第15話

 それは、帰宅してすぐの出来事だった。

「はぁ……ようやく家に帰ってこられた………」

 生気を失った声を上げる自分。今日だけで、色んなことがありすぎたせいだ。せっかくの休日だというのに、普段の仕事以上に疲れた気さえする。

 とにかく、今日は早めに休もう。そう思って、へとへとな足を寝室のほうに向けようとした、そのとき。

「………ッ!?」

 ドクン、と鳴り響く心臓。破裂したかとさえ錯覚するほどの、強い鼓動を感じたのが始まりだった。

「かはッ………」

 内蔵を掻き回されるような不快、激痛、異常。喉奥から何かが込み上げて、ばしゃり、とたまらず吐き捨てる。真っ赤なそれが、血だと気付いた瞬間、ぞっとするような寒気に襲われる。何が起きているのかと考えたそのとき、背後でばたりと倒れる音を聞いた。

「………アルネラさん!?」

 振り返った先に見えたのは、池のような血だまりに沈む、倒れ伏せた彼女の姿だった。

「……ユー、リ」

 掠れた、今にも消えそうなほど弱い声が、己の名を呼んだ。それだけで、自分の状態なんて全て忘れるほどの焦りを覚えて、咄嗟に彼女のもとへと走り寄る。

 とにかく治療を急ごうと、彼女の容態を確認した。吐血しているのは自分と同じだけど、その量が段違いだ。呼吸は浅く、意識も朦朧としている。

 しかし、外傷はなかった。何かの毒物に侵されている様子もない。病気かとも考えたが、異属である彼女がそんなものを患うわけがないのだ。けれどこうして、明らかな異常を示しているのはなぜか。

 そこまで思って、気付いた。原因不明の症状。それをもたらすものは、ただ一つ。

「これは、まさか……呪い、か」

 呪いにも種類がある。相手に不幸をもたらすものや、異形に変えてしまうもの、悪夢や幻覚を見させるものまである。しかし、異属である彼女に、そんな低俗な呪いが効くわけもない。あるとすれば、それは、呪いのなかでも最恐最悪と呼ばれる―――

「死の、呪い……!」

 そこまで考えて、思わず息を呑んだ。それほどまでに強力な呪いを解く力は自分にはない。だから、

「…………!」

 迷わなかった。セラのときと同じように、呪いを自分に移そうとして、

「………だ、め」

 弱々しい声が、自分を呼び止めた。意識を取り戻したことには安心するが、今はそんなことを喜んでいる場合じゃない。

「……駄目じゃありません!既に受けているのですから、僕は大丈夫です!……それよりも……!」

 そうやって言い張る自分に、彼女は少しも譲らなかった。むしろ、慌てる自分を宥めるように、無理して微笑もうとさえする。

「それでも、駄目、よ。たとえ私が助かって、あなたも死ぬことはないとしても、そうすればあなたは、もっと苦しむのでしょう?」

「でも…!それじゃあ、アルネラさんが死んじゃいますよ!」

 少し苦しいくらいが何だというのか。ここで彼女を失うことに比べれば、ずっと安いもの。そう必死に言っているのに、彼女はどこか可笑しいように笑う。

「…そんなに心配しなくても、大丈夫よ。この程度の呪いで死ぬことはないわ。私、これでも最強の異属なのだから」

 そう言って、倒れた状態から起き上がろうとする彼女を恐る恐る見守る。すると、ふらついた身体でそのまま無理して立ち上がろうとしたので、流石に危ないと慌てて制止した。

「せ、せめて今は休んでいてください!」

 そう言いつけると、今度は“じゃあベッドまで運んで”などと言って、両手をこちらに差し出してくる。仕方なく自分は彼女を横に抱き上げて、寝室まで運んでいった。

 その後も、首に手を回してなかなか離れようとしない彼女だったが、丁寧にベッドにおろして寝かせてやると、すぐさま瞼を閉じて眠ってしまった。

 穏やかに寝息を立てる彼女を眺めていると、忘れていた自分の疲労と不調がどっと下りてきた。正直、自分も今すぐ眠りたいところだったけれど、こんなことがあった以上、素直に落ち着いてもいられなかった。

 おそらくこの呪いは、自分とアルネラさんの二人を狙ったものだ。幸いなことに、自分には、掛けられた呪いをはね返す「呪い返し」の護符があったため、彼女と比べて呪いの影響が少なく済んだ。

 犯人を特定することはできないけれど、推測はできる。十中八九、今日路地裏で襲ってきたイヴリースの仕業だろう。あの男を何とかしない限り、このような攻撃はこれからも続くということだ。

「はぁ……アルネラさんも、厄介な男に目を付けられていますね………」

 寝ている彼女を見ながら、同情して思わずため息が漏れた。ちなみにだが、この家を直接イヴリースに襲撃される心配は全くない。というのも、偽装の魔術が掛けられているのに加え、セラが聖術で何重にも防護結界を張っているからだ。これが非常に強力で、敵意ある者を絶対に通さないようになっている。聞けば、彼女が一番得意な聖術らしい。

「………そういえば、セラ、今夜は帰ってこないのかな…?」

 ここにはいない彼女のことを思い出して、そんなことを呟いた。もしかしたら、案外教会での後処理が長引いて、そのまま学院の宿舎へ戻ったのかもしれない。

 そんなことを考えていると、なんだか妙に申し訳なく思えて、ますます眠る気がなくなってしまった。とりあえず後片付けをして、その後はしばらく、彼女が眠っているのを隣で見守ることにしよう。


 ―――しかし結局、その日のうちにセラは帰ってきた。

 ふらりと突然現れた彼女。その姿に、自分は驚いた。みるからに身体はボロボロで、なにより、――その全身が、血で真っ赤に染められていたのだ。


 * * *


 家に着いた瞬間、セラは気を失って倒れてしまった。一応の処置を行った今は、物置となっていた彼女の寝室を開け、ベッドで寝かせている。

 そうして、何もかもが一旦落ち着いたとき、ふうと安心して息がもれた。ふと窓の外を見ると、外はすっかり朝日が昇り始めているようで、だいぶ明るかった。

「………おっと」

 一瞬眩暈がして、ぐらりと椅子から転げ落ちそうになった。そういえば、昨日の昼からここまで、何かとずっと忙しかった気がする。よくもまあ、これだけの出来事が短い間に起こるものだと苦笑してしまう。

『大丈夫?ユーリ』

 そのとき、いつものように肩に子狐が飛び乗ってきた。

「……あぁ、アルネラさん。身体の具合はよいのですか?」

『えぇ、おかげさまで。全快とはいかないけれど、こうして動く分には問題ないわ』

 そう言って机に飛び移り、くるりと軽快に跳ねて見せる彼女。それを見て、良かったと安堵する。

『……あの子は?』

 ちらり、とセラのいる寝室のほうを振り返る彼女に、自分は答える。

「昨夜のだいぶ遅い時間帯に、ひどい姿をして帰ってきたのです。なにやら憔悴し切っていたようで、すぐさま気を失って倒れてしまいましたけれど」

『何があったの?』

「……分かりません。けれど、どうやら僕たちと同じ呪いを受けていたようでしたので、おそらくは彼女も同じように狙われたのかもしれません」

 そして、それを行ったのは、恐らく。

「やはり、これは昨日襲ってきたイヴリースという男の仕業なのでしょうか?」

『そう考えるのが妥当でしょうね。……でも、呪いなんて手段、今まで一度も使ってきたことがなかったのに……』

 うーむ、とどこか納得いかないように、かわいらしく首を傾げる彼女。それを見て、自分も聞きたいがあったことを思い出す。

「……ちなみにアルネラさんは、あの男とはいったいどのような関係なのですか?」

 そういうと、どこか答えづらいように言う。

『どのような、と言われても。あなたが聞いた通りよ。随分と前に目を付けられて、それ以来ずっと私の呪いを奪おうとしつこく狙ってくるの』

「それ以来……ということは、以前にも奴に狙われたことがあるのですか?」

『以前にも、なんて程度じゃないわ。もううんざりするほど何度もよ。襲ってくるたびに返り討ちにしているんだけど、アイツ本当にしつこくて、全然諦めようとしない。襲ってくるときも、奴自身は決して現場に現れず、手駒にした連中を差し向けてくるだけ。そうなると、奴自身を殺すことも困難。…だからまあ、今回は少し意外だったわ』

 狐姿のまま、はあ、と大きくため息をつく素振りを見せる。

『……もともとアイツは、以前に私が滅ぼしたとある国の宰相だった。何もかもを思い通りに支配しないと気が済まないような性格の男で、そのときも国王を裏から操って、国を思うがままにしていたわ。そういう支配欲が、私の呪いを求める理由でしょうね』

 最後に、忌々しく吐き捨てるようにそう言う彼女は、ぴょいと飛び降りると、すぐさま人の姿に戻る。

「聞きたいことはそれだけ?なら、あなたも少しは休みなさいな。あれから一睡もしていないのでしょう?それとも、ご飯にするかしら。お腹が空いているなら何かつくるけど」

「……じゃあ、セラのためにも、何か消化に良いものをお願いできますか?」

 りょうかーい、と気軽に返事をしながら、台所へ入っていくアルネラさん。自分も、寝ているセラの様子を見るために、一度彼女の寝室へと向かう。

 ベッドの隣に座って、彼女の寝顔を見守る。しばらくそうしていると、何かを感じ取ったかのように、うっすらと彼女は瞼を開けた。

「ユー、リ…?」

 顔を傾け、自分の姿を見つけると、曖昧そうに何度も瞬きする。

「おはよう、セラ。調子はどう?どこか痛いところはある?」

 首を横に振る彼女。ぎこちないその動きからは、まだ具合が悪そうな様子を見て取れた。

「それは良かった。でも、無理はしちゃ駄目だよ。落ち着いて、今は休むことに専念していてね、セラ」

 そう言うと、彼女は少し困ったような表情をする。

「どう、して……?なんで、私、ここに………」

「あれ、覚えていないのかい?昨日の夜、ふらふらの状態で帰ってきたんだよ」

 記憶が曖昧になるほど消耗していたのだろう。死の呪いを受けたのだから当然だ。幸いなことに、自分と同じで影響は少なく済んだようだけど。

「……あぁ、そっか……あのあと………」

 何かを思い出すように、途切れ途切れの言葉を呟く。すると、途端に苦しみ始めたように、きゅっと目を細めてしまった。

「だ、大丈夫?どこか苦しいのかい…?何か、してほしいことはある?」

 慌ててそう言うと、彼女は弱々しい目を向けてきて、

「……じゃあ、手。…握って」

 予想していたものとは違った返答で少し驚いたけれど、すぐさま彼女の右手をそっと握る。すると、それだけでも効果があったのか、幾分かは落ち着いた表情に戻って安心した。

「……そうだ。お腹は空いている?もしそうなら、何か食べ物でも持ってくるけれど」

 こくり、と頷く。それはよかったと思いながら、立ち上がるために一度手を離す。すると、ひどく不安げな目でこちらを見つめてくるので、すぐ戻るからと優しく頭を撫でてやると、安心したように目を閉じた。

「……少しだけ待っていてね」

 そう優しく呟いてから、居間のほうへと急いで戻る。台所にいるアルネラさんから、柔らかく煮込んだ麦粥が盛られた器を自分は受け取った。

「どう?あの子の様子は」

 渡すついでにそう聞かれた自分は、なるべく深刻そうにならないで答える。

「少し記憶が混乱しているようですけれど、それ以外は無事です。呪いの影響も、最低限で収まっているようですし」

「それは良かった。……でも、よく考えたら、どうして二人とも呪いの影響をあまり受けずに済んだのかしら?」

 首を傾げる彼女に、自分は簡潔に答えた。

「それは、呪われそうになったときの対策として、掛けられた呪いをはね返す呪い返しの護符を持っていたからですね。おそらくはセラも、それに準ずる教会の加護があったのでしょう」

「へぇ、そうなの。……じゃあ、今頃術者は、返された呪いに苦しんでいるということ?」

「まあ、そういうことになります。とはいっても、普通の魔術師は、もしも返された場合に備えて、呪いを解くための方法を用意しておくので、防ぐ以上の効果はありませんけれどね。……って、いけない。すいません、セラを待たせているので、失礼しますね」

 危うく、いつもの呪術講座を始めてしまいそうになって、慌ててそのことを思い出す。

 粥の器を盆に載せ、ついでに水と果物も持っていくことにする。そうして、セラの寝室に戻ると、

「待たせてごめん、セラ――って、え?」

 扉を開けた瞬間、目にした光景にびくりと驚いて、手にしていた盆をひっくり返しそうになる。だってそれは、セラが――。

「……ぁ、ユーリ。おかえり、どうしたの…?そんなに、目を丸くして」

 平然と、何もなかったかのように言う彼女の腕は、大量の血で真っ赤に染まっていた。

 その手には、同じように赤く染まった短刀。何度も何度も突き刺し、切り裂いたのだろう。見るも無残な傷跡からは、今も赤黒い血がドクドクと滲み出ている。

「ど、どうしたんだセラ!?自分でしたのかい!?なんで、そんなことを…!」

 慌てて駆け寄る自分に、彼女は愉快そうに笑って頷く。

「……だって、ユーリ。…さっき私に、とっても優しくしてくれた、から。もっと傷ついて、もっと苦しめば、もっと優しくしてくれるかな……って」

 血が滴る短刀を掲げながら、どこか酔いしれたようにして穏やかに囁く。光のない、虚ろな目をして笑う彼女は、いっそ狂気的とさえ思えた。

「……っ!」

 どうにかしようと思って、とにかくまずは彼女から刃物を取り上げる。啞然とする彼女をおいて、自分はすぐさま傷口の処置を行った。

 血を拭き取り、傷口を布できつく締め付けるように巻いて止血する。治癒の魔術も併用しながら、彼女の治療を最優先に手当をした。

 どうしていきなりこんなことをしたのかは分からない。けれども、彼女の姿が、あまりにも痛々しく見ていられなくて、一秒でも早くその苦痛を和らげられるようと、必死に手を動かした。

 すると、

「………あは」

 痛みを減衰させる魔術を唱えている最中、いきなり彼女に思い切り抱きしめられて、まじないが中断された。

「……やっぱり。ユーリ、私のことを心配してくれているんだね」

 耳元に直接流し込むように、彼女は囁いた。突然のことで困惑しながらも、自分はなんとかそれに答える。

「…あ、当たり前だよ。セラは、僕の大切な、家族なんだから」

「そう?―――でも今は、別の人のほうが、もっと大切みたい」

 その言葉だけ、背筋をぞくりと震え上がらせるような冷たさを感じた。

「ねえ、ユーリ。あの人、アルネラとかいう女のこと、愛している?」

 その言葉に、自分はどうにか、ふるりと頷いた。すると彼女は、にこりと笑みを浮かべて、

「……良いなぁ。あなたから、そんなふうに思われるなんて。……私のほうがずっと、あなたを愛していたのに」

 ずしりと、脳を痺れさせるような言葉と重さ。己はそれに、何も答えられない。

「ねぇユーリ。ところで……」

 打って変わって、彼女は―――いや、いつもと変わらないように、彼女は穏やかに話しかける。

「身体の調子はどう?誰かに、呪いを掛けられてしまったのでしょう?」

「……どうして、それを知っているの?」

 そう聞く自分に、彼女は、くすりと笑いだす。

「分かるよ。前にも言ったでしょ?ユーリのことなら、なんでも知っているから、って。……ふふ。ねぇ、痛いでしょう…?苦しいでしょう…?それでも、あなたは決して、辛い素振りを他人には見せようとしない。知っているよ、あなたがそういう人だってことも」

 甘く痺れる声。何もかもが、進んでは戻れない場所まで引き込まれていくような予感。あぁ、でも、と彼女は付け加えて、

「本当に辛くて耐えられなくなったら、言ってね。すぐに私が、――楽にしてあげるから」

 それはいったい、どういう……?

 何も分からないでいる自分に、彼女は言葉を続ける。

「ユーリが悪いんだよ…?私、ずっと前から、あなたのことを、いっぱい、いっぱい、たくさんたくさんもう何もかもどうでもよくなるくらいに愛していたのに。………だけど、あなたは応えてくれなかった」

 最期の声は、震えていた。必死に堪えるように、ふとすれば、すぐに壊れてしまうかのように。ひどく不安定なそれは、泣いているようにも聞こえた。

 しかし、すぐさま別の感情が塗り替える。

「私は、ユーリが欲しい。あなたの身体も、心も、笑う顔も苦しみ歪み表情もなにもかも全て。…だけどあなたは、私以外の人を愛するようになってしまった。そんなの私は認めない。私以外があなたと一緒にいることなんて、絶対に許さない。……あぁ、そうだ。いっそ、他人のものになるくらいなら――」

 抱きしめる力が緩んだ。背中に回していた手で、今度は頭を押さえつけて、逃がさないように眼の前へと持ってくる。

 自分は、彼女を見た。三日月に歪んだ笑い顔。ギリリ、と限界まで見開かれた眼。光彩はなく、正気もあらず、狂い堕ちたように、彼女は、自分だけを、その瞳に閉じ込めた。

 彼女は言う。

「今ここで、あなたを殺すね」

 その手には、先ほどの短刀。切っ先が、胸にとんと当てられた。

 抵抗しようだなんて、少しも思えなかった。だって、そうしたら本当に彼女を、戦うべき敵だとだと、認めてしまうから。それに、何より自分は、目の前の光景が現実のものだとは思えなかったのだ。だって、セラは……

「どう、して―――」

 霞む視界。消えゆく意識。ぞぶり、と心臓に差し込まれるナイフが、温かな肉を切り分けようと動く、その寸前で、

「ユーリッ!」

 必死そうな声が己の名を呼んだ瞬間、がばりと身体を掴まれて、セラから離れるように部屋の端に飛び去る。確認するでもなく、その声の主はアルネラさんだ。彼女は、決してセラから目を離さないようにしながら、こちらを気に掛ける言葉を口にする。

「大丈夫、ユーリ?」

 その言葉に、自分はなんとか頷いた。多少血は出ているけれど、それよりも今は。

「――――ぁ」

 亡霊のように佇む彼女を見据える。俯く前髪が顔を覆い隠し、その間からでも、狂気的な眼は覗いて見えた。

「……やはり。私たちに呪いを掛けたのは、あなただったのね。セラ」

 迷いなく言い放つ彼女に、自分は驚きを隠せなかった。何より彼女が、それを聞いて、にやりと笑ったのだ。それでは、まるで―――

「そんな、はずが……!」

 そんなはずがない。こうした今でも、自分はそれが酷くおかしいものに思えた。けれども彼女は、そんな自分を否定するように言う。

「…なら、どうしてあの子にも呪いが掛けられているの。どうして彼女は、昨夜血まみれで帰ってきたの。昨日はいったい、何処で何をしていたのかしら、セラ」

 それは、残酷な現実の列挙だった。いや、たとえそうだとしても、圧倒的に欠けているものがある。

「でも、彼女には理由がない!こんなことをする理由が、少しも……!」

 混乱する自分とは対照的に、彼女は実に落ち着いて答えた。

「理由ならあるわよ。……少しは、見て気付きなさい。憎しみと怒り。憎悪と憤怒。私たち二人を呪い殺そうとするほどの理由なんて、そんな感情しかないでしょう」

 そう言って、セラを見つめる彼女の視線には、昨日までの穏やかな色は少しも見当たらなかった。それだけで――いや、それでようやく気付いた。彼女はもう、どうしようもなく、自分たちの敵なのだと。

「……ごめんなさい、ユーリ。これは、私の問題。私の罪。私の呪い。だから、あなたは下がっていて。あの子は、私が何とかするから」

 そう言って、彼女は前に立つ。その手に白鞘の太刀を握りながら、ほんの一瞬もセラから視線を外さないようにして。

「……そこをどいてくださらないかしら、アルネラさん。私は、彼に用があるのです」

 穏やかに微笑みながら言うセラに、彼女は毅然と言い返す。

「私を倒せるのなら好きにすると良いわ。――といっても、あなた程度の人間では、絶対に不可能だと思うけれど」

 余裕な表情で繰り出された挑発に、セラはギリと歯を食いしばり、忌々しげに強く睨みつける。そんな視線を、彼女は憮然とした態度で受け止めた。

「……本当、残念ね。教会の神官が黒魔術に手を出すだなんて。大方、イヴリースに唆されたのでしょうけれど。あの男がやりそうなことだわ」

 冷たく見下す彼女に、セラは強く叫んだ。

「なにを他人事のように……!お前が、お前がユーリを誑かしたのが原因でしょう!お前さえいなければ、私はこんなふうに思うこともなかったはずなのに!」

 響く叫喚。鋭く突き刺すような金切り声が、薄暗い部屋のなかをこだまする。そんな激情とは対照的に、彼女はどこまでも冷静なままだった。

「そうね。私さえいなければ、あなたはそんなふうにならなかった。だけど、あなたにもう少し強い心があれば、あの男に惑わされることもなかったのよ。……いえ、そんなことはもう関係ない。こうして彼を脅かす者として現れた以上、あなたでさえ容赦はしない」

 そう言って、彼女は刀の切っ先をセラに向ける。それをセラは、意外そうに見つめて、けれどもすぐに俯き笑った。

「……そう。やっぱり、こうなるんだ。全部、私が悪いんだね。なら―――」

 ゆっくりと、セラは顔を上げて、

「みんな、死んじゃえば良いんだ」

 虚ろな笑みで、そう呟いた。

 瞬間、

「………あは!」

 セラがその腕を振り上げた途端、包帯で巻いていたはずの傷口から、真っ赤な鮮血が飛び散った。それらは空中で、発光と膨張を始め、

「―――これは!?」

 すぐさま異常を察したアルネラさんは、瞬時に自分を抱き上げ、天上を切り裂いて家の外へと脱出する。

 刹那のあと、赤く染まった爆発が、家を包み込んで何もかもを吹き飛ばした。

「―――――!」

 自分自身さえ巻き込んでの一撃。視線を向けた先、崩れ落ちた瓦礫のなかでは、無傷のままセラが佇んでいて、

「あれ?逃げちゃうんだ。でも、これ以上そうはさせないよ」

 さらに溢れ出す血液。地面に流れ落ち、血溜まりとなったそれは、急速に範囲を拡大させ、周囲一帯を一瞬で覆い尽くす。

「………ッ!?」

 ずぷり、と足先が沈んでいく。形成された血の池は、あらゆる物質を呑み込む赤い沼となって、瓦礫も建物も、地面に立つ我々でさえも、沼のなかへと引き込んでいった。

「捕まえた……!もう逃がさないっ!」

 吹き出す血は、また新たな形に変わる。集い、交わり、空中で固体化し、数え切れないほどの刃をつくりだし、動けない自分たちへ向けて一斉に射出する。

 迎撃はすぐさま行われた。彼女はすぐさま光る尾を展開し、生み出した六人の分身を前へと立たせる。正面から飛来する赤い刃物の群れを前に、分身たちは手にする太刀で振り払い、時には身をもって受け止めながら、次々放たれる怒涛の攻撃を防いでいく。

「………!」

 放たれる刃。撃ち落とす斬撃。激突する攻と守は、時と共に勢いを上げ、彼我の間に疾風怒濤を巻き起こす。

「ほらほら、どうしたの?私程度の人間は、相手にならないんじゃなかったのかしら!」

 煽る彼女の興奮に合わせて、射出される刃の数も増えていく。一方、迎撃するこちらは、一人、また一人と分身を失い続け、防備にも少しずつ穴が開いてきた。

「ッく……!どうなっているのよ、あれ…!」

 そう抗議する彼女に、普段の余裕そうな気配は少しも感じられなかった。今まで一度も見せてこなかったほどの、苦悶に満ちた表情。

 先ほどの彼女の挑発は、決して間違ってなどいない。人間が異属に敵うわけないのだ。けれど、今この状況では、誰が見てもセラが優勢だと分かるだろう。

 理由は明白だ。今もアルネラさんには、死の呪いが掛けられている。本来、人間であれば即座に死に至るようなそれを完全に抑えているのは、流石異属と言わざるを得ない。

 けれど、そのせいで、呪いを抑えることにその力のほとんどが使われてしまっているのだろう。その証拠に、彼女の動きの一つ一つには、昨日のイヴリースとの戦闘のときにみせた精彩さが全くといっていいほど見られない。

「………!」

 必死な表情。苦しみ歪む顔。こんな僕を守るために、痛みに耐えながら、今も剣を振る。

 そんな彼女のために、自分は何ができるだろう。

「アルネラさんっ!」

 だから、言った。

「あなたの死の呪いを、僕に移してください!」

 瞬間、彼女は目を丸くして、こちらを思い切り怒鳴りつける。

「駄目に決まっているでしょう!そうすれば、あなたは……!」

「平気です!そんなので、僕は死にませんから!」

 納得しかける彼女は、しかし、すぐさま否定するように首を横に振る。

「でも、それじゃああなたは、もっと苦しむことになるのよ!」

「そんなの関係ありません!僕は、あなたが辛くしているほうが、もっともっと苦しいのですから!」

 そう叫んだ。すると彼女は、はっとしたような顔でこちらを見つた後に、

「………そうね。私も、少しはあなたを信じるべきだわ」

 決心するように、一度目を下ろし、再び開く。そのとき、

「話している暇なんてあるの?このまま耐え続けていても、私は倒せないんだよ?」

 セラの言葉と共に、赤い刃の射出がピタリと止まる。その代わり、刃の精製に使われていた血は、別の場所へと集められていって、

「分身ごときで防ごうとしたって、もう無駄。そんなの、まとめて潰してあげる」

 無慈悲な宣告が、静かに響き渡る。その言葉通りのものが、上空に出現していく。

「――――――」

 地上に大きな影を落とすそれは、屋敷ほどの大きさを誇る、巨大な血の戦鎚だった。

「あははははは!動けない、防げない!これであなたもおしまい!二人まとめて、圧し潰してあげる!」

 耳障りな笑い声が響いた瞬間、圧倒的大質量のそれが、見えざる力によって振り下ろされる。

「アルネラさん!」

 響く声。伸ばす右手。何もかもを粉砕する質量的暴力が、地上に着弾する寸前。

「……お願い、ユーリ!」

 繋ぎあう手がお互いを抱き寄せ、二人は結びつけるように接吻する。

 瞬間。

「―――――――」

 戦鎚が、地上に叩きつけられた。

 鳴り響く轟音。吹き荒れる暴風。接触面を中心として広がる大衝撃は、辺り一帯をもろともに爆砕していく。破壊が轟くその空間において、形を保っているものは、ただ一つ。それは当然、この破壊をもたらした巨大戦鎚のみ。

 そのはず、だった。

「あははははは!…………え?」

 勝利を確信した少女の哄笑が、ピタリと止み、一瞬にして困惑へと色を変える。

 巻き上がる砂埃が消えたとき、そこにあったのは目が覚めるような赤ではなかった。砕かれ、破片となって辺りに散らばる赤き塵を踏みしめて立つのは、眩いほどの金色の輝き。

『―――久々ね。この姿に戻ったのは』

 それは人ではない。けれど、外見の類似から獣と呼ぶのも相応しくない。月に似た黄金の毛並み。地に聳えるしなやかな四肢。背中の後ろからは、幾重もの尾がゆらゆらと揺れ、獲物を狙うその獣眼は、目の前にいる標的を冷酷に見据える。

 変わり果てた九尾の姿に、それでも美しさは失われていなかった。神を幻視するほどの圧倒的な光輝は、そのまばゆさに相応しい声を奏でる。

『諦めなさい。もう、あなたでは、決して私に勝てない』

 残酷に響き渡るその言葉の意味は、勧告ではなく命令に近い。強い者は、より強い者に支配されるしかないのだから。

「……ッ!その程度で、勝ったつもりになるな!この、人に劣る、畜生の分際でッ!」

 普段の面影など少しも感じられないほど、憎悪の込められた目つきで、ありったけの罵詈雑言を吐き散らす。

「お前に彼は渡さない…‼お前を生かして帰さない…!お前を絶対に、許しはしないッ!」

 鬼の如き形相が、そう叫んだ瞬間、ありったけの量の血飛沫がぶちまけられる。目が眩むほどの鮮血の朱。それらは、今までにないほど大量の刃となって、音速のスピードで撃ち出される。

 迫る刃の壁に対し、彼女は、

『――――――』

 無造作としか思えない前足の振り払いが、全ての刃を一瞬にして撃ち落とした。

「……な、に?」

 あまりの光景に、思考停止したように目を見開くセラ。しかしすぐさま、もう一度同じ攻撃を仕掛ける。

 無駄だ。何もかも、次元が違い過ぎる。セラが必死に生み出した血の刃は、彼女の、ただの腕の一振りで、全てが弾かれてしまうのだから。

「な、んで………!」

 初めて、恐怖するような小さい声が漏れた。後退るセラに、九尾の獣は疾走を始める。

「……ッ!来るな!」

 再び展開される血の池。しかし、何もかもを呑み込む赤き沼は、金の輝きに近づいた途端に蒸発し消えていく。

 狐の接近は止まらない。こうなってしまえば、セラはもはや逃げるしか選択肢は残っていなかった。ただひたすら、己の脚に超常の力を宿して、一歩が百歩に伸びてさえ、迫る狐からは絶対に逃げられないとしても、だ。

「……なんで!なんで、なんでなんで、なんでッ!!」

 怨嗟の叫びは、無力な悲鳴へと変貌する。必死に逃げ延びるセラは、その途中に幾つもの刃を障害に残すけれど、それすらも無意味と嘲笑うかのように、彼女の疾走が全てを打ち砕いて進む。

「ふざけるな!どうして、私は、こんなにも苦しんだのに!」

 どんどんと、縮まっていく距離に比例するように、少女の顔に浮かぶ苦痛も増えていく。

「私のほうが正しいのに!間違っているのはお前のほうなのに!」

 そんな叫びが何かの足しになるわけもない。けれど、そうせずにはいられないように、追いすがる狐に向けて、憎悪と憤怒をまき散らす。

「許さない…許さない…!お前なんて、死んで消えろッ!」

 背後にまで迫った彼女に対して、セラは決死の一撃を放った。

 けれど。

「―――――え?」

 その一撃が繰り出されるよりずっと前に、既に勝負はついていたのだ。

『……………』

 少女の腹に、鋭利な牙が突き立てられる。

 ぐじゅり、と泡立つような音と共に、肉と骨が混ざり合って、強靭な顎が噛み潰した。

「かッ、は………!」

 それが何もかもの幕引きであったかのように、セラは一瞬で力を失い、勢いそのまま慣性に従って、地面に墜落した。

 何度も転がり続けた末に、ようやく停止したセラ。血と土に塗れた少女は、腹部に開いた大穴を抑えながら、苦痛に喘ぐように息をする。

「……決着は付いたでしょう。もう、諦めなさい、セラ」

 こつり、こつりと、ゆっくりとセラに近づくその姿は、とっくに普段の人型へと戻っていた。足元で、立ち上がろうと必死にもがくセラを睥睨しながら、彼女はそう言い放つ。

「命は取らない。だから、今すぐこの場を立ち去りなさい。もう二度と、彼を傷つけないと約束して」

 その言葉に、ままならない呼吸を続けるセラは、絶え絶えの声を出す。

「まだ……わた、し、は………負けて、な、い………!」

「いいえ、私の勝ちよ。そして、あなたの負け。もしも認めないというのなら、――ここで、あなたを殺すわ」

 殺す、という言葉が、冷たく響いた。

 瞬間、セラはぴくりと動きを止める。アルネラさんの言葉が、彼女にどれだけの意味をもたらしたのかは分からない。けれどそれは、決定的な瞬間のように、彼女の何かを変えてしまったように見えた。

「なん、で………」

 地に這いつくばる彼女は、震えながら、その顔を上げる。

「なんで、なの……」

 ただひたすら、善良だったはずの一人の少女に、もはやかつての面影はない。血に塗れ、怒りと憎しみをその眼に滾らせる、――――復讐鬼のように、彼女が見えた。

 どうして、こうなったのか。何が、彼女をそうさせたのか。あるいは、自分が、彼女を、こんなにも追い詰めてしまったのか。

「私は、ただ……!」

 嗚咽し、涙をこぼすその姿は、胸を割くようにそう叫んだ。

「彼のことを、愛していただけなのに!!」

 吐きだす血を飛び散らせながら、絶叫する彼女は十字架を握る。

「……我、正しさの契約のもとに!今より、天命を、成し遂げん!」

 無理だ。そう誰もが思った。

 しかし、

『―――――――』

 そのとき、奇跡が降り注いだ。

「………な、なんで!?」

 驚愕する二人の視線の先。割れる雲から、莫大な光が降り注いだ。見るも眩い極大の光たちは、辺り一帯を全て白く輝かせる。それはまるで、本当に、神の偉容の一部であるように。

「まさか、まだ聖術が使えるの…!?」

 降り注ぐ光の柱は、照らされたものを灰に溶かしていた。幾重にも襲ってくるそれらを躱す彼女に、自分は叫んで答える。

「ありえません!一度でも黒魔術に手を出したのなら、聖術は使えないはずです!」

 しかし、現実はこうだ。セラの祈りに呼応するように、いくつもの神の御業が、次々とこの地上に光臨する。

 天の裂け目から現れた四人の騎士。地上を破壊する大地震。暗黒太陽、降り注ぐ流星。七つのラッパが七つの災いを引き起こし、身を投げる聖人たちが、武装天使を呼び寄せるため、その血肉を捧げる。

 その光景はまるで、聖書に予言されたかの終末そのものだ。何もかもがおかしくなった世界において、その象徴のように、叫び吠える人間が一人。

「彼は、絶対に渡さない!その身も、心も、命さえも!全て、私のものなのだからッ!」


 * * *


 襲来する神話の大群を前に突き進むアルネラは、一人の少女の叫びを聞いた。

「――私はただ、彼の傍に、いつまでも居たかっただけなのに!」

 泣くように叫ぶ声を聞いて、胸を満たす痛みに、ぎりりと唇を噛んで必死に堪える。

「――どうしてなのよ!彼の隣にいるのは、私じゃなく、どうしてあなたなの!?」

 出来の悪い夢を、また繰り返している。あぁ、この光景は、何度も見たものだ。

「――どうして彼は、私ではなく、あなたを選んだの!?私のほうが、ずっとずっと、彼を愛しているのに!どうして、彼を、私から奪うの!」

 私はただ、誰かに、本当に愛されたいだけなのに。たったそれだけが、何より難しい。

 人の愛には限りがあって、その人の一番であることは、たった一人にしか許されない。

 誰かがいた。

 愛されたい自分は、そんな誰かが好きになって。彼もまた、私を愛してくれた。

 けれど、彼を好きなもう一人がいて。彼は、片方を幸せにしたけれど、もう片方を、絶望させた。

 私の呪いに惑わされない方法。その一つは、憎しみだ。だからいつも、終わりはこんなふうだった。

 私は、誰かの“好き”を奪うしか、愛されることができないから。

「魔女め…!穢れた淫婦め!……私に、ユーリを…!―――返してよぉッ!」

 違う。私はただ、それでも誰かに、愛してほしかっただけなのだ。

 たとえ、どんなものを、犠牲にしてでも。

「――ごめんなさい」

 騎士を、馬ごと打ち砕く。

「――ごめん、なさい」

 災厄を、片手で振り払う。

「――ごめん…な、さい……!」

 無数の天使を、同時に撃ち落とす。

「―それでも、私は………」

 目前に、彼女を捉えた。私は、手の中の得物を、握りしめて。

「彼に、愛して、ほしいから……!」

 少女の胸を、容赦なく、貫いた。

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