第12話

 捕まった自分が連れて行かれたのは、治安維持を目的とする教会の留置所だった。自分は今から、女性へ淫らな行為を強制しようとした罪で神明裁判にかけられるらしい。…なんというか、非常に頭の痛い話だ。事態がとんとん拍子に進んでいくことに、この状況を面白がる何者かの悪意を感じる。

「それではこれより、偉大なる主の名の下において神判を執り行う。…罪人、前へ」

 いかにも威厳たっぷりな裁判長の合図を受けて、完全装備の衛兵に議場の中央へと連れてこられる。

「罪状は…なになに……?道義と道徳に背いた、純真な少女への淫らな行為の強要……⁉」

 うーむ、と彼は唸って。

「死刑!これにて閉廷!」

「いやいや早い!早すぎですよ!僕まだ何も弁明もしていないんですけど!」

 というか、なに、少女?純真かどうかは置いておくとして、アルネラさん、少女というにはあまりにも無理があるのではないだろうか……

「いやぁ、姦淫はちょっと、我らの教えでもトップクラスに重い罪であるし…」

「だから、それがそもそも間違っているのですよ!」

「ほう。つまりは申し開きがあると?ならば述べてみるがよい。無論、主に誓って、嘘偽り無く、な」

 じろり、と壇上からこちらを見定める男。

「えっと、いちおう聞きますけど、…もし嘘をついたらどうなるのですか?」

「神罰として、その者に雷が落ちる。簡易的なものだ。声も上がらない程度のな」

「それは単に、悲鳴が上がる前に絶命しているだけでは……?」

 裁判中のワンミスで即死刑執行とは……。それはともかく、全く簡易的ではないことは理解できた。

「では聞くが、その女性とは知り合いだったのかね?それとも全くの初対面かな?」

 それを問われた瞬間、何かとんでもなく凄まじい気配のようなものを感じて、こっそり横を覗く。そこには、傍聴席で裁判の行方を見守るセラの姿があった。

「………………………………」

 いつもと同じ無表情のはずなのに、今だけは何かとてつもなく恐ろしいもののように見える。よし、ここは気付かないフリで誤魔化そう。

「え?えーっと…た、ただの友人ですよぉー。あはは…」

 瞬間。ずどん、と頭上から轟音が鳴り響き、痺れと激痛が全身を駆け巡った。

「いったぁあ――!」

 想像以上の痛さに、耐えきれず叫び声を上げる。何か抗議してやりたくて裁判長のほうを見上げると、何やら彼は書類に目を通しているようで、

「なになに?関係者からの情報提供によれば、被告人は被害者とは恋人のような関係であった、と」

 どさり、と勢いよく倒れる音がした。一方、裁判長の男は何やら興味深そうにしている。

「ふむ。…ぶっちゃけ、どこまでヤッたのかね?A?B?それともCまで?」

 おい職権乱用。と思わなくもないが、また痛い目をみるのも嫌なので仕方なく答える。

「いや、まぁ。……頻繁に抱き着かれたり、たまに口づけされたりもしましたけど。それくらいですよ」

 また雷が落ちた。

「痛!というか、今のは嘘ついてないですよね!?」

「風紀の乱れは見過ごせんからな。……決して、羨ましいとか思ったわけではない」

「……本当ですか?」

「ハ。主に仕えるこの私が嘘を言っているとでも?よかろう、試してやる」

 すぐに挑発を受ける彼。この神官、ずいぶんとノリが良い気がする。

「清廉であることが神官たる責務。私が、そのような劣情を抱くはずがなかろう」

 雷は落ちなかった。

「ほらな!?」

 すぐさま振り返り、傍聴席に向けてガッツポーズを決める男。

「…あの、もしかして裏で操作とかしていません、か……?」

「んなわけあるまい。単に私が清廉潔白だっただけだよフハハハハ」

 そのとき、傍聴席に座っていたもう一人の女性神官が手を上げる。

「…先輩、下級の女子たちに人気みたいですけど」

「マジで!?」

 雷が落ちた。

「………うむ。どうやら不具合が発生しているようだ」

 衝撃で壇上からもの凄い勢いで転げ落ちた男は、震える脚で元いた位置に何とか戻る。

「―――まあいい、続けよう」

 一転した雰囲気。襟を正し、頬を引き締め、真剣そうな眼をこちらに見据える。

「故障しているのなら仕方あるまい。本来なら、この場で罪の有無をはっきりと宣言してもらうところだが、生憎と証拠不十分だ。とはいえ、白黒つけずに終わらせることもできまい。ゆえに、この問答をもって判決としよう」

 聞く者を緊張させる声。その言葉の一つ一つが、場の空気を引き締めるかのようだった。

「人の正しさを穢すような不義と不道は行っていないと、自分自身に誓えるか?」

 その言葉に、自分はふと違和感を覚えた。

「自分自身……?誓うのは、あなた達の神ではないのですか?」

「お前達は必ずしも我らの主を信じているわけではあるまい。けしからんことだが、主はたいへん慈悲深く、人々に御自身への信心をを強制なさらない。主自ら地上に光臨なさらないのは、もしそうしてしまえば人々は神を信じざるを得なくなり、それは人々から自由を奪うことと同義だからだ」

 だから、と彼は言って、

「自分自身に誓え。それがお前の罪の行方だ」

 そうか。確かに、自分に嘘はつけない。それはもっともな道理だ。けれど、自分にはより相応しいものがある。

「…誓います。ただし、誓うのは自分ではありません」

「ほう?では、いったい何に誓いというのかね」

 何かを見定めるかのような目を、正面から受け止めて、言おうと心に秘めたことを口にする。

「…僕は、愛される自分を好きになるのではなく、本当に誰かを、心から好きになりたいのです」

 それは、今はもう遠い昔のように思えるあの時。必ずいつか、そうしようと決めたこと。それだけが、何もかもの報いになると信じて、それだけを今の人生の理由にしているのだから。

「誰かと気兼ねなく共にあるというのは、それだけで、幸せに感じることだと僕は知りました。僕はそれを失いたくない。惜しい、と思うほどに」

 今までは幾つも浮かんだ言い訳も、彼女相手には、どれも通用しないほどに。

「だから、僕が誓うのはあの人です。誰よりも好きになれるかもしれない、彼女に」

 だから、僕は彼女のために生きると決めた。彼女は、僕の意味になると言ってくれたのだから。

「――――ハ」

 それを聞いた裁判官の男は、ようやく得心がいったように笑う。

「つまり、好きな女の前では恰好良い自分を見せていたい、ということか。…確かにそれは、信じるに値するものだ」

 ぱたり、と手にしている聖書を閉じ、男は静かに瞑目する。

「―――その道を歩む者、正しき心と共にあれ。その限りにおいて、心悪しき者の利己と暴虐に遭おうとも、かの御方は汝を導くだろう。…我らが主はこう言われる。弱き者を毒す者、愛と善意を嘲笑う者は、その身に下される大いなる復讐と、怒りに満ちた懲罰をもって、私が主であることを知るだろう」

 彼が諳んじるのは聖書の一節。人類史の始まりと共に、数千年と続いてきた歴史がその言葉には重くのしかかっているのだろう。

「神の名の下に、罪人に判決を言い渡す。汝、為すべきことを為せ。それが正しきことならば、主は汝を祝福するだろう」

 そう言った瞬間、外への大扉が弾けるように解き放たれた。風が吹き抜け、振り向けば晴天の青が出迎える。じつに舞台劇めいた演出に、若干めまいを覚えなくもないが、この様子だと先ほどの答えはお気に召してくれたらしい。

「ほら、早く行ってしまえ。これ以上誰かの気まぐれに付き合わされるのは御免だ」

 手をひらひらと振り払う彼に礼をして、何やら大きな騒ぎが聞こえてくる外へと歩き出す。立ち去る直前、別の神官から自分宛だという手紙を受け取って、何だろうと見てみると、


 釈放おめでとう!ユーリ!

 今更思い出したのだけど、ゲームをしましょうと言ったのにその内容を説明していなかったわね。

 ルールは簡単よ。私の呪いがどんなものなのか、それを言いに私のところまで来なさい。それができればあなたの勝ち。

 あぁ、あと何となくだけど、私のもとに辿り着くまでの間に、あなたを邪魔する敵を色んなところに配置しておいたわ。ふふ、まるで魔王に攫われたお姫さまと、それを救いに行く勇者みたいね。

 それじゃあ今からスタート。あまり私を待たせないでね、ユーリ。


「……な、な、な」

 最後の行を読み終えて、なんだそれはと叫ぼうとした瞬間。

「そこだぁああ!」

 突然、前から大きな叫び声が聞こえてきたかと思うと、目の前から剣を担いだ男がこちらに向かって突進してきた。自分目掛けて振り下ろされるそれを、転がるように慌てて避ける。

「ちょ、ちょっと待ってください!あなた誰ですか!?どうして僕を狙うのです!?」

「なぜって、お前もあの御方を求める、恋敵のうちの一人だろう!」

「は!?恋敵…って、何のことですか?というか、今この街の騒がしさは一帯……」

 そこかしこから、人々の叫び声だったり怒鳴り声だったりが聞こえてくる様子はまるで、何かの祭りの最中かのようだった。

「貴様…よもやアルネラ様のことを知らないのか!?彼女こそは、世界で最も美しい御方!ゆえに我らは、彼女の心を手に入れるためにこうして相争っているのよ!」

 御託はここまでと言うように、彼はもう一度剣を構える。

「こうして会った以上、貴様も彼女を求める恋のライバルと認めてやる!いざ、覚悟ォ!」

 そう言って突っ込んでくる彼。その手に握られた剣が、こちらに振り下ろされようとする瞬間、横から現れた何者かが、男を勢いよく吹き飛ばした。

「だいじょうぶ、ユーリ!?」

「セラ!」

 華麗な飛び蹴りを放った彼女は、周りにこれ以上の敵がいないことを確認してからこちらに振り向く。

「裁判は無事に終わったみたいね、良かった。……なぜか裁判中の記憶が一部無いけれど、今はそんなことより大変なことがあるの!突然この街にやってきた、アルネラとかいう女、異属が、街中の人間を魅了して争わせているのよ!」

 なんだそれは、とあまりのカオスっぷりに声を上げてしまいそうになるのを寸前で堪える。こんなものがヒントのつもりなのだろうか。

「…というか、セラはだいじょうぶなの?その、魅了とか」

 外で暴れている人たちに女性も混ざっていることから、魅了の効果は男女関係ないようだった。

「私たち神官は、一度見た程度の呪いなら抵抗できるから。……それに」

「それに?」

 じっとこちらを見つめる彼女を不思議がりつつ、言葉の先を疑問した。

「ユーリ。…試しに、私のこと大好きって言ってみて」

 え?と思いつつも、何も考えずに言われた通りにする。

「大好きだよ、セラ」

「うん、私も。この世界の誰よりも、ずっと」

「え?」

 それってどういう…と考えるよりも先に、この状況をどうにかするべきだと心を入れ替える。

「それはまあ、置いておいて。…この騒ぎを解決するためにも、僕は全ての原因になっている彼女のところへ行かなければならないんだ。だから…」

「おーっとぉ!あの御方に会おうったって、そうは問屋が卸さないぜ!」

 声がする方向を振り向くと、そこには剣や棍棒やらで武装した男たちが集合していた。各々が何かを言っているようだが、バラバラすぎて何も分からない。

「どうするの?押し通るにしても、簡単には行かせてもらえなさそうだけど」

 目の前にいる十把一絡げな連中をちらりと覗きながら、セラはこちらを向く。なんというか、非常に頭の痛くなる光景だ。いちいちこんなのを相手にしていられない。

「…いや、無理に戦う必要はないよ。単に彼らは、彼女に魅了されているだけだ。女性はよく分からないけれど、男性への魅了は、その人にある異性への愛欲を利用したものだろう。ならば、」

「ははは!何やら策を考えているようだが、無駄無駄無駄ァ!我らのあの御方への想いが、そんな小細工程度に負けるはずが―――」

 自分は、できる限りの笑顔で、そう言った。

「みんな、男の人を好きになるようにすればいい。ほら、数十年前にも、そんな呪いがあっただろう?」

「……………」

「ユーリ…ってさ。たまに、すごい恐ろしいことを考えるよね……」

 一斉に押し黙ってしまった彼らを横目に、セラは若干引いた顔でそう言った。


 * * *


 そうして、街中の男どもを一通り同性愛者に変えてから、自分は彼女のもとへと向かった。

 彼女が待つ場所としていたのは、この街を象徴とする白亜の大聖堂。大理石の塔が幾つも組み合わさったようなそこは、まるで儀式の最中であるかのように、しんと静まり返っていた。

 段差を昇り、入り口に立つ。見上げるほどの大扉に身体を傾け、力を込めて押し開けた。隷属民であれば、決して立ち入ることを許されない聖域に、自分は足を踏み入れる。

 本来なら、人々の祈りが集う場所。善き営みの糧となるそこは、清廉たる外見と反して、地獄のような光景を内部に秘めていた。

 は、と息をひそめる。聖堂のなかは、床を埋め尽くすほどの死体が転がっていた。きっとこの場で、ひどい殺し合いがあったのだろう。いくつもの凶器が散乱し、内部の空間を華やかに彩るステンドグラスも、今は赤の返り血に染まりきっている。

「――――――」

 凄惨たる光景が広がっているそのなかで、唯一、生きているものがあった。聖堂の一番奥で、眠るように座り込む彼女は、自分の足音に反応して瞼を震わせ、侵入者である自分を待ち侘びた眼で見つめる

「……あら。ようやく来たのね、ユーリ」

 狂気たる空間においてさえ、純粋に微笑む彼女。

 ゆっくりと、なるべく下に眼を向けないようにしながら、教会の奥へと歩み寄っていく。彼女は無言で見つめてきたけれど、その視線を自分は見返さなかった。あまりにも悲しく、痛々しくて、見ていられなかったから。

「それじゃあ、答えはでたかしら」

 彼女の前に立つ。その視線の意味を思う。ならば、これで正しいはずだ。

「――誰からも愛される呪い」

 あぁ、そうだ。だからこそ、

「あなたは、本当の意味で、誰からも愛されることはない」

 一瞬だけ言葉が響いて、あとは静けさがこの場を満たした。

 彼女は眼を瞑っている。両手を組み、割座してすわり込む姿は、まるで祈りを捧げる聖女のようだった。

「――――そうね」

 一筋の陽光が、窓から差し込んできたそのとき、ようやくその眼が開かれた。

「――誰もが私を好きになる。誰もが、私を愛してくれる。私の呪いがそうさせるもの。でも、そのとき皆の目に、私は映っていない。皆が愛するのは、私の呪いだけ。…それでは駄目、駄目なのよ。それは、真の愛じゃないのだもの。本物ではない偽物。だから、いつまでも一緒にいられない」

 最後の言葉が、ずしりと重く響いた。

「…多くの出会いがあったわ。それと同じ数の破滅も。もたされる愛は、人を変えてしまう。愛が誰かを救うように、……私の愛は、人を堕落させてしまうから」

 立ち上がって、彼女は空を仰いだ。瞬間、

「――――」

 強烈な光が周囲を包みこんで、その輝きに目が眩む。閉じる視界、次にその目を開いたとき、彼女は姿を変えていた。

 九つの尾。金の髪。見る者の心を融かしていく、妖艶の瞳。これまでも、これからも、彼女を上回る美しさは存在しないし、生まれ得ないだろう。

「これが、本当の私。滅ぼしてきた国は数知れず。全てを台無しにする終焉の大権化。傾国の大淫婦。愛欲の魔女。千年狐狸精。男を破滅に導くファム・ファタール。……ふふ。名前がたくさんね。まあ、そんなものよ、私は」

 ただそう在るだけで美しいはずの彼女は、優美なるその顔を、しかし物憂げそうに歪めた。

「……誰も、私を見てくれない。誰も、私を愛してくれない。誰もが、私の呪いに狂わされて、結局皆、私を一人きりに置いていく」

 彼女は、ふと窓のほうへ視線を向ける。外からは、今も争いの声が聞こえている。

 そうして、俯く彼女の顔に、暗い影が覆った。ひどく脆く、触れれば、それだけで壊れてしまいそうなほど、その姿は弱々しい。

「だけど、あなたは…違うかもしれない。あなたは、私の呪いに惑わされることはなかった。…今までに、多くの呪いにふれてきたからかしら。いいえ、理由なんてものはどうでもいい。あなたは、他の誰とも違う。私を見てくれる。私だけを、愛してくれる」

 彼女は、おもむろに腕を宙に泳がせて、迷いながら、何かを求めるように差し伸べた。

「だから、お願い。ユーリ」

 懇願する彼女。その瞳には、もはや、自分ひとりしか映っていない。

「私をみて。私と一緒にいて。私を一人にしないで」

 それだけが、彼女が救われる方法。それだけは、諦められない幸福。

「私を、愛して」

 そうして、彼女は願いを口にした。

 たった一息で崩壊する、ガラスでつくられた夢のようなそれは、たった今自分が、少し頷くだけで叶えてやることはできる。

 だけど、それでは意味がない。

「――いや、それはできません。僕では、あなたを愛せない」

 ひどい話だ。彼女を悲しませてまで、自分はそれを口にしなければならない。

「誰もがあなたを愛さずにはいられないように、あなたも、人の愛というものを信用できないのでしょう。だから、これでは意味がない。もしも僕があなたを愛しても、それが呪いによらないものだと証明する方法がない」

 そんなこと、彼女だって分かっているはずだ。理解していながら、それでも彼女は、ガラスの夢を追い続ける。破綻した在り方に目を逸らして、偽りの救済に満足する。

 彼女の求める幸福は、それ以外の全てを諦めた末のものだ。何もかもに裏切られて、最後に行きついた最低限。そんなの、質の悪い悲劇でしかない。

「――あなたの望むように、僕はあなたを愛せない。だけど、」

 今まで、散々苦しんできたのなら、それに見合った最大限の幸福が与えられないと嘘だ。だから、言ってやる。諦める必要など、少しもないのだと。

「あなたの呪いを、解いてあげることはできる」

 それくらいできずして、何が解呪師か。

「………無理よ」

 真っ直ぐ見つめる自分を避けるように、それだけ呟いて彼女は再び俯いた。でも、そんなこと関係ない。

「無理ではありません」

「いいえ、不可能よ。私だって、何度もそうしようとして、全て失敗してきたのだから」

 それが何だというのか。己は、彼女の不安を笑い飛ばすように、頬をほころばせる。

「不可能ではありません。物事を必ず成功させる方法、知っていますか?成功するまで、諦めないことです。挑み続ければ、いつか必ず呪いは解ける」

「その前に、あなたの寿命が尽きてしまうわ。人生全て、そんなことに捧げるつもり?」

 当然、というように頷く。

「えぇ、そうです。なにしろ、アルネラさんが、今の僕の生きる意味なのですから」

 そう言う。一瞬だけ、彼女の視線がぴくりと上がるのを自分は見逃さなかった。本当は、彼女だって諦めていないのだ。そんな事実に、ほっとする気持ちを覚えて、それほどまでに自分はこの人を幸せにしてあげたいのだなと今更ながらに自覚した。

 でも、そんなことになったのも、きっとこの人のおかげだ。

「僕はずっと、自分の人生には意味なんて無いと思っていました。何も成し遂げられず、無意味に死んでいくだけ。何のために生きているのだろうと、疑問に思うこともあった。ただ、そうは思っても、だからといって死ぬ勇気もありませんでしたから。このまま、惰性のような人生を続けていくのだろうと、諦めていたのです」

 それが、いつまでも続いていたある日。僕は、夜空に浮かぶ月のように美しい人に会った。

「でも、今は違います。今は、あなたこそが僕の生きる意味なのです。…こんな気持ちになったのは、初めてだったのですよ。今まで、ずっと生きてきたのに、こんな暖かい感覚があったなんて知らなかった。あなたが、それを教えてくれたのです」

 だから。

「――――――」

 俯く彼女の頬に、そっと手を伸ばす。その眼に浮かんだ輝く雫が、絹のような肌を濡らしてしまう前に。あぁ、きっと。この胸を満たす感覚を、愛おしいと呼ぶのだろう。

「一緒に、呪いを解きましょう。そのために、僕は残りの人生を使いたい」

 そのためなら、何だってできる。不可能なんて、一つもないのだ。

「………もしも。呪いが、解けたなら」

 恐る恐る、彼女は口を開く。伸ばした手に、頬を寄せながら。

「…そのときは、今度こそ本当に、私を愛してくれる?」

 潤んだ瞳に見つめられて、たまらず己は、彼女の身体を引き寄せた。

「えぇ。約束します。そのときは、必ず。それまでずっと、あなたの隣にいますから」

 そっと、抱きしめる。思えば、自分からこうするのは初めてだった。何もかもが強大な彼女だけれど、こうしているときだけは、小さな少女のように思えた。

 眼を瞑り、互いの温かさを共有するように、抱擁する。どれくらいそうしていたのか。ふと気付くと、自分たちは自宅のベッドの上に戻っていた。

 顔を上げて周りを見渡す。仕事で使った道具が部屋の隅に置かれたままだった。どうやら、森から帰ってきた日の夜からずっと、夢を見続けていたらしい。

「…夢、覚めちゃったわね」

 隣で見つめる彼女は、どこか恨めしそうに口をとがらせて言う。しかしすぐに、ふにゃりと頬をほころばせた。

「あんなこと言ったのだから。責任、ちゃんととってくれるわよね?」

「もちろんです。一度した約束は絶対に破りません。それに、僕は少しも不可能だなんて思っていませんから」

 そう言って互いに笑い合う。そういえばと思い出して、自分から彼女を引き寄せた。現実の世界ではこれが一度目だ。なるべく優しく、けれども絶対に離さないように抱きしめる。

 日はまだ昇り始めてすらいない。静かで、街は今も眠り続けている。どうやら夜はもう少し続くようだ。だから自分たちは、抱き合うには少し窮屈なその場所で、額を合わせて見つめ合う。

 しばらくそうしていると再び眠気が襲ってきて、僕たちはまた、微睡みに意識をゆだねていった。

 いつか来る約束の日を、瞼の裏に想いながら。

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