第11話

 何もかも寝静まった真夜中。長い夜を終えて、ようやく帰ってきた彼と私は、つがいの鳥のように寝所に沈み込んでいた。

 隣には、安らかに寝息をたてている彼がいる。その顔が、何かに怯えるように一瞬歪んでから、すぐに手を握って落ち着かせる。…無邪気な寝顔に戻って、少し安心した。

「…ふふ……あは……」

 毒気の抜ける光景に、思わず笑みが漏れた。持て余して、身体を内側から震わせたくなるような幸福。この気分のまま、哄笑を響かせたらどれだけ気持ち良いだろう。でも、それでは彼の寝顔が眺められないから駄目だ。今は、彼をこのままにしておきたい。

 私を見てくれる者。私だけを見つめてくれる存在。私だけを愛してくれる、特別な人間。彼こそは、私が何百年と探し続けた人間なのか。いや、まだ決めつけるのは早い。早計を良しとしない理由は幾らでも思い浮かぶのだし、少しずつ、ゆっくりと確かめていこう。

「……なんて」

 わざとらしく慎重な自分に、おかしくて笑う。本当は確信しているくせに、と自嘲する。

 手の届くところに、とびきりの幸福があって、しかしそれに手を出さずに、ずっと手元に置いておくことは贅沢だろうか。

「………ねぇ、ユーリ?」

 呼びかける相手は、今も眠ったままだ。どんな夢を見ているのだろう?もしかしたら、今この幸福も、眠っている私の夢なのだろうか。

 あぁ。だとすれば、それでもいい。幸福ならば、それがずっと、いつまでも続けばいいのだから。

「―――――」

 だから、そうした。眠る彼に額を合わせて、同じように自分も瞼を下ろす。


 * * *


 森から帰ってきた次の朝。その日は、真っ先に昨日の仕事の完了を市議会に報告しようと考えていたのだが、外は生憎の雨だった。起きてからずっと、ざあ、と打ちつける音が外から聞こえてくる。

 とはいっても雨具はあるし、歩けないほどの強雨というわけでもない。行こうとすれば行けるのだが、無理して急ぐ気にもなれなくて、結局雨が止むまで家のなかで過ごすことにした。

 昨日の疲れもまだ残っている。だからこうして、遅めの朝食を取った後に、何をするでもなくただ窓の外をぼーっと眺め続けるという、実に堕落しきった時間を過ごしているのだった。

「ねぇ、ユーリ。今日もまた、別の仕事の依頼があるのかしら?」

 退屈なのは彼女も同じようだった。ごろりとベッドに寝そべって、暇を持て余した猫のように、転がりながらこちらを向く。いや、まあ、どちらかといえば狐なのだけれども。

「はい。今のところ、依頼されている仕事はありませんから。緊急で入ってくる依頼さえなければ、という限りですが」

「あら、そうなのね。なら、今日は一日中ゆっくりしていられるわね」

「そういうわけにもいきません。本当は、できるだけ早く昨日の依頼の報告をしたいのに、生憎とこんな天気ですから」

 外に視線をやる。それにつられて彼女も外を眺めると、何が面白いのかにやりと笑う。

「でも、いいじゃない。私は好きよ?雨。世界が狭まったようで、寂しい気持ちが紛れるもの。それに、濡れるのも気持ちいいしね」

 少し意外だった。どこまでも気楽な彼女は、広い世界を飛び回るほうを好むものだと思っていたからだ。

「ねえ、暇なら何か話でもしましょうよ」

 藪から棒に、彼女はそんなことを聞いてくる。

「話って、たとえばどんなのです?」

「解呪師でしょう?なら、今までの仕事で何か面白い話でもないの?」

 面白い話、というのはいきなりハードルの高いフリだ。うーむ、と頭を捻って、何かあったかと思案する。しばらく考えて、一つ思いついたものがあった。

「面白い話…かどうかは分かりませんけれど」

 そう前置きをするのだが、それでも彼女から向けられる期待の眼差しがつらい。

「昔、この街に有名な一人の美丈夫がいたのです。彼の美しさたるや、この街全ての女性が惚れてしまったというほどでして。しかしそれゆえに、同じ街に住む男たちから酷く嫌われていました」

 モテる人間が同性から恨まれるのは、どの世界でも同じだ。彼女も、話を聞きながらふんふんと頷いているようだった。

「あるとき、彼を疎ましく思った魔術師の一人が、彼にとある呪いを掛けました。その呪いというのが、掛かった者の性的指向を全くの逆にしてしまうというものでして。まあ要するに、彼は呪いで同性愛者に変えられてしまったのです」

 うわぁ、と若干引いているのが目に見えて分かる。まあ、正直自分も同じ気持ちである。

「…まあ、言い出したのは私だし、いちおう結末は聞いておくけれど。それで、その男はどうなったのよ。呪い、あなたが解いてあげたんでしょう?って……まさか、その呪いも引き受けていないでしょうね⁉」

 慌てる彼女に、ないないと笑って返す。

「いやまあ、解いてはあげたのですけど…元には戻らなかったというか…」

 不明瞭な言葉に、彼女は首を傾げる。

「解呪自体は成功したのです。けれど、彼の性的趣向は変わらなかったというか。…どうやら、男性同士での恋が癖になっちゃったみたいでして。それ以降も、女性よりも男性を好むようになってしまったのです」

 しかし、それはそれで良いと婦女子の間で話題となり、その日から男性同士の愛を描いたロマンス小説が飛ぶように売れたらしい。

「…まあ、少しは面白かったけれど。もっとマシな話は無かったの?」

 などと、半分呆れた顔をされてしまった。ちなみに、同じ話をセラにもしたことがあるのだが、そのときは真顔で“その話はどこが面白いの”と聞かれてしまった。

「…そ、そういうのなら、アルネラさんはもっと面白い話をしてくれるのでしょうね?」

 任せなさい、と彼女は自信ありげに鼻をならす。そうしている間も、外の雨はいっこうに止む気配はなかった。

 そうして、なんでもない会話が続いた。何かをするでもなく、ただ享楽のためだけに消費されていくような時間だったけれど、不思議といやとは思わなかった。まあ、今すぐにやらなければならないような仕事もないのだから、そこまで不思議でもないか。

 結局その日は、雨が止むことはなかった。次の日も、その次の日も。無為に時間が流れる。雨はしとどに降り続ける。自分と彼女、世界を二人だけに閉ざしていくように。

「いいじゃない。やっぱり私、雨は好きだもの」

 彼女はそう言った。雨が降る窓の外ではなく、こちらに視線をずっと向けたまま。そのうち手が伸ばされて、彼女のうちに導かれる。そうして、時間が過ぎていく。

 なにかおかしい気がする。大事なことを、見落としている予感がある。雨は、今も振り続けている。

 彼女はそれが好きだと言った。自分は、どうだろう。

「…僕は、雨が少し怖いです。もしかしたら、もう二度と晴れないんじゃないかと、そう思ってしまうから」

 怯える幼子を慰めるように、彼女は優しく抱きしめる。

「いいじゃない、晴れなくても。雨が降り続ければ、私たちはずっと二人でいられるのだから」

 甘い声色が、耳元で囁かれる。

「言ったでしょう?私はあなたが好き。あなたさえいればいい。それ以外はどうでもいいの。いや、無いのなら、それで良いじゃない」

 “いつまでも、ずっと二人きり”

 ざあ、と雨音が響く。世界が、すぐそこまで収縮する。暖かさが、柔らかく包み込む。たったそれだけで完結する幸福が、どうしようもなく離れがたい。


 だけど、それでは駄目だ。


「………でも、」

 僕は、言った。

「それでは、あなたの呪いを解けませんよ」

 途端、周囲の音が消えて、何もかもが静止してしまったような錯覚に陥る。その先を気軽に続けることを許さないように。でも、これだけは言うべきだ。

「僕は、アルネラさんのことが好きなのです。なら、そんな人が苦しんでいるのを、黙って見過ごすなんてことをしたくない」

 俯き、髪が眼を覆い隠す彼女を見つめる。普段の様子からは想像もできないほど、弱々しい声で、その人はぼそりと呟いた。

「…私は、あなたと一緒にいるだけで、全て救われているの」

「ならもっと幸せになれるはずです。あなたの抱える呪いを解き、全ての苦しみから抜け出せたのなら」

「無理よ」

 食い気味に、そんな自分の言葉を否定した。

「私の呪いが、どんなものかも知らないでしょう。あなたは」

 顔を上げ、悲しいのを嚙み殺すためだけに、貼り付けた笑みを浮かべるのが見えた。痛々しい、自分さえ騙せていないような、そんな嘘。

 だとしても、と言い返そうとした自分の口を、彼女は伸ばした指でそっと閉じる。むぐり、と言葉が押し留められて、悪戯っぽくにやりと頬を歪めた。

「ねぇ、ユーリ。…一つ、私とゲームをしましょう?」

 そう言って、とん、と自分の胸を突いて倒す。ベッドに背中から落ちて、その上を彼女がすかさず覆った。

 吐息が触れ合うような距離。吸い込まれるくらいに綺麗な瞳。目を逸らせない美しさに魅入られる。彼女は、その唇を近づけてきて――

「って、アルネラさん!?へんなトコ触って…なにするんですかちょっと!?」

「なにって…ねぇ?女の子に、そんな恥ずかしいこと言わせるつもり?」

 そう言いながら、彼女は少しも躊躇することなく、もぞもぞと手をあらぬところに伸ばしてくる。

「いやいや!?あの、これは少し、まだ時期が早いというか……!」

「あらあらふふふ。そんなこと言って、身体のほうは反応しているみたいだけど」

「そ、そんなことはありません!というか、こんなことをしていたら……!」

 別の心配もあった。だって、自分はまだ、セラから貰ったあのアミュレットを身に着けていて――!

 次の瞬間、いつか起きたみたいに、けたたましい警報が鳴り響いた。…どういうわけか、数秒後に、外からドタドタと猛烈な足音が近づいてきて、

「だいじょうぶ!?ユーリ!………って」

 バン、と扉を開けて、勢いそのままに部屋へと飛び込んでくるセラ。彼女は、こちらを見て、数秒固まったあと。

「何してんのよユーリ!そんな……お、お昼から、女の人と…だなんて……!最低!」

「はぁ⁉」

 …いや、どう考えても逆でしょうがぁ!

「僕!襲われているの僕のほうなんだけど!」

 そんな必死の弁明も、彼女は聞き入れることをしない。

「どういうことなのユーリ!ていうか誰!その人誰なの!」

 えぇっとそれは……

 どう誤魔化そうか考えたとき、自分よりも先にアルネラさんが口を出した。

「愛人一号よ」

「まるで二号や三号がいるような言い方をしないでください!というかそもそも、愛人じゃないですから!」

「え!?それじゃあ身体だけの関係…ってこと!?」

「違う!違うから落ち着いてセラ!」

 というか、そんな言い方どこで習ってきたの……。

「セラ?あの、落ち着いて話を聞いてね?彼女には、少しだけ仕事を手伝ってもらっているんだよ。本当に、ただそれだけだ。分かったかな?」

 慎重に、言葉を選びながら話す。どんな言葉が地雷になるか分かったものじゃないからだ。幸い、どうにか彼女は気を取り直したようで。

「そんな…言ってくれれば、私が手伝ってあげたのに。……両方とも」

「両方!?両方ってなに!?二つもないんだけど!」

 気付けば、横でアルネラさんが半目を向けていて、

「…ちょっとユーリ。これ、あなたにも責任あるわよ?」

「いや、あの、この状況の原因アルネラさんでは…?僕完全に被害者ですよ?」

 そうじゃなくて、と彼女は言う。

「あなたがあの子と話している様子を何回か見てきたけれど、ぶっちゃけあの子、あなたに惚れているわよ?まさか、気付いていなかったわけではないでしょうね」

「…いやまあ、何となく察していましたけれど。でも僕、こんな見かけでも中身は結構年を重ねているのですよ。前にも話したように、彼女には色々と後ろめたいこともありますし……僕じゃなくて、違う人を好きになったほうが良いというか………」

「そんなのあなたが決めることじゃないでしょう。女の子の気持ちにはちゃんと応えてあげないと駄目よ?」

「でも、他ならぬアルネラさんに、あなただけを好きになるよう言われましたが………」

「それもそうね」

「ちょ、ちょっと!二人だけで何こそこそ話しているの!」

 自分が答えるよりも先に彼女が答えた。

「ユーリの好みは年上の女性ってことよ」

「えぇ!?そんな話でしたか!?」

 というか、さっきから火に油を注ぐような発言ばかりしてくる彼女に、若干イラっとしてきた。それなのに、アルネラさんはまだ何か話したがっているようで。

「何とは言わないけれど、ユーリは大きい女性のほうが好み?それとも小さいほうが良いかしら?」

「それ…言わなくちゃいけませんか…?」

 というか、セラもそんな諦めた顔をしなくても……。

「大丈夫です!」

 だから、勢いよく答えた。

「胸の大きさで、女性の魅力は決まりませんから!セラだってまだ成長の余地はあるよ!」

 そう言うと、アルネラさんはくすりと笑って、

「背丈の話よ?胸じゃなくて」

「で、ですよねー!分かってました!分かっていましたとも!」

「うわぁーん!なんか今日この時間だけで自分の価値が一気に否定された気がするー!」

 とうとう泣きだしたセラは、激情の勢いそのまま、懐から取り出した十字架を手に握りしめる。

「もー!ユーリのバカ!スケベ!大っ嫌い!…ではないけど…とにかく最低!だから…!」

 そう叫び、十字架を握る手に力を込める。

「――我、正しさの契約のもとに、今より天命を成し遂げん!」

 これは、と瞠目する。それはアルネラさんも同じだった。溢れる光、自分でも感じ取れる聖光。これは、セラの聖術――!

「招来するは光の神使!弱き者には救済を、悪しき者には鉄槌を!…軟派な浮気者には、手ひどいお仕置きよ!」

 その瞬間、家の天井が崩れ落ちる。いつの間にか雨は止んでいて、雲間から降り注いだ光から何かがやってくる。

「――――」

 それは人型。全身を銀色の鎧で身に纏い、背にある翼をゆらりとはためかせる主の御使い。彼らは問答無用でこちらまで迫ってきて、自分のか弱い抵抗など歯牙にもかけないように腕をがっちり掴み上げる。

「ちょっと!?アルネラさん、助け――」

 いない。逃げ出したのだろう。隣にいたはずの彼女は影も形もなく、この場には自分一人だけが取り残されていた。

「あ、安心して…!もしもユーリが犯罪者になったとしても、私が一緒に罪を償ってあげるから!」

「いやいやホント誤解だから!話を聞いてくれぇええ‼‼」

 なんていう叫びも虚しく、僕は彼らに連れていかれてしまったのだった。

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