第16話

 しん、と静まり返る。力の嵐はとうに過ぎ去って、残された瓦礫の地平には、穏やかなそよ風が平和そうに流れていった。

 自分の視線の向かう先。激突の中心だった場所には、二人が見えた。

 身体の中心を太刀で貫かれ、胸を真っ赤な血で染めるセラ。力を失い、倒れそうになった彼女を、寸前でアルネラさんがそっと抱きしめた。

「――――――」

 柔らかく生い茂る緑のうえに、そっと彼女を置く。眠るように、ずっと瞼を下ろした姿は、とても穏やかそうに見えた。これ以上、彼女が苦しそうに泣くこともなくなったのだと思って、少し、ほっとする。

 そのとき。

「おやおや。彼女はやられてしまいましたか」

 ようやく訪れた平穏を、思い切り打ち壊すような声が響いた。振り返った先にいたのは、

「………イヴリース」

 どちらが先かと思うほど、その名を呼ぶ声がふと漏れた。彼の視線は、今も倒れたままのセラに一瞬向けられる。

「それにしても、非常に驚きましたよ。全力の姫君と、これほどまでに正面から渡り合うとは、正直予想外でしたとも」

 薄い笑みを張り付けたその男の声は、ひどく不愉快に鼓膜を逆撫でる。

「……あなた、ですか。セラを洗脳し、僕たちを狙うよう仕向けたのは」

 敵意を隠さずに言う。すると彼は、思わずといったように笑って、

「洗脳?そんなことはしていない。私が彼女にくれてやったのは、少しの言葉と望みを叶える力だけ。私が何かを強制したことは一つもない。つまり彼女には、いつでもああなる可能性が存在していたというだけの話だ。君は、気付かなかっただろうがな」

 言葉を失い、息を呑む自分。それでは、やはり、自分がセラを――――

「ユーリ」

 そのとき、隣に立つ彼女が、自分の名を呼んだ。悪い思考に陥りそうになったのを、その声が寸前で呼び止めた。

「……それで。またお前は私の呪いを奪いに来たの?セラを差し向けて、私の呪いを削ごうとするのがお前の策なのだとすれば、随分と稚拙な考えね」

 そう言って、彼女は刀の柄を強く握りしめる。目に見えないとしても、その気配に殺意が増幅するのが感じられた。しかし、そんな彼女を相手にしてなお、彼は余裕の表情を崩さない。

「いえいえ。今回の私は、戦うためにここにいるのではありません。ただ一つ、真実を告げに参りましてございます」

 慇懃そうに話す彼から目を離し、唐突に彼女はこちらに視線を向けた。すぐに自分はその意味を理解して、ゆっくりと頷く。

「疑問には思いませんかな?なにしろ、彼は――――」

 一閃。吹き抜ける風すら追い越す一撃が、その言葉ごと、彼の首を切断した。

「――――――」

 ぼとり、と頭が地面に転がる。噴出する血煙とともに。あまりにも呆気ないそれが、彼女を追い続けた男の最期だった。

『おや、会話を無視した即座の攻撃とは。それでも残念、本当の舞台はここからです!』

 地べたに落ちた生首が、突然べらべらと話し出す。かと思えば、すぐさま彼の身体が膨れ上がり、赤黒い煙を撒き散らしながら盛大に破裂した。

「ユーリ!待っ―――」

 叫ぶ彼女。伸ばされる腕。それに応えようと、自分も必死に手を伸ばすけれど、その努力も虚しく、自分たちは濃厚な煙に飲み込まれる。

「アルネラさん!」

 その呼び声に返答はない。何もかも、音も光さえも、その煙は吸収してしまうようで、このとき自分たちは、互いの居場所すらも分からなくなってしまった。

 するとそのとき、どこからかイヴリースの声が響いた。

『なあ、ユーリ。お前は、どうしてセラがあんなふうになったのか、本当は分かっていないだろう?』

 再びのそれに、今度は迷わなかった。例えそれが、自分のせいだとしても、この男が何もしなければ、セラは普通でいられたのだから。

『確かにその通り。さっきはああ言ったが、まあ俺が彼女を惑わしたのは間違っていない。だがな、何もそれだけが原因じゃあない。その理由を、お前は決して理解できないだろう。俺は理解できるがな』

 笑う彼は、そう言った。

『なあ、ユーリ。どうしてお前が、彼女の呪いの影響を受けずにいられるのか。俺が当ててやろうか?』


 * * *


『考えたことはあるでしょう?どうして彼が、あなたの呪いの影響を受けないのか』

 それは、とアルネラは思った。一度だけ考えて、しかしそれ以上は考えないようにしていたことだ。何か、恐ろしい結論を出してしまいそうで。

『姫君。あなたの呪いは、神罰に近いものだ。その呪いは、見る者全ての心を融かす麻薬。抗う唯一の方法は、愛と真逆の感情である憎悪だけ。けれど、どうやら彼は、あなたを憎んでいるようでもなかった。なら、答えは一つだけでしょう』

 悪寒がする。怖気が走る。それだけは、絶対に知ってはいけないことだと直感が反射的に耳をふさぐ。けれど、その声は脳裏に直接響いてきて、

『彼には、愛も憎しみも、存在しないのですよ』


 * * *


 粘りつくような声が、今も止まない。

『なあ、ユーリ。お前にとって、愛するとはどういうことだ?』

 使い古されたような問いかけ。皆はそれを難問のように思い悩むけれど、自分はそれを迷うことなく答えた。

「そんなの、相手の利益を最大限に増幅させること、でしょう」

 長く疑問に思っていたことだ。どうして誰もが、その程度に悩んでいるのだろう、と。

 すると。

『ハ、はははははは!やはりだ!なら、お前を愛していたはずの彼女は、どうしてお前を殺そうとしたのだ!これでは出来の悪い笑い話じゃあないか!』

 耳障りな哄笑が響き渡る。何が、そこまで愉快なのだろうか、自分には理解できない。

『だからだよ、ユーリ。だからお前は、彼女の狂気を理解できない。だから俺が教えてやろう。愛とは、全てを独占することだ。その人の一番であり続けることだ。愛する者の全てを、支配することだ』

 そんな、一方的なものが愛と呼べるはずがない。けれど、もしそれが、正しいとすれば。

『ゆえに、彼女が壊れてしまうのは当然だった。なにしろ、ずっと愛していた男が、知らぬ間に別の誰かのものになってしまったのだから。それまで自分が抱いていた感情を、全部台無しにする裏切りだ。お前が姫君を選ぶっていうのは、そういうことなんだよ』

 そうだ。そうでなければ、説明が、できないのだから。

『普通の人間なら気付くだろう。でもお前は違う。お前は、人の愛を、人の感情を、理解することができない。だってお前には、人にあるべきものが決定的に欠けているのだから』

 そうか、と理解する。どうやら自分は、また間違えてしまったらしい、と。

『誰もが皆、己に呪いを抱えている。その中でもお前は、数え切れないほどの呪いを抱えているが、最初の一つはそれだったのだろうな』

 彼は、ついに、それを言った。

『感情を持てない呪い。大罪を克服するための祝福。呼ぶとすれば、それは、無情の呪いといったところか』


 * * *


『姫君よ。少しでも、奇跡を期待しましたかな?あなたの呪いを受けない者がいると。けれども、種を明かせば現実はこうです。彼は、感情が存在しないのですから』

 それを聞いた瞬間、言葉が出なかった。だって、それじゃあ。もしも私の呪いを解いたとしても、彼は――。

『その通り。彼は、あなたを愛せない。――あぁ、なんてひどい話だ。彼の愛を手に入れるために、あなたは一人の少女さえその手に掛けたというのに。彼にはそもそも、愛なんていうものが存在していなかった』

 あのときの光景がフラッシュバックする。憎悪に満ちた顔。泣き叫ぶ声。あの子の心臓を、この手で貫いた感覚。それは、全て、

 ――無意味だ。そう、嘲笑う誰かがいた。

『姫君よ、どうかお聞かせください。誰かを犠牲にしてでも、あなたが手に入れたかった愛とは、こんなものなのですか?その程度のために、あなたは、何百年も生き続けてきたのですか?』

 崩れそうになる心を、震える感情で立て直す。そんなこと、今に始まったわけじゃない。私は既に、多くのものを破滅させてきたのだから。その程度で、私が、彼への愛を、諦めることなんて、絶対に、

『それが、決して報われないものだとしても?』

 ……それ、は。

『彼はあなたを愛さない。あなたが手に入れようとしている者の心は、伽藍洞の借り物入れだ。他人の感情を真似ているだけの、ちっぽけな偽物だ。それでも、あなたは、彼のために戦うというのですか?』

 …それでも、私は。

「後になんて、退けないのだから……!」

 そう言った瞬間、突如として煙が晴れた。

 場所は変わらない。自分は必死に視界を振り回し、彼の姿を求めて見渡す。そして、

「ユーリ!」

 視線が、遠くに佇む少年の姿を捉えた。声を上げて走り出すと、彼もまたこちらに振り向いて笑う。

 良かった。そう思いながら、彼の身体を抱きしめる。

 そのとき。

「アルネラさん!」

 彼の声がした。目の前からではない。別の、遠い方向から。

「そっちは、偽物です!」

 その言葉を理解するより先に、目の前から声がした。それは、あの男のもので。

『人を惑わす九尾の化け物が、人の言葉に惑わされてどうする?』

 ぐじゅり、と何かが、己の心臓を深く鋭利に刺し貫いた。

「………か、は…!」

 溢れだす血液。失われていく、決定的な何か。それは、きっと、今の自分を突き動かしているものに違いなくて、

「………ユー、リ」

 その名を最後に、視界が、黒く、落ちて……い………く……………


 * * *


「アルネラさん!」

 必死な、けれども何の意味もない叫び。自分はただ、彼女が無抵抗に刺し貫かれるのを見ているだけしかできなかった。

 どさり、と力を失い地面に倒れ落ちる彼女。広がる赤い血だまり。それを行った張本人は、その光景を前にして、歓喜に打ち震える。

「やった……ついに、ついにやったぞ……!これで、彼女の呪いは私のものだ!」

 確信の勝利宣言。イヴリースは、その喜びを爆発させるように、辺り一帯に笑い声を響かせる。

「イヴリース、お前……!」

 たまらず、自分は奴に向かって走り出した。それが例え、無謀な抵抗だとしても、彼女が傷つけられることだけは、絶対に認めてはいけないと思ったから。

 しかし、

「………がッ!?」

 突如として、左右から現れた二人の人影が、走る自分を取り押さえた。顔を地面に叩きつけられ、両手を固く締められる。

「離せッ!この……!もしも彼女に手を出したら………!」

 そう口にした瞬間、イヴリースはくるりとこちらを振り向く。

「出したら、どうするというのだ?私と、戦うか?」

 その一言が、何よりも強大な壁となって、己のその先を阻んだ。その様を、イヴリースは冷たく睥睨する。

「戦うにも理由が必要だ。愛する者を守るため、憎む敵を倒すため。お前には、そのどちらもない。信念無き力など、相手にする価値もない」

 吐き捨てるように、彼は断言した。それ以上、視線を合わせることもない。

「お前が彼女に抱くものは、全て借り物の贋作だ。愛情も、尊敬も、惻隠も、信頼も。全ては他人の真似事。そこに自分の感情はない。お前が今彼女を助けようとしたことも、他人ならそうするだろうと推測しただけのことだろう。本当のお前は、とっくに彼女を諦めているのではないか?」

「それ、は………」

 ぴたりと、思考が凍り付く。感情を持つ人ならば、その言葉にどうやって返すだろうか。

「ぁ………あ……!」

 違う。駄目だ。そんなふうに考えているわけじゃない。本当に自分は、彼女を想って、彼女を愛して、そのために、呪いを解こうと、そう決めた、はずなのに……!

「お前はただ、彼女を利用しようとしていただけだ。その呪いさえあれば、愛というものをお前は知ることができると考えたから。ゆえに、彼女を騙し、己を偽り、感情を偽装し、いつまでもその隣にいようとした。――彼女の呪いを求める俺と、彼女の呪いを利用するお前。なあ、ユーリ。それは、いったい何が違う?」

「……そ、それ……ち、ちが………」

 いや、違わない。怯えるように、身体を震わせる今の自分を、外から冷静に観察するもうひとりの自分がいた。

 彼の言葉の一つ一つが、自分を浅ましいものへと変えていく。いや、最初からそうだったのだろう。無意識に自分へ言い聞かせていた嘘を、彼は、その言葉でばりばりと剥がしていったのだ。後に残ったのは、他の誰より醜い、欲望塗れの自分だけ。

「哀れなお前に、相応しい終わりをくれてやる。――そら、立てよ。起きているだろう?」

 膝まづく自分に、誰かが影を落とした。それは、

「ゆ、ユー…ゥ、リ、リリ……!」

 赤く染まった全身。傷だらけの肢体。血の泡を吹きながら、それでも不規則に前進を続けるその姿は、変わり果てたセラのものだった。

「ぁ……ぁあ……!」

 変わり果てた?違う。もしそうだとすれば、それは、自分がそうしてしまったこと。その姿に、無垢なる少女の面影はない。――違う!奪ったのは、自分なのだ!あの夜彼女を救ったことでさえ、自分は…!彼女を感情のサンプルにしていただけなのに!

「……………は」

 なんて。全て、茶番だ。

「――――」

 男が、去っていく。大事だった誰かを、その手に抱いて。

「…ユ、ゥ……リ………」

 ゆっくり、少しずつ、巻き上げられる断頭台の刃のように、少女だったものは歩み寄る。

 いずれ迎える、終幕の前。ふと、自分は、無感情に思考していた。

 自分は、いったい。

 何のために、生きようと、していたんだっけ。

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