第14話

 この街で最も多くの商店が集まる中央の大通りは、休日ということもあって、いつも以上の賑わいを見せていた。

 普段ならば、行き交う人々の視線は、並べられた露店の商品や、香り高い菓子の屋台に向けられているはずなのだが、今日だけは少し違うようで。

「おい……あの三人組……見ろよ、どの子もめちゃくちゃ可愛くねぇか?」

「たしかに…真ん中の背の低い子とか俺けっこう好みかも……!」

 恐る恐るというふうに、下を向きながら歩く自分の背から、次々とそんなことが聞こえてくるたびに、びくりと肩が震える。

「ほらユーリ。私たち今注目されているんだから、もっと堂々としなさいよ」

「な、なんで注目されているんですか…!目立ったら駄目じゃないですかぁ!」

 声を押し殺しながら、やはり来るべきでなかったと後悔した。今も、通り過ぎる人がみな同じように振り返ってくるせいで、その度にバレるのではと不安に駆られる。

「大丈夫だよ、ユーリ。安心して、誰もあなたが隷属民だなんて気付いていないから」

 それよりも、とセラは落ち着かない自分の手を取り、横から覗き込んでくる。

「どう?初めて来る大通りは。せっかく来たんだから、楽しまないと損だよ」

 明るく微笑む彼女につられて、自分は恐る恐る顔を上げた。

 やはり、最初に目につくのは人混みだ。道行く誰もが王国人ばかりで、分かってはいても、生理的な不安に尻込みしてしまう。

 そのとき。

「そこのお嬢さん!おやまあ随分と可愛くめかし込んで、何だかとても楽しそうじゃないか!良いもの見せてもらった代わりに、ほら。コイツを持っていきな!」

 快活そうな屋台の店主に声をかけられ、何やら渡されるのをつい受け取ってしまった。布に包まれたそれは、見たところ何かの焼き菓子のようで、

「い、良いのですか…?」

「あぁ、もちろんだよ。嬢ちゃんみたいな可愛い子に食べてもらえるなら光栄さ」

 そういうものだろうか、と困惑する自分に、アルネラさんがこっそり囁く。

「ま、遠慮しないで受け取れば良いと思うわよ。彼も、商売のためにやっているのだし」

「そうなのですか?」

「えぇ。注目されているってさっきも言ったでしょう?あなたみたいに、可愛くて目を引く子なら、片手に持っているだけで良い宣伝になるわよ。…というわけで、私たちの分も貰える?おじさん」

 もちろん、と彼は気前よく返事をして、追加で二人分受け取る彼女。分かるような分からないような理屈に戸惑いながら、手にする焼き菓子にパクリと噛り付いた。

 素朴な甘みと口いっぱいに広がるバターの風味で、得も言われぬ幸福感に包まれる。自分のような人間にとって、菓子というのはそうそうありつけるものではない。久しく口にしていなかった甘味に、思わず頬がゆるんだ。

「ふふ。良い顔するわね。それなら、他のお菓子も食べにいきましょうか」

「あぁ、それはとってもいいですね!任せてください、美味しいところを知っていますから!」

「いや、あの、目的は買い物ですよねって、ちょっと!?」

 ぐいと引き寄せられて、手にする菓子を落としそうになる。どこか熱に浮かされたように気分を上げる二人に導かれて、自分は賑わいの通りを駆けて行った。


 * * *


「……あれ?二人が、いない…」

 まずい、と思った。確か色んな菓子屋を巡っている途中、路上劇の人だかりに巻き込まれてしまったのだ。あれよあれよと人混みに押し込まれていくうちに、知らない場所まで来てしまった。

「ど、どうしよう……?」

 周りを見る。セラもアルネラさんもいないという事実に、冷や汗が湧いてきた。というか、周囲の視線が、徐々に集まってきているのが感じる。

「……ねぇねぇ、あの子もしかして迷子かしら?」

「お人形さんみたいで可愛いー!」

「何だか不安そうだし、ちょっと声掛けてみる?」

 まずい。これ以上この場にいるのは危険だ。とりあえず、どこか人気の無い別の場所に移動しようと思い、最初に目についた路地裏に入り込む。…なんだか、いつかの夜のことを思い出しそうだけれど。

「…いやいや、あんなこと二度と起こらないはずだから………」

 ぶんぶんと頭を振る。それよりも、どうやって彼女たちと合流するかを考えなければ。

「――おい、そこのお前」

「え?って、はい!ごめんなさい入っちゃいけませんでしたか!?」

 突然呼びかけられて、もしやついに気付かれたかと飛び上がりそうになる。慌てて振り返ったそこには、深く外套を被った男が佇んでいて、

「いや、むしろ好都合だ。私はお前と話すために来たのだから」

 戸を叩く夜風のようなテノールボイスが、看過できないことを口にする。

 自分と話すため。まるで、自分が何者であるかを知っているかのようだ。それに、一体いつからそこに居たのだろう。ついさっきまで、この路地裏には自分以外誰もいなかったはずなのに。

 …よく分からないけど、危険だ。

 そう直感して、身構える。

「あまり警戒するな。今はまだ、私はお前の敵ではない。むしろ、目的を共にする協力者というところだろう」

「…何者ですか」

 慎重に問いかける自分を、彼は無表情で見つめた。

「私はお前を知り、けれどもお前は私を知らない。それでは少し面倒だな」

 ならばとこちらに向き直り、男は言った。

「とはいっても、お前が私を知るのに我が名は必要ないだろう。それよりも、私とお前を繋ぐには相応しい別の名前がある」

 彼を初めて真正面から見据える。フードの奥から無機質な眼が覗いて、こちらをじろりと睥睨した。

「アルドネラク・クレイヴィリア。呪いのように愛される女を同じく求める者として、お前に問おう」

 聞き慣れない名。けれど、響きはあの人のものに似ている。

「お前は、何のために彼女と共にいるのだ」

 

 * * *


 時を同じくして、示し合わせたように同じ質問をする者がいる。逸れたもう一人の同行者を探す途中、一人がふと口にしたのだ。

「あなたは、何のために彼と共にいるのですか」

 そう問うのは神官の少女。相対するは、金色の異属の女。違うところがあるとすれば、少女は明確に敵意を向けているということか。

「あら。既に教えてあげたと思うけれど。彼を手伝う代わりに、生命力を分けてもらっているのよ」

 そんな敵意など意に介さず、むしろ面白がるように微笑む彼女。それを自分は、いっそう敵視するように睨みつける。

「…それは彼が話したことです。私はまだ、あなたの口から聞いていない。それに、生命力を吸収して力を取り戻すことが目的なのであれば、もっと効率の良い方法があるはずでしょう」

 どうしてか、自分はこのアルネラという女を認めることができなかった。彼女が異属であることが理由ではない。ユーリが彼女と話している光景を見る度に、そのままにしておけない焦燥感を覚えてしまうからだ。

 最初に彼女を目にしたときは、こんな感情ではなかった。ただひたすら、彼女の美しさに目を奪われ、愛おしいとすら感じたはずだ。

 けれども今は違う。そんな愛しさを外に押しやる、一つの感情が生まれつつある。

「…教えてください。あなたは、何のために、ユーリの隣にいるのですか」

 そう言いながら、自分は考えた。それを彼女に問いかける自分は、どう答えてほしいのだろうか。

 もしも彼を利用し、傷つけようとするならば、異属であろうと決して容赦しない。今ここで、死力を尽くして彼女を討ち果たそう。けれど、そうではなかったのなら?自分と同じように、何より彼の幸福を願うのならば?

「――――――」

 雑踏の靴音。賑やかな人々の喧騒。普段はノイズとなるそれらも、彼女の次の言葉を遮るには頼りない。

 蕾のような唇がひらく。己の問いに、答えを返すため。何を言うかなど分かりきっている。だって、誇らしげなその顔が、なにより彼女の善性を証明していたから。

「私は―――」

 あぁ、どうか。願わくは、その先を言わないで。


 * * *


 躊躇うことなく、自分は言い放つ。

「僕は、彼女のことが好きだから。彼女のために、生きたいと思ったからです」

 それを言う今この瞬間だけは、目の前の男が何者であるかなんてどうでもよかった。彼女以外に初めて口にするそれは、まるで世界全てに誓っているようで、実に誇らしい。

「愛しているかどうかはまだ分からないけれど、好きであることは間違いないのです。だって、そうじゃなければ、――初めてのこの気持ちに、どうしても説明が付かない」

 彼女と離れたくない。彼女といつまでも一緒にいたい。意味もなく出鱈目に、そう思い続けてしまうのはなぜだろう。

「…だが、彼女には例の呪いがある。その限り、お前の想いは決して届くことがない。なにより彼女が、それを信じないだろう」

「ならば、自分は彼女の呪いを解きます。そのためなら、何だってしてみせる」

 そう自分が言うことを待ち望んでいたように、男は満足げに笑みを浮かべる。

「ハ。お前はそう言うだろうな。喜べよ、少年。やはり我々の目的は同じものだ」

 ぐにゃりと頬を歪めながら言う彼の姿は、不穏な雰囲気を醸し出しているように見えた。

「残念だが、お前が何をしようとも彼女の呪いを解くことはできない。でも、呪いを失くさせることはできる。解呪師なら、その方法をよく知っているだろう?」

 フード越しに覗く瞳が、意味ありげにこちらを見つめた。

「…つまり、誰かに呪いを移す、と?」

「誰か、ではない。この私に、だ。彼女の“誰からも愛される”という呪いを手に入れることこそが私の目的。そしてお前は、彼女の呪いを解くためなら何だってすると言った。どうだ?お互いの目的は一致しているだろう」

 そこまで言って、彼は羽織っていた外套のフードをはぎとり、ようやくその顔を露わにする。

 浅黒い肌。まだらに浮かぶ、色素の抜けた白斑。グレーの髪は、のたうつ蛇のように枝分かれし、あらゆる光を吸い込むような漆黒の瞳がぎらりと眼光を放つ。

「我が名はイヴリース。ユーリ、お前が真に彼女を愛したいと望むのなら、この私と協力してくれ」

 砂漠の国における悪魔の名を冠した彼は、そう言ってこちらに手を差し伸べた。もはや、自分の名を知っていることに疑問は抱かない。彼がそう言い出すことは予想していて、それに自分がどう答えるのかも決まりきっていた。

「いいえ、それはできません」

 そう言い切る自分に、彼は眉をぴくりと動かす。

「なぜだ。お前は、彼女の呪いを解きたいのではないのか?」

「えぇ、それはもちろんです。でも、その方法だけは、絶対に使わない」

 毅然と言い返すのは、前の彼女の言葉を覚えているから。この確信は、きっと間違っていない。数百年間生き続けた彼女が、一度もそれをしなかった理由を、自分は理解していた。

「――――そうか」

 それだけ言い残し、諦めたように彼は瞑目した。

「――なら。今からお前は、私の敵だ」

 ばちりとその眼が開いた瞬間、彼は外套の下に潜ませていた短刀を、瞬時に自分の喉元目掛けて繰り出した。

 避けられない。何もかもがスローになる一瞬のなかで、自分はそう諦めようとして、

「――!」

 キン、と金属同士のぶつかり合う音が響く。直前まで迫った短刀を、何かが一瞬で弾き飛ばした。

「――なんだか嫌な予感がすると思ったら、また面倒ごとに巻き込まれているわね。ユーリ」

 聞き慣れた声が耳の後ろから聞こえた。振り返らずとも、それが彼女のものだと分かる。

「アルネラさん……!」

 そう呼びかけるのも束の間、彼女は自分を片手で抱き上げ、勢いよく後ろに跳躍する。イヴリースから距離をとり、自分を背の後ろに隠したうえで、彼と対峙した。

「おぉ……おぉ!再開を待ち望んでおりました、呪われし姫よ!」

 彼は、アルネラの姿をみとめるや否や、恍惚とした表情を浮かべる。一方の彼女は、どこか冷めたような目で彼を見る。

「そう。私としては、二度と会いたくなかったけれど。…なに?あんな酷い目に遭わされて、まだ懲りていないのかしら。それとも、今度こそ本当に死にたいの?」

 気怠そうに聞こえるけれど、その言葉ほど落ち着いている様子は感じ取れない。隙さえあれば即座に殺す。そんな雰囲気をまとう彼女の殺意を受けてなお、彼は慇懃そうにお辞儀するほどの余裕を見せた。

「彼に手を出そうとしたことについては謝罪します。なにしろ前回で縁を断たれてしまいましたから、私自らあなたに会いに行くことができなかったのですよ。…けれど、良いものを見せてもらいました。本当に彼のことを気に掛けていらっしゃるのですね、あなたは」

 にやりと口を円弧に歪めて、彼は愉しそうに話し続ける。

「あなたから寵愛を受けるなんて、なんと―――哀れなことだ。同情するよ、まったく。なにしろ、最悪の結末が約束されてしまったようなものなのだから。…そうでしょう?姫君よ。そうやって今まで、どれだけの人間を愛し、そして破滅させてきたのです?」

 そう口にするイヴリースに、彼女は何も答えない。ただ真っ直ぐ彼を見据えるその眼からは、何の感情も読み取れなかった。

「ユーリ、君にも一つ忠告しておこう。もしもこれ以上、彼女と共にいるというならば、君は間違いなく最悪の結末を迎えることになる。たとえば、彼らのように」

 彼がそう合図した途端、こつり、こつりと、彼の背後にある曲がり角から、何かが近づいてくる音が少しずつ聞こえてきた。

「あなたを探す途中、少々面白い物がありましてね。姫様なら気に入ってもらえるかと思い、わざわざ連れてきたのですよ。えぇと、彼は…いったい何番目の恋人でしたかな?」

 現れた人影に、彼女は目を見張った。

 継ぎ接ぎのある肌。歪に折れ曲がった手と足。錆び付いた鎧を纏うその姿に、一切の生気は感じられない。血が滴り、肉が零れ、骨が浮き出る。虚ろな眼窩を提げ、疲れ果てた亡者のように佇むその姿は、まさしく生きながらにして死んでいる動く死体リビングデッドのようだった。

「貴様ッ……!」

 瞬間、全てを置き去りにするほどの勢いで彼女はイヴリースに突進する。

 右手には太刀。彼の首目掛けて、刹那に振り下ろされる神速の一撃を、隣の亡者がすぐさま反応して受け止めた。その手には、今も色褪せぬ輝かしい剣が携えられている。

「おっと、その様子では大変気に入ってもらえたようですね」

 涼しい顔のまま、そう言う。亡者の振り払いを受け、大きく後退る彼女は、けれども強くイヴリースを睨みつけたままだった。

「イヴリース、貴様…!彼らの墓を、暴いたのか…!?あまつさえ、死者を操るなんて……!」

 いつになく取り乱す彼女。太刀を握る手は震え、瞳は怒りに染め上げられていた。

「えぇ、もちろん。彼だけではありません。それ以外にも、ほら」

 パチン、と彼が指を鳴らした瞬間、新たに三つの人影が現れた。

「平和を守護せし傭兵王。百年続いた戦争を終結させた聖人。とある国で、最も善き政治を敷いた希代の賢王。――そして、巨悪を滅ぼし、救国を果たした大英雄。どれも、あなたが愛し、そして最後に破滅させた者たちだ」

 彼らの名は、自分も知っている。それらが送った、悲惨な結末も。…考えたくはないけれど、それすらも、彼女が―――

「その通りだ、ユーリ。その女と共にいるということの意味が、これでようやく理解できただろう?」

 暗く俯きかけた自分の内心を見通すように、彼は言葉を投げかける。

「彼女といれば、お前もいずれ彼らと同じ末路を辿ることになる。何より彼女を愛そうとして、その結果誰からも憎まれ、最終的に悲劇の死を迎える。それでもお前は、そんな女と、本当に共に居たいと思うのか?」

 彼は、笑ってそう言い放った。何を答えるかなんて、もはや分かりきっているかのように。

 ふと隣を覗く。アルネラさんは、視線を落として俯いていた。普段の余裕げな雰囲気には程遠い、追い詰められたような表情。たったそれだけで、彼の言っていることが嘘ではないということが分かってしまった。

「…たしかに、彼女と共に生きるなら、そんなことも覚悟しなければならないのでしょう」

 ぎゅっと、きつく口をつむぐ彼女。

「――だけど」

 辛そうな彼女が見ていられなくて、理由も分からず言葉にした。

「たとえ、アルネラさんと共にいる人生が、どうしようもない破滅を約束されているとしても。そんなことが彼女と離れる理由にはならない」

 そう口にする。何よりも強く、彼女に届くように。

「どんな結末であろうと、少しも怖くない。もしも終わりが決められているなら、それまでずっと、僕はアルネラさんと一緒にいたい。それは、誰にでも誇れる自分だけの願いで、だからその選択に、僕は少しの後悔もないのです」

 それが今の自分の生きる意味。彼女と一緒にいて初めて、僕は、生きることができるのだから。

「……だけど、勘違いしないでください」

 ここまで言ってきた彼の言葉に、一つ訂正できるとすれば、それは。

「僕とアルネラさんは、悲しい結末にする気はありませんし、させる気もありません。僕は解呪師で、彼女の呪いを解くと誓いましたから」

 そう言い切る自分を、彼は忌々しいように睨みつける。

「…ならば精々、無駄な足掻きをしたうえで、その女に何もかもを狂わされるがいいだろう。あるいは、今ここで、全てを終わらせてやろうか」

 そう言って手を挙げた瞬間、彼の周囲にいた四人の英雄亡者たちが、一斉に武器を構えた。

「我が目的はただ一つ。姫君の“愛される呪い”を、この身に宿すこと。その呪いがあれば、他人の心など思うがままだ。さすれば、この世界全てを支配することだって可能だろう…!」

 口端を吊り上げ、邪悪な笑みでその顔を覆い、悦び猛るように哄笑を響かせるイヴリース。不快な金切り声が、路地裏に何度もこだまする。

「…それでは、いつかの続きと参りましょう。姫君よ、どうか私を飽きさせないでくださいね?」

 その声を合図とするように、開戦を今かと待ち侘びる亡者たちが、一斉に吶喊を始めた。

 肉薄する四つの死。地を駆け、壁を蹴り、天を飛ぶ。その一つ一つが、自分たち二人を殺し切ってなお余りあるほどの脅威だった。

「………ッ!」

 それらを防ぐ彼女から、苦悶の声が漏れた。

 死霊術で蘇らされた亡者といえど、間違いなく彼らは元英雄。歴史に名を馳せた、伝説の戦士たちだ。その強さは、今までのどの敵とも比べ物にならないだろう。

「ハ、無駄なことを。たとえあなたの幻術でも、彼らには効きませんよ。なにしろ惑わされる意識すら存在しないのですから」

 後方で戦いを眺めながら、余裕げな態度を見せるイヴリース。彼の言うことが本当ならば、アルネラさんは剣技だけで亡者たちを打倒しなければならないことになる。

 不利なのはそれだけではない。

「……ユーリ!」

 自分に向けて放たれた斬撃を、とっさに彼女が振り返って撃ち落とす。亡者たちは自分も狙ってきた。つまり彼女は、僕を守りながら戦わなければならないのだ。

「だいじょうぶですか…!アルネラさん…!」

 頷く彼女に、あまり余裕は見られない。どうすれば、と迷っているそのとき、

「ユーリ!今使える魔術は何かある!?」

「緊急用の逃走魔術しか持ってません!それも、近場に避難することしかできないので……」

「それでも良いから、どこか開けた場所に移動できる!?」

 良く分からないけれど、とりあえず大声で頷き答える。

「ならやって!今すぐ!」

 迫り来る亡者たちを凌ぎながら、彼女は自分に身を寄せる。己は、すぐさま懐から一つのガラス瓶を取り出し、宙に放り投げた。

 緑の木々、流れる水、散りばめられた石柱。極小の自然が閉じ込められたガラスの箱庭は、石畳に衝突し破裂した瞬間、中身の自然を膨張させながら、周囲を土と木々で覆っていく。

「なに…?これは、まさか……!」

 驚愕の声がイヴリースから漏れた。そんな姿すらもすぐさま覆い隠すように、次の瞬間には濃い霧が辺り一帯を呑み込んでいく。

「――オークの木々、浄化の聖水、星を呼ぶ天体石。騎士を惑わす女王の霧ファタ・モルガーナよ、今こそ我が身を彼方に連れて行け!」

 唱えた瞬間、身体が霧と一体化する感覚を得る。それは風に押されて飛んでいき、願う場所へと導いてくれる。

 霧が晴れる。そこは、先ほどの路地裏ではない。周囲を煉瓦造りの建物が囲うそこは、街の一角にある大広間。あたりからは、突然の濃霧によってパニックとなった人々の悲鳴が今も聞こえている。

「…とりあえず距離は離しましたけれど、すぐさま追いついてくると思います。どうするつもりなのですか、アルネラさん?」

 人払いをしながら、この場所に民間人が近づいてこないよう結界を張る自分に、彼女は答えた。

「当然、迎え撃つしかないでしょう。逃げても隠れ続けなければならないし」

 先ほどの雰囲気とは打って変わって、どこか気楽そうに話すアルネラさん。それよりも、と彼女はこちらに向き直って、

「ねぇ、ユーリ。どうして、私の呪いをアイツに移そうとしなかったの?」

 拍子抜けにそんなことを聞いてくるものだから、思わず気が抜ける。…というか、

「…もしかして、僕が彼と話しているのを聞いていたのですか…?」

「そんなのどうでもいいから。どうして断ったのよ、あなたは」

 それはまあ、と自分はあまり考えずに答える。

「自分の心は、自分だけのものですから」

 そう言った瞬間。

「―――――」

 ぎゅっと、思い切り抱きしめられた。彼女は、耳元で優しく囁いて、

「ユーリ。……控えめに言って、最高よ」

 そのとき、目の前から石畳に何かが着地する音が聞こえた。

「…北方諸島に伝わる魔術、ドルイドの秘儀か。随分と珍しいものを見せてもらった。それで?一通り逃げたら今度は、何をするのですかな?」

 そう挑発するイヴリースに、彼女は毅然と言い放つ。

「えぇ。逃げるのはこれで終わりよ。だから今度は、――こちらから行くわね」

 そう口にした瞬間、彼女は、今まで隠していた尾を一気に伸ばす。しゃらんと、どこからか鈴の音が響いた瞬間、尾は光を放って幾つも枝分かれした。

 狐の耳。金の長髪。いつ見ても眩しいその姿が、微かに揺れた気がして、次のまばたきの瞬間、四つに分身した。

『さぁ、これで数はイーブンね。それじゃあ、久しぶりに本気でやろうかしら』

 四人のアルネラさんが疾走する。髪が流れる。ほうき星が尾を為すように、金色の奔流が跡に残って輝いた。

 激突する双方。とっくに朽ち果てた英雄と、今もなお輝き続ける狐が、熾烈な戦闘を繰り広げる。

 先ほどよりも彼女の動きは機敏になっているように見えた。けれど、戦いで名を馳せた英雄たちには、それでもあと一歩及ばない。何合と交わされる剣戟のすえ、まさに亡者の一撃が、とうとう彼女に届かんとしたそのとき、

「――――なんてね」

 斬撃を受けた彼女の一体が、切り裂かれた部位から分かれるようにまた二人に分身する。他の彼女も同様。一撃を受ければ分身し、そうして増えた彼女らもまた、斬りつけられれば途端に分かれて増殖する。

 それが、何十回と繰り広げられた結果。広大無辺としていた広間は全て、アルネラさんの姿で埋め尽くされてしまった。

「んー。やっぱりユーリは抱きしめ心地が最高ねぇ……」

「これで中身は大人だっていうんだから、遠慮せず色々できるわよね」

「ちょっと、少しはこっちにも分けなさいよ」

 などと、戦闘などそっちのけで遊んでいる彼女もいる。というか、今も無数のアルネラさんに囲まれて、撫でられたり抱かれたりと好き放題されているわけだが。

 それはともかく、こうなってしまっては、戦いに技量も何も関係ない。圧倒的な物量に対して、為す術なく押しつぶされるだけだ。

「ッく……!仕方ありません、こうなったら私自ら……!」

 追い詰められたイヴリースが、何事かをしようと動いたそのとき。

「――我、正しさの契約のもとに、今より天命を成し遂げん!」

 高らかに響き渡る声。神聖なる主の御業を呼ぶ祈り。天から降り注ぐ光の柱は、彼の周囲を囲うように現れる。

「主の御名において、招来されよ裁きの雷!無垢なる者を穢す逆徒に、慈悲なき鉄槌を下し給え!」

 瞬間、辺り一帯を覆い尽くすほどの極光と、耳をつんざく轟音を伴って、極大の雷光が彼の頭上に降り落ちた。

「な――――」

 彼の悲鳴すら塗りつぶし、何もかもを灰に変える光の奔流。ほんの一握りの神官のみが扱える、正真正銘の神の裁き。けれど、

「―――これは、騒ぎを大きくしすぎましたね。教会の神官まで来られては、今の装備では相手にならない」

 いつのまにか、イヴリースは建物の屋根に立っていた。彼はこちらを向いて、

「いずれまた参りましょう。今度こそ、あなたの呪いを手に入れるために」

 それだけ言い残し、彼は飛び降りて、路地裏の闇へと消えて行ってしまった。

 見えなくなったその姿に、何とか助かったと安堵する。最後の言葉は心残りだが、とりあえず今の危険は去っていったのだと思う。そう思った瞬間、全身の力が抜けるような脱力感に包まれた。

 それを支えるように、アルネラさんが隣に立った。見れば、もう分身は消えているようで、耳も尾も元に戻っている。

 お疲れ様です、と自分が言うよりも先に、彼女がまず口を開いた。

「ユーリ」

「は、はい。なんですか?」

 なんというか、いつにもまして真剣な表情をしていて驚いた。何を言うかと思えば、

「私、その、……未通、だから」

 は?と一瞬言葉の意味が分からなかった。

「いや、だから!あの男が、私の過去について何だが色々と話していたと思うけれど、あまり気にしないで、っていうことよ……」

 恥ずかしがるように頬を染めて言うのを見て、自分はようやく理解した。おそらくは、アルネラさんが昔に愛していたという人たちのことを言っているのだろう。

「ふふ。大丈夫ですよ、僕は気にしていませんから」

 笑ってそう言う。けれど彼女は、それだけでは信じられないようで、

「そ、そう?本当に……?」

「えぇ、本当です。というか、たとえアルネラさんが他の誰を愛していたとしても、僕があなたを好きと思っていることは変わりませんから」

 素直にそう言った。すると、難しい顔をして、

「それは…そうかもしれないけど。……でも、普通は嫌でしょう?好きになった人に、昔愛していた人がいるって知ったら……」

 そういうものだろうか。そう不思議がる自分をみて、まあいいわと彼女は頭を振る。

「それはともかく、…今日は大変なことになったわね」

「そうですね……あ、セラにも会いにいかないと」

 最後、何事かをしようとしたイヴリースを寸前で止めたのは彼女の聖術だ。助かったと、感謝を言いに行かなければ。

「あぁ、あの子なら。この騒動の事後処置をしなくちゃいけないとか言って、教会のほうに行っちゃったわよ」

 それは、なんというか、自分のせいではないけれど、申し訳ない限りだ。後で彼女の好きなものでも買っておくとしよう。

「それじゃあ、セラには悪いですけど、先に帰ってましょうか」

「あら?せっかく可愛くしているのだから、もっと遊んでいかないの?」

「だからですよ!早く帰って、すぐにでも着替えたいんです!」

 そんなことを言いつつも、結局はアルネラさんに連れられて、その後も街を巡っていたのだった。


 * * *


 そんな二人の姿を、遠くから覗き見る者がいた。つい先ほど彼らに敗北し、逃走を余儀なくされていた彼だったが、けれどもその表情に悲観的な感情は無い。今の彼を突き動かしているのは、異常なまでの支配欲だった。

 金、力、人。この世のありとあらゆるものを手に入れるまで収まらないその欲望を糧に、彼は次の策に想いを巡らせる。

「…それにしてもあの少年、本当に彼女の呪いの影響を受けていないとは。いったいどういう仕組みだ…?」

 彼自身でさえ、彼女の呪いに多少なりとも影響を受けてしまっている。だからこそ、今回の作戦を含め、今までは全て彼の使役する兵士たちに戦わせていた。

「……いや、彼女の呪いに対抗する方法はある。一つだけ。…けれども、そんな様子でもなかったようだが。というかそもそも、もしそうなら彼女と一緒になどいないだろう。ならば、やはりどうして………」

 そこまで考えたそのとき、二人の会話を魔術で盗み聞いていた彼は、興味深い言葉を耳にする。それは、何気なく答えた少年のものだった。

「……おい、まさか。そういうことか…?」

 気付いた彼は、にやりと頬が歪むのを抑えきれないようにして笑う。

「いや、本当かどうかをまず調べてからだが……。ハ、もしそうなら、あの女の悲願は何から何まで台無しじゃないか……!」

 ひとしきり愉しんだあと、彼は真逆の方向にも目を向けた。視線の先にいるのは、今にも崩れ落ちそうなほど弱々しく歩く一人の少女。

「ならば、アレも上手く使えるかもしれんな……?」

 それだけで、次の行動が決定された。狙いを定めた獣のように、彼は音もなく跳躍していく。


 * * *


 揺れる視界。不明瞭な意識。歩き方を忘れた獣のように、自分は彷徨い続けていた。

 ここは何処だろう。自分は何をしているのだろう。…あぁ、そうだ。帰るべき方向はこちらではないのに、嘘まで伝えて、こんなところまで逃げてきてしまったのだった。

「ぅ……あ………」

 胸が苦しい。息が吸えない。余計なことまで思い出したせいだ。でも、考えないでいようと思えば思うほど、脳裏にはそればかりが浮かんでくる。

『私はユーリが好き。何より彼のことを愛している。いつまでも一緒にいたいと思うし、だからこそ、幸せにしてあげたいとも思うのよ』

 あぁ、なんて誇らしげに言うのだろう。とても眩しくて、見ていられないほどに。自分と同じだなんて思っていたけれど、それでは自分以上だ。だって私は、ユーリを―――

 そこまで思って、考えを振り払う。私はただ、ユーリが好きなだけ。誰よりも愛している。その優しさも、その笑顔も。あぁ、そういえば。

「…ユーリ、笑ってた、な………」

 純粋に、無垢に。―――自分に見せる笑顔とは違った。心の底から、本当に幸せそうに笑うのを見た。そのとき隣にいたのは、やっぱり彼女だった。

 そっか。彼を幸せにするのは、自分じゃなくても良かったんだ。彼を守るのは、彼を好きになるのは、自分じゃなくても良いのだ。なんで今まで気付かなかったのだろう。

 彼の顔を思い出す。愛おしく微笑む彼を。あぁ、なんて喜ばしい!苦しんでばかりの彼が、あんなに幸せそうに笑うなんて!なんて!なんて、なんて、なんてなんでなんでそれが私ではなく私ではない自分以外のそれは私のするべき彼を彼を彼を彼を彼を―――――

「………ッ!?」

 違う。こんなことを願うはずがない。本当に私は、ただ、彼の幸福を願っているだけなのだ。そうしてやれることが自分ではないことが、少しだけ悲しいだけで――――

『ハ、そんなわけあるかよ』

 声がした。一瞬幻覚かと思ったけれど、もう一度響いたとき、それが現実だと気付く。

『もっと自分に正直になれ。そのほうが何倍も楽だろう?』

 誰が話しかけている?何度も振り返るけど、声がする先には誰もいない。周りには、誰もいない。誰もいないの?大通りを歩いていたはずなのに?いったい私は何をしているの?私は、何処に着いてしまったの?

『嫌なんだろう?彼を奪われるのが』

 そんな疑問を打ち消して、自分にある全ての意識が、その一言に引き寄せられた。

「……ち、違う!私は、ユーリが、幸せになってもらいたいだけで……!」

『嘘をつくな。お前は、彼を、――ユーリを、自分のものにしたいだけだろう?』

 違うと思った。そう、思ったのに、口は否定を言葉にしてくれない。

『なにも恥じることはない。そんなの当然さ、誰だって思うことなんだから』

 誰だって、思うこと。その言葉だけが、頭のなかを何度も反復し始める。

『その通り。愛する人には自分だけを見て欲しい。その身も、心も、自分だけのものにしたい。なぁ、これっておかしいことか?違うよなぁ。人間なら誰もが持ちうる、ごく自然な願望だ。なら、そんな願望を否定するのはおかしいだろう?』

 不思議なこえだ。耳から聞こえるのではなく、脳に直接ひびいてくるような。きけばきくほど、どこか遠くに、意識がとんでいく。

『お前の欲望は間違っていない。お前の望みは正しいものだ』

 言葉がぐるぐるまわる。あたまがふわふわかるくなる。そのなかで、声だけは強く響き続けて、

『……それではもう一度聞こう。お前の本当の願いは、いったい、何だ?』

 ユーリと一緒にいたい。ユーリと離れたくない。ユーリを、誰からも奪われたくない。

『なら、そのためにお前はどうする?』

 そのために、私は、

「――――――」

 言った。祝福するように、拍手喝采が鳴り響く。

 気付くと目の前には、いつの間にか知らない男が立っていて、

「よくぞ言った!それでこそだ。ならば、その勇気に応えて、願いを成し遂げるための力を君に授けよう」

 差し伸べられた手。それは、いつかの夜を思わせるもので。

「―――――」

 躊躇わず、自分はその手を取った。

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