第13話

 毎夜、同じ夢を見る。どうしようもなく行き詰った、一人の少女/私の夢だ。

 貧しい家庭に生まれた少女は、ある日一つの呪いに侵される。それは、その者を絶対に殺す死の呪い。両親はどうにかして呪いを解こうと必死になったけれど、ただでさえ貧しいその家に、彼女を救うほどの余裕は無かった。

 だからだろう。彼女は両親に見捨てられ、夜の路地裏に置いてかれた。あるいは、貧しい彼らにとって、それがもう彼女を育てなくていい理由だったのかもしれない。

 霞む視界。動かなくなっていく手足。孤独に虚空を見つめながら、もうすぐで死にゆくだけだった少女に、手を差し伸べる人がいた。その瞬間を、彼女はいつまでも覚えている。それは、生涯で決して忘れることのない、夜空にかかる虹のような奇跡だったのだ。

 ゆえに少女は、己を救ってくれたその人のために、これからを生きようと決めた。彼の幸福のために、全てを捧げようと約束した。彼を苦しめる何者をも、一切の許容はしないと誓った。

 それが私の生きる意味。彼に救ってもらったことへの、せめてもの恩返し。そんなことしか返せないけれど、不遇な彼を幸せにできるのは、自分しかいないのだから。

 でも。

「――――ぁ」

 今夜の夢は、いつもと違うものだった。幸せそうに微笑む、誰よりも愛しい彼の顔。

 なるほど。私が何をするでもなく、彼は幸福に笑えるらしい。それは、何よりも嬉しいことのはずなのに、ひどく胸が痛むのに気付いた。


 私がいなくても彼が幸せなら、私の人生の意味は、どうなるのだろう。


「………ぁ」

 ふと、目を覚ます。なぜだかドクドクと心臓が鳴っていて、寝間着にはぐっしょりと汗が滲んでいた。

 なにか、酷い夢を見ていた気がする。幸いなことに、内容はもう忘れてしまったけれど。

 ふう、と深く呼吸する。窓を覆うカーテンから朝日が淡く漏れ出ているのを見て、もうこんな時間かと身体を起こした。

 そこは、己が通う修道女学院の寄宿舎。学院に所属する者は、基本的にこの寄宿舎で暮らしながら、修道女になるための知識や技術を学んでいく。

 とはいえ、今日は安息日で講義も何もないため、他の子たちはまだ殆ど起きていない。こんな時間に目を覚ますのは、せっかくの休日を街で遊んで過ごそうと計画する者くらいだろう。自分も、隣で眠り続けている同居人を起こさないように、静かに身支度を整えて部屋を出る。

 木の板張りの床を、なるべく鳴らさないようにして歩く。階段を降りて一階のロビーに入ると、そこには既に何人かが壁際に集まって談笑しているようだった。

「あら。おはようございます、セラさん」

 そう言って軽く会釈してくる彼女たちに、自分も挨拶を返す。この学院において、一種の儀式のようなそれを済ませて、自分は外出の許可を求めるために受付へと歩いていく。

「――――――」

 外出の理由などを台紙に記入している最中、ふと耳をすませると、背後からくすくすと笑い声が聞こえてきた。こちらにぎりぎり聞こえてくる程度の大きさで、彼女たちは何事かを囁き合う。

「………ふふ。あの人、こんな早くからいったいどこへ向かわれるのかしら?」

「……安息日になるといつもそうよね」

「………北の貧困街にいる御家族にでも、会いに行っているのではなくて?」

「…あら、いやねぇ。これだから孤児の成り上がりは………」

 などと、後半からは少しも隠す気なくべらべらと喋り出す。いつものことだ。相手にするのも無駄なので、振り向かずに玄関のほうへと歩いていく。

「―――――」

 貴族の子女も通うこの学園では、自分は様々な目で見られる。嫌悪、羨望、嫉妬、畏怖。ある人は、自分を教会創設以来の神才と賞賛するけれど、それ以外の人は、孤児の分際でと蔑み憎む。唯一分かっているのは、この場所で自分はあまり快く思われていないということだけ。

 だが、自分にとってそんなことはどうでもよかった。彼らから向けられる感情に価値はない。ユーリ以外にどう思われたところで、自分には多少の関心もない事柄なのだから。

「って……なに考えているの、私は………」

 せっかく今日は彼に会える日なのだ。こんな気分で行っては勿体ないと思って、邪念を振り落とすようにぶんぶんと頭を振る。

 宿舎の玄関を抜けると、一瞬で世界が変わったかのように朝日が眩しく降り注いだ。目が眩んで思わず手をかざすと、さらり、と涼しい風が心地よく駆け抜ける。そんな気持ちのいい朝のひとときに、思わず頬がほころんだ。

「さて、それじゃあ行きましょうか」

 今の時間ならまだ朝の市場が開いているはずだ。彼のもとに行くついでに、朝食の材料でも買っていこうかと思い浮かべながら、足取り軽く歩き出す。


 * * *


「ただいま、ユーリ」

 玄関の扉を開くと同時に、いつものようにそう言って中に入る。すると、

「え?あ、ちょ!?忘れてた!」

 慌てた彼の声が聞こえたと思えば、何やら騒がしい音が家の奥から響いてくる。こんな朝早くに彼が何かをしているというのは珍しい。昨夜は依頼も無かったのだろうか、と考えながら、声の聞こえてきた居間へと向かう。

「…どうしたの?こんな朝から、そんなに慌てて」

 部屋の様子を見ても、いつもより物が片付いて整頓されていること以上の異変はない。

「な、なんでもないよ。あぁ、今日も良い朝だね、セラ」

 額に汗をにじませて、けれども平然そうに軽く挨拶をするユーリ。よく見れば、息を切らすように肩も上下している。本人は隠しているつもりだろうけど、悪いがバレバレだ。

「……まあ、何を隠していても気にしないけど」

「か、隠し事だなんて!僕がセラにそんなことするわけないじゃないか」

 あはは、と笑うユーリ。別に彼を疑うわけではないけれど、今の言葉を聞いて少しだけ悪戯心が湧いた。

「ねぇ、ユーリ」

 なに?と呑気そうな顔を向ける彼を無視して、隣に視線をやる。そこには、何度も使われた形跡のある、綺麗に片付いた台所があった。

「ユーリってさ、料理しないよね」

 数秒黙った後、彼はどこか違う場所を見つめながら話す。

「さ、最近始めたんだよ。セラに頼りっぱなしだと申し訳ないと思ってさ」

 ほう。麦粥すらまともにつくれない人が、どれだけ上達したのか是非見てみたいものだ。

「そういえば。この前の夜、突然教会に負傷して運ばれてきた神官がいたの。知ってる?」

「へ、へぇ…。それは、大変なことがあったんだね……?」

「そう。聞くところによると、川の上流沿いにある森で幽霊払いをしている最中に、盗賊たちに襲われたのだとか。……偶然、同じ目的で森にいた解呪師の少年に、助けてもらったらしいけれど」

「そ、それは、大事に至らなくてよかったなぁ……」

 引きつった笑顔をするユーリに、自分はもう少し続ける。

「それとさ。そのとき、解呪師の少年の隣に、もう一人の女性がいたらしいんだけど」

 目に見えて動揺する彼。

「え、いや、あの、その、えっと。………よ、良く分からないけれど、多分現地で知り合っただけの協力者だったんじゃないかな?」

「へぇ………。あとそれと、」

「まだ何かあるのかい!?」

 必死そうな彼に、容赦なく自分は言う。

「昨日の夜、私変な夢を見たのよね」

「…それは、ちなみにどんな夢…?」

 恐る恐る聞いてくる彼に、自分はにやりと笑って答える。

「ユーリが、とびっきりに美人な女性に押し倒されているのを目撃しちゃった夢」

 だらだらと、止まらぬ汗を額に流す彼を、自分は無言で見つめる。

「ねぇ、ユーリ。隠し事なんてしてない、っていう言葉は、本当?」

 青ざめて硬直する彼に対して、つとめて平静を保ちながら、自分はそう言った。

 沈黙が続く。何も言わない彼に代わって、

『ほら。やっぱり言ったじゃない。どうせ隠そうとしても無駄だって』

 どこからか女の声が響いた瞬間、壁に掛けられていた外套の中から突如一匹の子狐が飛び出し、すぐさま女性の姿へと変貌した。

「……な!?異属…!」

 後退りそうになって、とっさに身構える。家の中に入ったときから、何か人間ではないものが隠れていると気付いてはいたけれど、ここまでのものは予想していなかった。

 きっと、何百年も生きてきた異属なのだろう。敵意さえ向けられていない今でも、あまりの格の違いを身体が直感して、ただ立ちすくむことしかできない。見つめることしか、できない。

 あるいは。それは、彼女のもつ途方もない美しさのせいかもしれない。金を鋳溶かしたような髪。シミひとつない肌。宝石のようなその眼も、瑞々しい赤い果実のような唇も、あらゆるパーツが完璧に整えられていて、まるで芸術家が千年かけて生み出した傑作のようだった。

 あまりにも美しすぎる彼女の前では、たとえ女であっても、その美しさに見惚れるだけの機械になり果てるだろう。

「あら、ふふふ。ありがとう。貴女みたいに綺麗な子にそう思われるなんて、とっても嬉しいわ」

 驚く。鈴の音みたいな声が、いきなりそんなことを口にしたのを聞いて、思わず反応せずにはいられなかった。

「き、綺麗…?私、が…?」

「そう、貴女が。その長い黒髪なんて、特に綺麗よ。星を愛でるために天を見上げたのに、何よりも夜空の純黒に目を奪われるみたいに、とっても素敵」

 そう言って、にこりと微笑みかけるのが堪らなかった。どうやら彼女を見続けていると、自分はだんだんと頬が熱くなってしまうようだ。

「毎日丁寧に手入れしているのでしょう?一目見ただけで分かるわ。だって、想いが伝わってくるもの」

 何でもお見通しであるかのように、自信満々にそう言う。でも、気付いてそう言ってくれるのは素直に嬉しかった。こくり、と小さく頷いて、

「…昔、綺麗だって、褒めてくれたから。……最近は、少しも気付いてくれないけど」

 ちらりと一瞬だけ、茫然と固まっている彼のほうを覗きながら小さく囁く。それを見て、彼女はくすりと微笑んだ。

「そんなことないわよ。彼だって気付いているはず。そんなに心配なら、直接聞いてみましょうか」

 え?と思う暇もなく、彼女は未だに茫然自失としている様子の彼に振り返って話しかける。

「ねえユーリ。今までの私たちの話聞いてた?…聞いていない、と。ならちょうどいいわ。唐突だけど、セラちゃんの一番好きなところを言いなさい。…性格とか内面の話じゃなくて、もっと外見のこと。どんなところが一番可愛いと感じる?」

 ちょ、ちょっと!?いきなりなんてこと聞いてるの、この人!?というか名乗ってもいないのになんで私の名前を!?

「ゆ、ユーリ!この人の言うことは気にしなくていいから……!」

「駄目よ。ちゃんと答えてくれなきゃあの事を言うわ」

 正反対な二人の主張を、あははと苦笑しながら受け取る彼。

「いやまあ、どうしてこんな状況になったのか分からないけれど、あえて言うとしたら…」

 ごくり、と喉が鳴る。なんだか、妙に緊張する一瞬だった。

「…やっぱり、その黒髪じゃないかな。はじめは僕も、そんなに長いと変なところに引っかかって危ないんじゃないかと心配したけど。こうして見ると、長くて綺麗な黒髪は、セラに本当に似合っているよ」

 ………ぐは。

「…って、セラ!?どうしたの!?いきなり倒れて!?」

 聞いた瞬間、色々と限界に達して、ばたりと背中から倒れ込む。

「セラぁあああ!」

「これは…少し刺激が強すぎたのかもしれないわね」

 悲痛に叫ぶ彼が、心配そうに覗いてくるのを最後に視界に収めて、我が人生にこれ以上悔いはないと、満たされた感情のまま己は瞼を閉じた。


 * * *


 唐突に起きてしまったセラとアルネラさんの邂逅に、最初はどうなるものかと不安で見守っていたけれど、最終的にはうまく収まったようだった。どうやら二人とも、とても気が合う似たもの同士だったことが幸いしたのだろう。こうして今も、

「アルネラさん、というのですね。…ところで、彼とはずいぶん馴れ馴れしく話しているようですが、いったいどのような関係なのか教えていただけますか?」

「少し前に、路地裏で襲われていた彼を私が助けたのよ。それからは彼の仕事で力を貸す代わりに、色々なことをしてもらったりしたわね」

 …うん。気が合うのは、間違いないと思う。なんだか二人の間に、妙な圧力を感じないでもないけれど。

「……色々、というのは、いったい彼に何を要求したのですか?」

「あらあら。こんな明るい時間に話すには、あまり相応しくないことよ。そんなに気になるなら、後で彼に同じことをして貰えばいいじゃない。とぉっても気持ちがいいのよ?彼」

 にんまりと笑みを浮かべて、悪戯っぽく言うアルネラさんに、セラはすぐさま顔を赤くして、

「ゆ、ユーリ!?あなた、いったい何をしたの……!」

「アルネラさんが力を取り戻すために、呪力を少し分けていただけだよ。それ以外のことは何もしていないから」

 そう言うと、すぐさまほっとした様子を見せる。

 いちおう明言しておくけれど、今のは決して嘘ではない。本当のことを言っているだけ。呪力を分ける、という目的は合っているのだし。

「……って、もうこんな時間だった。ユーリ、これから中央の大通りで買い物してくるけど、日用品以外に欲しいものとかある?」

 そんな内心の弁明にセラは少しも気付いた様子なく、窓の外に見える高々と昇りきった太陽を見て言う。

「そうだなぁ……今必要なものといえば、」

 つらつらと、雑多に次々と言い連ねていく。生活雑貨がメインだ。神官である彼女に、魔術道具やらを買いに行かせるわけにはいかない。

 すると、そんな様子を眺めていたアルネラさんが、何か思いついたように顔を上げて、

「どうせ買い物するのなら、皆で一緒に行けばいいじゃない?」

 そんな彼女の提案に、答えづらそうにしているセラの代わりに自分があっさりと話す。

「…この街では、王国人が使う主要な施設には、隷属民が立ち入ってはならないとする法律があるのです。でもまあ、一緒にというのは素敵な提案ですね。僕はここで留守番しているので、二人で行ってきても構いませんよ」

 そう言うと、アルネラさんは何やら考える素振りを見せて、

「ねえねえ、セラちゃん」

「なんですか?」

 手招きする彼女に近づいたセラは、ひそひそと何事かを耳打ちされる。

「あぁ、それは面白そ……じゃなくて、いけそうですね!ちょっと必要なものを持ってきます!」

 そう言って、彼女の元寝室(今は物置になっている)に行ってしまった。というか、今、面白そうとか言いかけてなかっただろうか。

「……なにを企んでいるんですか、アルネラさん?」

 若干の不安を覚えながら、じとりとした目で彼女をみる。

「だから、さっきの話の続きよ。要するに、隷属民だと気付かれない格好をすれば良いのでしょう?」

「変装をする、ということですか?…いや、それでも流石に無理があるというか…。そもそも、そんなことをしてまで一緒に行く必要性が無いと思うんですが……」

 率直にそんなことを言うと、とんでもないというふうに叱られた。

「なに言っているのよ。今日は休日で、こんなにも天気が良いのよ?それなのに女の子二人をそのまま家に置いておくなんて……この甲斐性なし」

 それなら二人で遊びに行けばいいのでは?という反論は、どうやら聞いてもらえないようだった。

 …まぁ、良いか。

 そう思って諦めた。無理に断る理由もなし、嫌な予感はするけれど、とりあえず彼女たちの言う通りにしてみようと思った。

 だがしかし。

 しばらくしてから、その判断を下したことを猛烈に後悔することになった。

「あの、アルネラさん………」

 甘い考えをした自分を呪いたくなる気持ちを抑えて、代わりというように彼女を思いっきりにらみつける。

「なによ。何か不満でもあるの?」

 あぁそうだ。不満なら大いにあるとも。変装をする、というならまあいいだろう。だけど、

「なんで、よりにもよって女装なんですかぁ!」

 そう叫ぶ。必死な抗議を、けれども二人は少しも聞き入れず、また新たな洋服を手に取りながら何事かを呟き合っていた。

「ちょ、この人たち全然聞いてない!?セラも何か言ってよ!」

「それは仕方ないよ。だって、この家にある王国人風の服って、昔私が着ていたものしか無いんだもの」

 と言いつつも、新たな服を選ぶ手は止めないセラ。二人とも夢中になって、

「こっちのスカートなんてどう?膝丈でちょっと短いけれど、黒のニーソックスと合わせて脚を少し見えるようにすれば、都会的で素敵じゃない?」

「あぁ、それもいいですね!ならこっちはどうですか?少し長めのワンピースで脚は完全に隠れてしまいますけど、フリルとリボンがふんだんで、とっても女の子らしいですよ」

「ッく…!そっちも捨てがたいわね…!本当、素体が良すぎるのも悩みものだわ」

 このように、先ほどからずっと次から次へと着せ替え人形扱いされているのである。

 それからしばらくして長く壮絶な議論のすえ、上から下までもはや残すところはないというほどに弄りたおされたあと、完成した自分の姿をじっくりと見つめる二人。

「ほ、本当にこれで街に出るのですか…?バレちゃうんじゃないですかぁ…?」

 スカートの尋常ではない通気性の良さに、頼りない感覚を覚える自分を眺めながら、彼女らはまったく同時に、ほうと嘆息した。

「これは………」

「えぇ、完璧よ。何かの詐欺を疑うほどに」

「はい……!最高に可愛いです!もっと色んな人に見てもらいたいですぅ!」

「やめて!本当にやめてぇ!お願いだから冗談と言ってよ二人ともぉ!」

 懇願じみた自分の叫びも、叶えられない遺言のように儚く散っていく。当然ながら、この家に鏡なんてものは存在しないので、自分が今どのような姿をしているのか分からないのが余計に不安を煽るのである。

「大丈夫よ!これはもう確信して言えるわ。誰一人として、あなたが隷属民の男の子だなんて思わないわよ!」

「で、でもこれ、可愛すぎてなんか悪い男に襲われちゃうんじゃないですか…?」

「そのときは思い切ってユーリを差し出してみればいいのよ。襲ってきた奴も、まさかユーリが男だと知ったら度肝を抜くでしょうね」

 笑いながらなんてことを言うんだこの人は。流石のセラも、今の悪趣味っぷりを怒ってくれると信じていたのだけれど、見れば思いっきり彼女の言葉に頷いてしまっている。なんてことだ、この場に味方がいない。

「…しかしこうして二人並ぶと、まるで姉妹のようね」

 おそらくは、自分が今被っている黒髪のウィッグ(入手先不明)があるためだろう。そんな彼女の呟きに、びくりと反応する者が一人。

「わ、私が、お姉…ちゃん……?」

 血走った眼を向けてくるセラに、自分は落ち着けと制止をかける。

「それはともかくとして、そろそろ皆で出かけましょうか」

「…いやもう半ば諦めていますけど。本当に僕も行くんですか…?」

「だ、大丈夫だよ、ユーリ。わたし…じゃなくて、お姉ちゃんが守ってあげるから……!」

 様子がおかしいままのセラにそう言われ、何かもう色々と吹っ切れた自分は、彼女たちに連れられて初めて街へと向かっていった。


 ……後から思えば、このころが一番幸せだったのだと思う。記憶の中の自分は、今この瞬間が、最も得難いものだと知らないまま、満足そうに溜息をついているけれど。

 どうして気付かなかったのだろう。その幸福が、いつまでも続くものではないということを。

大事なモノほど壊れやすい。そんな当然なことを、自分は分かっていたはずなのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る