第10話

 空に浮かぶ月は、眼下で繰り広げられる蹂躙を、一人きりで眺めていた。

 蹂躙。そうだ、それはもはや戦いと呼べるものではない。美しい女が腕を振るい、その度に鮮血が舞う。よくできた円舞曲のように、シルクのような女の手が舞踏を誘い、多くの腕がそれに応えた。

 女はそれを愉しんでいた。久しぶりの血の味を堪能するように、頬を諧謔的に歪めている。

 勝てない。敵うわけがない。それを理解していながら、けれど盗賊たちは、誰一人として逃げることをしない。目の前の、ひどく美しいその姿から、たった一秒でさえ目を逸らすなど、あり得ないとするように。

 この場に集った皆、狂喜に憑りつかれていた。心は恐怖を訴えながら、その顔は歓喜に打ち震えていた。全員、自ら望むように命を投げ出していく。

 一人、また一人と彼女に喜び勇んで立ち向かい、色鮮やかな肉片に変えられていく。最後まで残ったのは、彼女の魅了にまだ抗っていた一人だけ。臆病であるがゆえに、その快楽に身をゆだねる危険を、一番理解していた男。

『――あら、あなたが最後のひとり?…あは。今とっても気分がいいから、少しお話でもしましょうか』

 目の前の惨状をつくり出した張本人が、あろうことか友人のように話しかけてきたことに戦慄する。だが、これも都合が良いと考えたのか、男はそれに応えることにした。

「…ハハ。そりゃあ良い。俺としても、お前みたいなバケモノがどうしてあのガキと一緒にいるのか知りたかったところだ」

 震えそうになる声を押し殺して、平気なフリをする。正直、今すぐにでも気が触れそうだが、そんな自分の足掻きを女は気に入ったようだ。

『へぇ。あなた、あの子のことを知っているのね。なら話してくれる?私の知らないあの子のこと。どうしてだか知らないけど、私の呪いが利かないのよね。…まあ、だからこそ、なのだけど』

 意味の分からないことを言う女。でも、その言葉に、ぞくりとますます恐ろしいものを感じて、どうやらアイツもまた厄介な奴に目を付けられたものだと同情する。

「…随分と、あのガキに執心のようだな。だがまあその気持ちも分かる。アイツは特別だ。俺たちの大将は、たとえ俺たち全員が死んでも、アイツを手に入れて来いと仰せだ」

 まったく、と辟易するように吐き捨てる。すると途端に、見るからに気分を悪くしたようだった。

「――どうして。私があの子を求めるのとは、違う理由でしょう?あなた達の親元は、どうしてあの子を欲しがるのよ」

 声に殺意が乗る。勘弁してくれ、と弱音を吐きそうになるのをぐっと堪える。

「そりゃあ、アイツの特殊な体質が有用だっていうのもあるがな。でも、一番の理由は違う。お前も一緒にいれば分かんだろ?」

 女の瞳がぴくりと動き、どこか虚空を見つめた。どうやら、思い当たる節があるようだ。ということは、アイツは今でもアイツのままなのか、とくだらない感情に襲われる。

 なら言ってやろう。吐き捨てるように、侮蔑を込めて言葉を尽くす。

「……アイツはな、人を信じちまうんだよ。どうしようもなくな」

 信じる、それ自体は誰でもあり得ること。だが、あの少年のそれは、どこか致命的にズレている。

「アイツは人を裏切らない。たとえ、人に裏切られてもな。…昔のユーリを知っているか?一人で生きる力を持ちながら、孤独に耐える力を持っていない。だから、人から求められることを奴は欲した。…本当、呪いのような衝動だ。だから俺たちはそれを利用した」

 たとえば、といって話す。

「アイツは他人の呪いを引き受けられるだろう?だから、俺たちはいらないものを全て奴に押しつけたんだよ。傷も、病も、痛みも全て。その上でアイツは笑っていたよ。“皆の役に立っているのなら、僕はここに居てもいいですか”ってな。ハ、笑えるぜ。アイツはなぁ、どれだけ理不尽な仕打ちを受けようとも、少し甘い言葉を掛けてやればまた言うことを聞くんだ。これほど都合の良い道具も無いだろう、なぁ?」

 少しも悪びれることなくそう話す。奴の身を案じている様子のこの女なら、今ので堪え性も消し飛ぶかと思えば、興味深そうに頷くだけだった。

「へぇ…昔のあの子は、随分とかわいらしかったのね。その頃に出会えていればよかったのに。でもまあ、今のあの子はそうじゃないみたい。どうして?」

「そりゃあ、そうならなくちゃいけねぇ出来事があったんだろうさ。昔のアイツの生き方を変えちまう、決定的な何かがよ。次アイツに会ったなら、本人に直接聞いてみればいいだろう。…ま、もし会えれば、だけどよ」

 小さく最後にそう言ったのを、女は聞き逃さなかった。途端に、ぎろりと目つきを変えて、氷のような視線を送ってくる。

「…どういう意味?」

「そのままだよ、バケモノ。ボスが俺たちに命じたのは、あのガキを攫ってくることじゃない。お前が共にいる以上、どう足掻いてもそんなことは不可能だ。なら、残る方法は一つだよなあ?」

 言った途端、ぶわり、と強烈な殺意が溢れ出す。まずい、煽りすぎた。だが、そんな場合じゃないと女も理解しているはずだ。正気を保ちながら、言葉を尽くす。

「…は。そんなことをしている暇があるのか?俺がこう言っている以上、既に大将は仕事を始めているんだぜ?」

 一瞬だけ迷った素振りを見せた女は、しかしすぐさま振り向き、森の中へ駆けていく。男はそれを、奇妙な感慨を覚えながら見送っていた。

「…まったく、少しは自分を顧みるべきだぜ?ユーリ」

 一番の異常者は、己の異常性に気付きもしないのだから。


 * * *


 ざくり、という音と感覚をおぼえて、そこで気付いた。

「………え?」

 どくり、と溢れる。ぬらり、と滴る。理解の追いつかない脳では、生温かいそれが血であると気付くのに時間がかかった。

 己の身体を眺める。胸に突き立つ、一本のナイフが見える。その光景は、この状況においてあまりにも場違いのように思えて、一瞬それが夢なのかと疑った。だが、そんな戯言も、鋭利な苦痛に否定される。

「な、んで……?」

 揺れる脚。定まらない視界。それが何処から飛んできたのかを確かめようと顔を上げた瞬間、突然現れた人影が、無防備な背中を強かに蹴り飛ばした。

「かッ…は…!」

 勢いよく吹き飛ばされ、一番近くの木の幹にぶつかって止まる。ぐらり、と意識が揺らぐ。気を失いそうになるのを必死に堪えて、自分がもといた位置を見る。

 そのとき。あり得ないものを見て、一瞬己の幻覚を疑った。だって、それは。

「どう、して…あな、たが……」

 それは笑っていた。苦痛に喘ぐ自分を見て、堪えきれないように笑っていた。見覚えのある笑い方だ。ついさっきまで、それが目の前にあったのを覚えている。

「ジューダス…さん……?」

 その顔に結びついた名前を呼ぶ。男はそれを聞いて、にたりと頬を吊り上げた。

「どうして?そんなことも分からねえのかよお前は。いいか?お前達隷属民のクズ連中はな、俺たち王国人さまの言うことには絶対遵守なんだよ。当然のことだろ。わざわざ俺たちは、お前みたいなブタを生かしてやっているんだからなあ。……それなのに、俺に口答えしやがって。あまつさえ計画までぶち壊しやがって…!」

 男の右足が、腹部を思い切り打ち抜いた。強烈な衝撃が内蔵を押しつぶして、肺の空気が全て吐きだされる。無様に地面を這いつくばる自分を見て、男は満足そうに笑う。

「ギャハハハ‼おいおい、一人じゃ何もできないのかよ?って、そりゃそうだよなぁ。ただ守られるだけの、無力なガキだもんなぁ⁉」

 耳障りな哄笑が響く。最初に出会った頃の律儀さは面影もない。ひたすら、歓喜に打ち震える獣のようだった。

「…まったく、こんなガキのいったいどこが良いんだ?あの女は。せっかくこの俺が優しくしてやってるのに、少しも靡いてこねえ。これだから女はムカつくんだよ、調子に乗りやがって…!」

 伏せる自分の頭を踏みつけて、何度も、何度も力任せに押しつぶす。地面に押しつけられた頬が泥に塗れて、衝撃を受ける頭蓋がぎりりと軋んだ。

「…こんなことをして、いったい、何の意味があるのですか……」

 口に土を含みながら、何とか顔を動かして、霞む視界で男を見上げる。すると男は無言で足をよけ、髪を掴んで顔を持ち上げてくる。男の眼が、至近距離で見つめてきたあと、

「――――は」

 ざくり、と両目を一気に切り裂かれた。

「あ、ぁ―――!」

 何も、見えなくなった。眼のある位置を、両手で必死におさえる。赤く、ぬるく、しめったものが涙のように溢れてくる。今までのどんな痛みよりも、鋭く、強烈な苦痛が脳を焼いた。

「身の程を弁えろよ?隷属民。この俺が、一度でも口を利いていいと言ったか?次はそのお喋りな舌を抜いてやる」

 手を離され、ぼとりと地面に伏せる。焼けるような痛みはまだ続いていた。叫び疲れた喉は、掠れた声をわずかに響かせるだけ。

「…まあいい。お前には、この事件を引き起こした犯人として、罰を受けてもらわなきゃならねえからな。こんなところで野垂れ死んでくれては困る」

 は?と今聞いたことを疑う。この男は今、何と言ったのか。

「これも全部、お前が悪いんだぜ?あのときお前が、見つけた神官どもを助けるなんて言わなければ、適当に盗賊どもの親玉を犯人にでも仕立て上げていたのになぁ…?」

 妙な、口ぶりだ。だって、それではまるで、本当の犯人なんてどうでもいいような…いや、それどころか、

「あぁ、残った亡霊の後始末は気にしなくていいぜ?なにしろ、奴らを呼び出したのはこの俺なんだから」

 男は言った。平然と、むしろどこか誇るように、そう言った。声しか聞こえないけれど、きっと笑っているだろう。

「はは。こんな事件を解決したとあれば、褒賞も昇進も思うままだ。そのためにも、お前にはこの森で黒魔術を行使し、危険な亡霊を呼び出した邪悪な魔術師として捕まってもらう必要がある。お前みたいなクズでも役に立てるんだ。感謝しろよ?」

 一瞬、今も目を焼く痛みを忘れるほど、驚きと失望で頭が凍り付いた。いったい、どれだけの人を危険にさらした? そんなことをして、どうして笑っていられる?

「お前は教会で神判を受けることになる。そうしたら、神様の前でこう言うんだ。“私が、邪悪な儀式を行い、王国人を殺すために亡霊を呼び出しました”ってな。ほら、ここで一度練習してみろよ」

 ぐらり、と肩を揺らされる。当然、こんな男の言う通りにする筋合いはない。けれど、

「ッかは……‼」

 もう一度、横腹を蹴りつけられ、痛みと衝撃で声が漏れる。

「なんだ、やっぱり喋れるじゃねぇか。ほら、俺が命令しているんだ。言えよ」

 そう言って、何度も、何度も蹴りつけられる。どうやら、自分がそれを言うまで、男は蹴り続けるのを止めないつもりらしい。

 全身を揺るがす衝撃が、幾度も繰り返されているうち、出血と苦痛で、そろそろ意識がどこかに消えていきそうになっていく。

 言えば、やめてくれるのだろうか。それなら、と、自分はようやく、掠れる喉に声を通す。

「…わた…し、が………」

 羽虫のように弱々しい声。今の自分には、それが限界だった。

「じゃあく、な…ぎしき、を…おこな、い……」

 痛くて、辛くて、苦しい。思えば、そんなことばかりだった。昔から、ずっと。まるで、呪いみたいに、離れない。

「おうこく、じんを…ころす、ために………」

 それでも、憎いとは感じなかった。怒りも、恐怖も、悲しみもない。そもそも、それが何なのかすら分かっていないのだ。浮かぶのは、ただ一つ“どうして”という問い。

「ぼうれい、を……」

 どうして、救われないのだろう。どうして、今も苦しいままなのだろう。僕は、意味が欲しいだけなのに。幸せになりたいわけじゃない。せめて、この苦しみが、ゼロになれと、願うだけなのに。

『そりゃあ、お前がどうしようもなく愚かだからだろう。ユーリ』

 別の男の声がした。それは、ひどく聞き覚えのあるもので、だからそういうこともあるだろうと、不思議に思うこともなかった

『他人を救えば、自分もいつか救われる?馬鹿らしい。そんな生き方では、いつまでたっても奪われ続けるだけだ。当然だろう。いつになったら理解するのだ、お前は』

 たし、かに。あなたなら、そう言うでしょうとも。でも僕は、そう生きることしかできなかった。

『いいや?それは違う。奪われず、苦しまない生き方を、お前は選べる。俺はお前を、救ってやれる』

 それは、昔みたいに?

「な、何者だてめぇは…!いつからそこに居た!これ以上近づいてくるなら……‼」

 ざくり、と音がして、ぼとりと何かが落ちた。それきり声が聞こえなくなって――いや、そんなことはどうでもいい。

『あぁ、そうだ。お前が道具にすぎないと言うのなら、道具のように使ってやる。お前のために、お前だけを。だから、もう一度、俺のもとに帰ってこい』

 蠱惑的な声が、耳にささやかれる。ひどく安心する心地だった。遠い、昔の記憶を夢に見るような、得難く離れがたい感覚。だから、それで良いと、手を差し伸べて、

 ……いや。それは、違うはずだ。

 忘れていることがある気がして、伸ばす手を止めた。

 そのとき、

「ユーリ!」

 彼女の声がした。瞬間、全てを取り戻すように、意識が正常にかえった。

「その子から離れろ、下郎ッ!」

 鋭い剣幕が、何かに向かって放たれた。一度、二度と衝突して、向けられたほうが離れていく。

 その間際、もう一度懐かしい声がした。

『もう一度俺に会いに来い、ユーリ。そこで、全てを決めよう』

 そう言って、どこかへ消えていってしまった。

 しん、とする空気。何もかもがひとまずは休止したように、元の静けさが帰ってくる。それから、ゆっくりとした足音が近づいてきて、しなやかな腕が優しく身体を抱き上げる。

「もう大丈夫よ、ユーリ。…ごめんなさい、あなたを守れなくて」

 その声を聞いて、胸のうちが暖かくなる感覚をおぼえた。ひとまずは助かったのだと、全身の力が抜けていく。

「謝る必要は、ないですよ。無理な、お願いをしたのは、僕、ですから」

 途切れ途切れにそう話しながら、未だ開かぬ眼の代わりに、せめて口端だけでも吊り上げようと微笑む。

「ごめんなさい。私、他人の傷の回復はできないの。だから、どうすればいいか教えて」

 そう言ってくれるだけで充分だったけれど、もう一つだけお願いした。

「えっと、それじゃあ………手を、握っていてもらえますか」

 すると、すぐさま手のひらが包み込まれる。それから少し覚悟をして、己の身体に一つの命令を下す。

「あッ…!がッ……‼」

 途端に、今までとは比べ物にならない強烈な苦痛が襲う。耐えようと必死になって、握りしめる手に力が入る。それと同時に、身体の傷がみるみるうちに塞がっていった。

「はぁ……!はぁ………!」

 すぐさま、身体の調子を元に戻す。痛みが引き、いつもと同じ程度に戻った。全身の傷も、もはや痕も残らないほどに完治している。

 そっと目を開く。淡く光る金色に目を眩ませながら、心配そうに見つめる彼女と目が合った。そこで今更気付く。随分と、距離が近いような…。

「ど、どうしましたか、アルネラさん?」

 そう言うと、彼女は我に返ったかのように視線をずらした。今も持ち上げている身体を下ろして、地面に一人で立ち上がる。

「えっと、ありがとうございます。そちらのほうは怪我などありませんか?」

「…ないわよ。あるわけないでしょ。あぁもう、こうなることなら、多少あなたに嫌われてでも、あの陰険男を殺しておくべきだったわ」

 ちらりと、すぐそこで事切れて倒れている男を覗き見て、彼女はそう言った。

「えぇっと、その…ありがとう、ございます?」

「どういたしましてー。って、それよりも、今はさっきの闖入者よ。…あぁもう気に入らない。どうせ、もう一度会いに行くのでしょう?付き合うから、私にも教えなさい。いったいどういう関係なのよ」

 目を細めて言う彼女は、どこか不機嫌そうに見えた。なぜだろうと不思議に思いながら、どう答えたものかと考える。

「彼との関係は…そうですね。一言でいうならば、僕は昔に彼の盗賊一味のもとで仕事をしていたことがあるのです」

 そう言うと、少し驚いたような顔をする。当然だ。それはつまり、少なからず行われた彼らの悪行に、加担していたということなのだから。

「彼の名はヴェイン。僕と同じ隷属民で、昔に孤児だった僕を拾い、傍に置いてくれた人です」

 そして、彼に育てられた自分にとって、父親のような存在でもあった。

 何十年と過ぎた今でも覚えている。一人、また一人と動かなくなっていく仲間を眺めながら、いずれ来る自分の終わりを待ち続けていただけの毎日。そこに彼は現れて、僕に居場所を与えてくれた。

「そこでの毎日も、楽なものではなかったけれど、あの人は僕を必要としてくれた。他でもない、僕じゃないと駄目なんだって。……嬉しかった。それだけで、もう何もかも救われたようになって、だから、僕は他人に望まれるように生きた。嫌なことがあっても、苦しいことがあっても、頑張って耐えれば、あの人たちは、笑顔で僕をほめてくれたから」

 今だから分かる。それは、甘えた生き方だ。他人に依存するしかない、無力な子供に過ぎなかった。

「昔の僕は、誰か他人に必要とされる、愛されるということに貪欲だった。そのためなら、何だってしようとした。でも、そんな僕に、それじゃあ駄目だと言ってくれた人がいました。他人のためではなく、自分のために生きなさい、と。だから、その時から僕は、違う生き方をしようと決めたのです」

 僕だけの人生があるとすれば、始まったのはそのときだろう。それは、最大級の祝福というべき奇跡だった。

「愛されるよりも、誰かをとびきり好きになりたい。誰かに愛されているとき、本当に好きになっているのは、愛される自分自身だと気付いたから。…それが、今の僕の、本当の願いです」

 えへへ、と照れ隠しにそう笑う。つい自分語りに熱が入って、恥ずかしいことまで話してしまった気がする。

「好きになりたい、ね。…あなたの好みの相手を見つけるのは、かなり大変でしょうね」

「そ、そんなことないと思いますけど…」

 そんな、選り好みしているように言われるのは若干心外である気がしないでもない。

「そうよ。だって、目の前にとびっきりのご馳走があるっていうのに、少しも手を出そうとしないんだもの、あなた」

 そう言って、恨めしそうにこちらを睨むアルネラさんに、どうしようもなく苦笑する。

「…それで。もういちどあの男に会いに行くのでしょう?」

 こくり、と無言で頷く。そうする理由は、正直自分でもよく分からないけれど、行かなければ絶対に後悔するという確信があった。

「行ってどうするのよ。…言いたくないけれど、あのヴェインとかいう男、相当手強いわよ。本気で殺そうとした私の攻撃を、何度も防いだのだから」

「それは、驚きですね。彼と打ち合って平然としているのですから、やっぱり頼りになりますよ、アルネラさんは」

 そう言うと、なぜか微妙な表情をする彼女。“それは私を信頼しているのではなく、彼の腕前を信頼しているだけじゃない”とそっぽを向かれてしまう。

「…伝えに行くだけです。僕はもう、一人でも大丈夫だと、心配しなくても良いって、そう伝えに行くのです」

 子はいつか、親から離れるものだ。僕たちは本当の親子ではないけれど、そうするのがせめての義理のように思えた。

「…ま、言っても聞かないでしょうね。良いわ、私も付いていってあげる。正直、さっきの殺し合いで、私も言ってやりたいことができたし」

 そう言ってくれる彼女に感謝して、これから向かうべき場所の方角とルートを確かめる。

「………」

 立ち去る直前、もう一度だけ、もはや動かなくなった彼を見た。許されざる行為をした者であれ、これくらいは認められるだろう。

「――アルネラさん」

 名前を呼び、視線を向ける。それだけで全てを察した彼女は、静かに刃を走らせ、切り落とした枝葉で彼を覆った。

 一瞬だけ瞑目して、それだけで心残しを断ち切る。そうして、自分とアルネラさんは、もう一度森の奥―今度こそは、彼の待つ本拠地へと―向かっていった。

 相変わらず、森のなかは先が見通せないほど暗い。とはいえ、術者がいなくなったせいか、道中亡霊たちに襲われることは無かった。

「……そういえば」

 道の途中、不意にアルネラさんが口を開いた。

「あなた、どんな子が好みなの?」

「…なんのことですか?」

「さっきの話の続きよ。誰かを好きになりたいって言ったでしょう?だから、もしも好きになるとすれば、どんな女の子が良い?見た目でも、性格のことでも」

 ずいぶんと興味深そうに聞いてくる彼女。あまり考えるようなことではないので、こちらも返答に困る。

 素直に、あまり思いつかないと答えれば、恥ずかしがらなくていいからと返され、無難に“優しい子”と言ってみると、普通過ぎると笑われてしまった。

 大事な瞬間の直前だというのに、肩が軽くなるような会話が続いた。場違いな雰囲気だと分かっているけれど、そう悪い気分でもない。

「………でも」

 そんな気分にのせられてだろうか。自分も、思ったことが素直に口に出た。

「…本当は、嬉しかったですよ。アルネラさんに、好きになってもいいって、そう言われたとき。本気で、そうしたいと思っちゃいましたから」

 騒がしかった今朝のことを思い出す。それは、空気を和ませるための冗談だったのかもしれないけれど。でも、今までにないぐらい、心が弾んでしまったのも事実だった。

 ……もしかすれば、これが。

「……あ」

 そう思いかけたそのとき、目の前に、拠点らしい打ち捨てられた古砦が見えた。ようやく、あの人が待つ場所にやってきたらしい。

 入口の前に立つ。湖の底みたいに、暗く沈んだ空気が肌にまとわりついた。気後れする自分の背を、彼女がぽんと叩いてきた。は、と一度深く息を吸い、ようやく一歩を踏み出す。

 あぁ、と気付く。懐かしい匂いがする気がした。ツンと鼻を刺激する酒の匂い。染み付いた煙草の煙。それはどれも、いつかの記憶に合致する感覚。

 かつり、かつりと石畳が音を鳴らす。どうやら、他の盗賊たちはいないようだった。それが自分を気遣ってのことかは分からないけれど、ありがたいと思うことにする。

 とりあえず、砦の奥を目指して進む。すると、ひと際頑丈そうな木製の扉に直面した。隙間からオレンジ色の光が漏れて、ぱちりと炎が爆ぜる音が聞こえる。

 それだけではっきりと分かった。この扉の向こうに、彼がいる。理由はないけれど、不思議とそう確信できた。

 扉に手を触れ、少し考えたあと、力いっぱいに押しのける。ギギ、と耳障りな音がして、二つの空間が繋がる。最初に視界に飛び込んできたのは暖炉の炎。それに照らされ形を為す、一つの人影が床に浮かんでいた。

「…ようやくだ。会いに来てくれたか」

 木製の簡素な椅子に、眠そうに背中をもたれかけていた男は、部屋に入るなりぱちりと目を開け、こちらをじろりと見つめた。…吸い込まれるような黒い瞳だ。何度も、そうして見つめられていたのを思い出した。

「久しいな、ユーリよ。先ほどは落ち着いて話もできなかったが、やはりこうして見ると、今もお前は変わらないな」

 それはあなたも同じだ。髪が真っ白に染まり、肌にも皺が出てなお、その獣じみた眼は昔と変わらない。それに、

「…いいえ。僕は、もう変わりましたよ。他人に縋るしか生きられなかった、あの頃の子供じゃない。そう言いに来たのです。だから、あなたのもとには、帰れない」

 彼の視線に耐えて、そう言い放つ。

「いや、同じだ。お前は何も変わっていない。その姿も、その中身も、昔の愛らしいユーリのままだよ。他人を救っていれば、自分も救われると思っているようではな」

 嘲るように、彼は言った。

「人を救おうが、人を殺そうが、善を為そうが悪を為そうが、人の末路は変わらない。俺たちは隷属民だ。ただそうやって生まれただけで、俺たちは自由に生きられない」

 がばりと立ち上がり、浮き上がる影が姿を伸ばす。一歩、二歩とこちらに近づきながら、彼は話し続けた。

「差別、迫害、暴力、嫌悪、略奪。お前だって、今まで散々苦しんできただろう?善く生きようとすればするほど、それからは逃げられない。俺たちはな、そんな理不尽を与える側に回らないと、まともに生きていられないんだよ」

 彼我の距離が狭まり、声がすぐそばまで迫る。

「ユーリ。お前には、特別な力がある。俺たち隷属民を救えるような、強大な力がある」

 どろり、と甘い蜜が流れ込むような声。手を伸ばせば、すぐそこにある楽園。目を背けることが、難しい。

「ユーリ。お前が必要だ。俺には、俺たちには。お前が、必要なんだ」

 かつり、と靴が鳴る。ぴたり、と目の前で立ち止まった。すらりとした巨躯が立ちはだかり、彼は、伸ばした右手のひらを、自分に見せるようにゆっくりと開いた。

「安心しろ。世界の全てがお前を嫌っても、俺だけはお前を嫌わない。俺だけが、お前を理解する。俺だけが、お前を求める。俺だけが、お前を愛してやる」

 “俺が、お前の、生きる意味に、なってやる”

「だから」

 だから。

「もう一度、俺のもとにこい。ユーリ」

 あぁ、そうか。やっぱり、それは……とても…心地よく―――――

「………ぁ」

 伸ばす右手を、誰かが止めた。

「駄目よ。だって、この子はもう、私のものなのだから」

 それに、と言って、その誰かに引き寄せられる。柔らかい感触が、背後を包んだ。

「ユーリ。あのとき言ったわよね。愛される自分を好きになるのではなく、自分以外の誰かを好きになりたいって」

 その声は、どこまでも沈んでいく暗闇のものではない。綺麗で、清々しい、春の日向のような暖かさだった。

「決めたわ。あなた、私のことを好きになりなさい。私だけを愛しなさい。これからの人生、ずっと。それに私も付き合ってあげるから」

 優しい言葉に、頷いてしまいそうになるのを、必死で耐えた。だって、その言葉を受け取る価値が、本当に自分にあるのか分からないから。あなたの隣にいるのが、こんな自分で、本当に良いのだろうか。

「当たり前じゃない。あなたがいい。いや、あなたじゃないと駄目よ。私が好きになったのは、幾つもの苦しみを抱えたまま、それでも前を向こうとするあなた。だから、あなたは自分の幸福を望んでいい」

 ひと際強く抱きしめられる。互いの熱が融和する。胸が高鳴って、理解不能の感情が胸に灯る。

「私が、あなたの生きる意味になりましょう。…だから、ずっと一緒に居なさい。たとえあなたの人生が、どれだけ苦しみに溢れていても。ただそう在るだけで、私たちは無敵なのよ?」

 だって。

「愛は、全ての呪いを解くのだもの」

 彼女は、そう言った。

 空の虹が、全ての幸福を約束するように。高らかに、どこまでも響いていくように、とくりと己の胸をたたいた。

「………はい!」

 泣いていた。それでも、笑っていた。そうする意味も知らないまま、自分は、その一言を響かせた。

「…不愉快だな。あまり夢を見せるな。望めば望むほど、それが不可能だと知ったとき、お前はまた絶望することになるのだぞ」

 苛立ちをにじませて、まるで自分のことのように本気になってくれる。やっぱり、と思い直して、笑顔になった。だから自分は向き直って、彼の眼を見る。

「…それでも。僕は、この生き方を選びたい。たとえそれが、どれだけ苦しくても」

 彼と向き合う。昔と同じように。子が親にするように。きっと、これが最後だ。

「あなたに救われたことが、僕の人生の、最初の奇跡だった。…でも、僕はもう大丈夫。だから、もう。心配しなくていいよ」

 そう言って、笑った。彼はそれを見て、そうかと呟くだけだった。

「…ならば、今からお前は裏切り者だ」

 がしゃり、と腰に提げた剣の柄に手を掛ける。

「裏切り者は殺さなければならない。ゆえに、ここで死んでいけ」

 ゆるりと鞘を滑っていく刀身が、次の瞬間、刹那というにも長すぎるほどの一瞬で、解き放たれる。

「―――――」

 次に瞼を開けたときには、彼を中心として放たれた大切断が、全てを斬り尽くしていた。

 人も、壁も、周囲の木々も、硬度など関係ないように、みな天と地の二つに切り分けられていた。


 * * *


 そんな光景を、ちょうど真上の部屋から密かに覗いていた二つの人影があった。

 その一人、金の髪と狐耳を特徴とする女は、その耳をぶわりと震わせて囁く。

「う、うわぁ…ただの人間とは思えないわね…。念のため、私たちの分身を代わりに用意しておいて良かったわ」

 そのうちのもう一人、この場に場違いなほど幼く見える少年は、そんな所業よりも気になることがあったようで。

「いや、あの、アルネラさん。…なんか感動シーンみたいになっていますけれど。なに勝手なこと言って、僕の分身に頷かせているんですか」

「なに?不満?」

「ふ、不満というか、その、…どう受け取ればいいのか、困ります……」

「私は本当にそうしたいと思っているわよ。あなたは?」

 素直にそう言われて、顔が熱くなる。どう答えるべきか分からなくなって、

「そ、それも、まあ…悪くない、かな、と………」

「えぇ?そんな返答じゃダメよ。ちゃんとした言葉で教えて?あなたは、どうしたいの?」

 そう言って、悪戯っぽく覗き込んでくる。そんなの、本当は分かりきっているくせに、いつまでも意地悪く聞いてくる彼女を自分はじろりと睨んだ。

「ぼ、僕も、そうしたいです…よ……」

 消え入りそうなほど小さい声で言うのが限界。でも、それを聞いた彼女は、もう辛抱堪らないというように、勢いよくこちらに飛びついてきた。

「あぁ……今のはとってもよかったわ…最高の気分よ……」

 がっちりと抱きしめられて、耳元でしみじみと囁かれる。扱いがもう、ぬいぐるみとかそういうレベル。少し息苦しいけれど、まあ、そう悪い気分でもなかった。

「……ねぇ、ユーリ。ここで、していい…?」

 目の前まで顔を近づけさせて、頬を赤く上気させる彼女。していい、というのはまあ、いつもの栄養補給のことだろう。こんな状況でするのも場違いな気もするが、そんな顔で言われては、断ることもできないのだった。

「………ん」

 眼を閉じ、無言で唇を差し出す。高鳴る鼓動。はぁ、はぁと何度も吐息が掛かって、次の瞬間、かぷり、と頬張るように口づけられた。

「――――」

 今までしたどの時よりも、濃密で、熱情的な接吻。単なる唾液の交換ではなく、魂の共有とさえいえる、融け合うような一体感。くちゅり、と水音が響く度に、陶酔感で脳がくらくらする。

 たっぷりと数十秒間し続けたあと、名残惜しく離れていく。涙に潤んだ瞳で、ぼんやりとうつる彼女は、とろんと蕩けきった眼を、自分だけに向けていた。

「……ふふ。これで、終わりじゃないもの。この先何度でもできるわね。だから、今はこれくらいにしておきましょうか」

 そう言った途端、いきなり彼女は自分を抱き上げ、そのまま窓から外へ飛び出す。その一瞬のあと、元居た位置が下階からの斬撃に襲われた。

 バリン、とガラスを突き破って宙に舞う。その瞬間、無防備に落下する自分たちを狙って、森のなかから無数のナイフが投じられた。

 しかし、それらはすんでのところで当たらない。脇の下、頬の隣。肌の表面を滑るように、どれも奇跡的なタイミングで抜けていく。

 竜神の加護。避来矢の術。たとえ何百本と投げてこようが、それは絶対に当たらない。

 ずさり、と砂埃を立てて着地する。周囲は無数の盗賊たちに包囲されていた。砦の中にいないと思えば、こんなところに潜ませていたのか。

 ざくり、と砦の壁が切り抜かれる。奥から、ヴェインが姿を現した。

 もう一度、盗賊たちが投擲の姿勢に入る。ヴェインが、剣を握る右手に力を込める。その光景に恐れるでもなく、彼女は天を見上げ、口を開く。

『――我が声を聞け、獣たち』

 その声が響いた瞬間、まるで時が止められたかのように、その場にいた全員の動きが止まった。

『我が言葉は呪い。全てを堕落させる快楽の魔薬。お前達の心は我のものだ。命ずるがままに死に絶え、尊厳を捨て去り、地を這いつくばる醜態を許す』

 冷酷、それでいて極上の果実のような甘い響き。誰もが彼女に魅入られていた。弛緩し、脱力し、その手から武器が滑り落ちたことにも気づかず、ただ見つめ果てるだけの機械になり果てる。

『まだ人であるというのなら、二足の証を立てるがよい。――抗うのなら、我が愛をくれてやる』

 今も抱き上げたままの自分を、その唇に寄せながら、彼女もまた陶酔するように言う。

『跪け、下郎。――そうね。今から三時間、死ぬまで腕立て伏せでもしてなさい』


 * * *


 夜空を駆ける。木々の枝葉を次々と乗り継いで、抱きしめる自分など大したことではないように、その背に月光を浴びながら軽々と跳躍していく。

 幻想的なひと時だった。暗い夜では音もなく、世界にまるで二人きりになったかのようだ。夜空に輝く、無数の名も無き星々でさえも、今目の前の金の美しさには霞んでしまう。

「ねぇ、ユーリ」

 不意に、彼女が口を開いた。

「私のこと、愛している?」

 そう答えようとして、ふとやめた。きっと、そんな嘘では、誰のためにもならないと気付いたから。

「…本当は、まだ、分かりません」

 それが素直な思いだった。先ほどの約束を白紙に戻すような言葉だけど、それを聞いた彼女は、どこか嬉しそうな表情をした。

「それじゃあ、これから分かるようになるかしら」

 自分だけを見つめて、微笑む。その言葉には、迷うことなく頷けた。

「はい。そうできるように、もう決めたから。この世界で、とびきり一番に好きになれるよう、生きていこうと思います」

 誓いは密やかに。囁くようなそれを、月が優しく見守っていた。

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