て、きらきら、輝く、宝物みたいに。……たとえそれが、偽物だと、しても。そうしようとした、あなたの想いは、本物、なんだから」
ほころぶ笑顔。大粒の涙を、その眼に浮かべて。笑って、泣いて、ひどい矛盾のように、彼女は、残された微かな力をかき集めて、必死に言葉を紡ごうとする。
「……やっぱり。私は、ユーリのことが好き。だから、あなたを自分のものにする、なんて願いは、間違っていた。私は、ただ、いつまでも救われない、あなたが、少しでも、幸せになるように、笑えるように、したかった。…それが、あなたに救われた、私の、願い」
だから。そう、彼女は呟いて、
「最後、くらいは。あなたを、救わせて」
瞬間。
「――――――」
唇が、優しく触れ合う。
ひどく冷たい口づけは、たったそれだけで、最後まで残っていた熱すら、使い果たす。
そのとき。
「ぁ………」
何かが、己の胸を、ぎゅっと締め付ける。それは、未だかつてない感覚で。
「……セ、ラ…?」
完全に、光を失い彷徨う彼女の瞳を見た瞬間、破裂するように溢れ出す。
「ぁ……あぁ…ああ………!」
漏れる嗚咽。引き裂くような胸の痛み。ぼやける目を強引に拭ったそのとき、何かが己の頬を濡らしていることに気付いた。それは、まるで、本当の涙のよう。
「いた、い……くる、しいよ……セラ…!セラ…っ!」
腕のなかで穏やかに眠る彼女に、自分は必死に呼びかける。するとセラは、どこか満ち足りたように笑って、
「…ふふ。あなたの、最初の涙は、私の、もの。…なんて、素敵で、悲しい………」
掠れるその言葉を聞いた瞬間、自分は息を呑んだ。ならば、今この胸を満たす、燃え上がるような感覚は、間違いなく、
「愛してる……!君のことを、本当に、ずっとずっと、愛しているよ、セラ……っ!」
その瞬間、彼女の眼に、最後の煌めきが宿って。
「……うん。私、も。本当に、幸せだった……あなたに、会えて……あなたと、一緒に、過ごして、あなたから、こんなにも、愛されて……!」
微かに残る灯が、最後の声を響かせる。その眼は、端に溜まった大粒の雫を、ぽとりと落として、
「……ありがとう、ユーリ」
そう言ったあと、眠るように、静かに閉じられた。
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