第9話
しばらくの間、自分たちはジューダスの案内で、幽霊を呼び出した犯人の本拠を目指して歩き続けていた。途中にも何度か幽霊と遭遇したけれど、それ以外の危険はまったくと言っていいほどなかった。
「…あれは」
木々が立ち並ぶ薄暗い森から一転して、今度は開けた空き地のような場所に辿り着く。そこには、天井を覆う鬱蒼とした木の葉もなく、ぼうっと空に浮かぶ月も見えた。
とはいえ、そのとき目を引いたのはそんなことではない。空き地の中央、短い草木が生い茂る地面に、人が倒れているのが見えた。ジューダスと同じような修道服を身にまとっているところから、話に聞いていた彼の部下だろうと推測される。
「―――!」
迷うことなく歩み寄ろうとする。そのとき、
「待て。…これほど分かりやすい場所に放置されている意味を少しは考えろ。こんなあからさまな罠にかかる阿呆がどこにいる…?」
そう言って、ジューダスは制止してくる。ならばどうするのか、と聞けば、
「心苦しいことこの上ないが、今は後回しだ。大本を制圧するのが優先だろう」
迷うこともなく、ただ冷静にそう言い放った。
彼がそう言うのは、非情であるからではなく、ただ正しい選択をするためだろうということは理解できる。けれど、
「…意見を申し上げさせてください」
「駄目だ、却下する」
無視して続けた。
「この森にこれ以上放置し続けることは危険です。どこか負傷をしているのだとすれば、直ちに治療をしなければ…!」
「だから、それが罠だと言っているのだ。他人の心配をしている暇があるのなら、まず自分のことを気にしろ」
「だけど……!」
そうか、と返される。
「ならば、お前ひとりで行ってくるがいい」
突き放すように、そう言われる。眼には無感情があるけれど、その口は愉快そうに歪んでいた。やれるものならやってみろと、そう挑発するかのように。
「………」
ジューダスから目を離し、空き地のほうへと目を向ける。気後れすることはない。彼がそう言わずとも、はじめからそのつもりだったのだから。何が起きるか分からない未知の状況ならば、自分が行くのが最も適している。
一歩、二歩と進んでいく。恐怖はなく、躊躇いもない。だって、その必要がない。
これが罠であろうが何だろうが関係ない。今目の前で助けられる人を助けることが、今の己がすべきことだ。
そう、意気込んでいた。だが予想に反して―いや、そうであることに越したことはないのだが―罠は存在しなかった。何も起こることがないまま、倒れる彼らに跪き、外傷の有無を精査する。穏やかに胸が上下しているところから見て、ただ気を失っているだけみたいだ。
一人だけ、修道服が血でにじんでいる男性がいた。肩と腕のあいだ、破れた服の隙間から、痛々しい裂傷がみえる。血が固まって傷は塞がっているようだったが、せめて表面だけでも元通りにしておこうと、治癒の術を唱える。
「…おい。お前は、分かっていたのか?ここには罠なんて仕掛けられていないと。それとも、彼女がお前に教えたのか。…そうじゃなければ、こんな命知らずなこと、できるわけがない」
ジューダスの声が背後から聞こえてくる。その言葉は、不満そうに震えていた。納得いかないというふうに。それに自分は答えなかった。
「い、言っておくぞ、隷属民。私は、お前がどうなろうが知ったことではない。お前が私と行動できるのは、アルネラ殿の存在があるからだ。お前自身には何の期待もしていない。だが、今回のように、我々の足を引っ張るのなら――」
延々と、彼の言葉が続く。倒れた人たちの治療をしながら、何となくそれに耳を傾けていた。
矛盾しているような人だ。大本を叩くのが優先と言っておきながら、今はそんなことを話すのに時間を費やしている。それに、少し様子も変わったように思える。先ほどまでは絶対的に揺るがないような威圧があったのに、今ではそれが強がりであるかのようだ。
「おい、聞いているのか…!お前は今、私の命令を無視したのだぞ!これ以上足を引っ張るようならば、お前が同行することは許可しない!」
それを聞いて、そうか、と理解する。ならば都合が良いな、とも思った。治療の手を止め、立ち上がり彼のほうを向く。
「では、僕は治療のためにここに残ります。僕では戦闘の役には立てないでしょうから、そちらはお任せしますね」
そう言うと、彼は一瞬だけ呆気に取られたような表情を見せるが、すぐに嘲笑するような顔に戻る。勝手にしろと言うかのように、こちらに背を向けようとして、
「なら、私もここに残りましょうか」
すると、今まで一言も話さず見守るだけだったアルネラさんが、そんなことを言い出した。
「あ、アルネラさん?それじゃあ意味がないですよ…!ここは僕一人で充分ですから、アルネラさんは彼に…」
「じゃあ、もしも幽霊が近づいてきたとき、あなた一人で守り切れるの?それに、この人間たちを助けたいと思うのなら、こんな所で籠城するのではなく、一刻も早く安全な場所に移動させてあげるべきじゃないかしら?」
あと、と彼女は付け加えて、
「あんな人間と、二人きりになんてさせないで」
そう呟くように言って、彼女は鋭い眼差しを向けた。
「そ、それは、どういう意味だ⁉」
慌てたように彼は振り返ると、自分とアルネラさんを交互に見比べる。じっと、必死そうに見つめたあと、我慢ならないように口を開いて、
「よもや、アルネラ殿までそんなことを言い出すなんて…!どうしてそのような隷属民に従う?そんな奴よりも、私のもとに来るべきだと普通に考えれば分かるだろう⁉俺ならば、貴女をもっとよく扱ってやれるのだぞ⁉」
そう叫ぶのを、彼女は少しも相手にしていないようだった。それどころか、見向きもしない。そんな様子が益々癇に障ったのか、ジューダスはさらに怒気を強める。
「事の重大さに気付いていないのか、貴様らは…!幽霊の出現を止めなければ、増え続けた奴らはやがてこの森には収まらず、街のほうまで人間を襲いに行く!そうならないためにも、全ての元凶を潰す必要があるのだ!俺の言っていることは、間違っているか…?おい!」
彼は、その言葉の端々から凶暴性さえも滲ませて、必死に訴えかけてくる。
別に、彼の言うことは間違っているわけではない。その正しさは、己も理解できるものだ。ただ、自分が求める最善とは、少し違ってしまっただけで。
「…ごめんなさい。でも僕は、今目の前にいる助けられる人を見捨てることはしたくないのです。だから、どうか」
協力してほしい。そう、言おうとした瞬間、
「……ない」
え?と思った。見れば、ジューダスは俯き、ぎりぎりと歯を食いしばりながら、何事かをぶつぶつと呟いている。
「……ゆるされ、ない…!そんなこと、許されるはずがないだろうが!俺は王国人だぞ⁉他の有象無象どもとは違う、選ばれし神官だ!……最初に言ったよなぁ…俺の言うことは、絶対服従だって……!」
彼の顔が上がる。その眼は、ぎらりと血走っていた。誰がどう見ても、凶行一歩手前の人間にしか見えないような、そんな怒りに満ちた形相が、自分に向けられる。
まずい、と直感した。これは、やる気だ。だって、いま彼は、その腰にある直剣に手を掛けて――。
『おい、人間』
音が響く。たったそれだけで、この場の空気がビリビリと震えた。
『――貴様。今、なにをしようとした?』
その声が、アルネラさんのものだと理解するのに数秒かかった。だってそれは、最初に出会った頃のような、恐ろしい怪物としてあったときのものだったからだ。
『―――――』
月光が模った彼女の影が、うねりをあげて膨れ上がる。金色の毛並み、ゆらりと空に突き立った幾つもの尾、鋭い鉤爪、血に濡れたように赤く染まった眼。その姿は、人型でありながら、とても人とは呼べない、全く違う“ナニカ”と化していた。
『もしや、と思うが。今その子に、剣を振り上げようとしたのか?貴様は』
その一言ずつが、周囲一帯を敵意の重圧で押しつぶす。幸いにも向けられているのは自分ではないが、ならば標的となっている彼は、いったいどうなるのか。
『言葉による侮辱は、まだ見過ごそう。その子はもう、そんなものを傷とすら思えなくなってしまったのだから。――だがな。その子に、それ以上苦痛を与えることは許さん』
彼の顔はもはや怒りではなく、全く違うもので塗り替えられていた。眼を見開き、全身は硬直し、ただ彼女のみを見つめる彫像となって、恐怖をその身に受け止めている。
「お、おまえは…異…属……⁉」
呼吸すらままならないのだろう。その声は、ところどころ途切れ、上ずってしまう。彼女はそれを、無慈悲に眺めていた。真っ赤な目で、冷酷に。
『立ち去れ、下郎。羽虫のように踏み潰してもよい命だが、見逃してやる。今でさえ、その子は貴様に敵意すら抱いていないのだから』
そう言い放つ。ずん、と激震が走った気がした。それに圧されるように、ジューダスは転がり落ちるようにその場を離れていった。
「………!」
立ち去る直前、彼は一瞬だけ振り向いて、自分のほうを向いた。何やら意味ありげにこちらを睨みつけたあと、すぐさま暗い森の奥に進んで見えなくなった。
* * *
結局、互いに衝突するような最後となってしまったことに、後味の悪さを感じてしまう。もっとうまい方法はなかったのかと、後悔せずにはいられない気持ちを飲み込んで、それでも今は為すべきことをしようと行動する。
とりあえず、一通りの応急処置は済ませた。それからしばらくして、彼らのうちの一人が目を覚ましたので、自分たちのことや、今までの状況についてのことを話し、できれば一緒に森の外まで避難したい旨を伝える。
「構わない。それよりも、我らを助けてくれたことを感謝させてくれ。…本来ならば、我らが君たちを守る力にならなければいけないというのに、本当に不甲斐ない」
ジューダスの部下だという彼は、非常に礼儀正しく親切な人物だった。隷属民の、それも外見上は子供にしか見えない人間の話を真剣に聞いてくれるのだから、こちらとしてはありがたいことこの上ない。
「…そういえば、私たち以外にもう一人、ジューダスという男の神官に出会わなかったかな?」
不意にそう聞かれて、どう答えるか一瞬迷った。考えた末、ひとまず何も知らないふうに返答する。
「…そうか。なら、念のため君にも伝えておこう。もしも彼に会うことがあれば、十分気を付けてくれ」
彼を心配するものかと思えば、予想に反した緊張感で返される。これはいったいどういうことかと思えば、
「…私たちは、あの男に騙されたのだ。この森に巣食う盗賊たちに襲撃された際、奴は逃げ切れないと見るやいなや、私たちを囮にして一人だけで逃げていった。だから、もしその男に会ったとしても、気軽に信頼しないほうがいい」
そこまで話したとき、他の二人が目を覚ました。彼らにも同じ話を伝えてから、ある程度まで体力が回復したところで、出発する。
自分とアルネラさん、そして救出した神官の三人。合計五人の大所帯となって、森のなかを突き進む。向かう場所は森の入口、街へと続く道だ。そこまで行けば、幽霊たちもあまり近寄れない。
一列になって進む。先頭は先ほど話していた彼で、自分とアルネラさんは最後尾から全体を見渡しながら歩いている。負傷しているとはいえ、流石は戦闘職の神官だ。歩きながらでも回復はできるとのことで、躊躇なく進んでいく。
「………」
ふと、隣に目を向ける。そこにはアルネラさんがいる。ジューダスと別れてからずっと、彼女は一言も話さないままだった。なんだか無言のままなのが息苦しく、何か言おうとして口を開く。
「…そういえば。きちんとお礼を言うのはまだでした。あのときは、彼を止めてくれてありがとうございます」
あのときとは、ジューダスと一触即発となった状況のことだ。もしも彼女が僕を守ってくれなかったら、本当に斬りつけられていたことだろう。
「いいわよ。守ってあげることがあなたとの約束なのだから、わざわざ感謝する必要はないわ。当然のことなのだし」
彼女は、ぴくりと眉を動かしたあと、前を向いたまま興味なさげにそう呟いた。
「そうですか?…でも、僕はとっても嬉しかったですよ」
素直にそう言うと、驚いたように目を丸くする彼女。こほん、と咳を入れて、再び無表情へと戻っていく。
それだけで、会話がなくなってしまった。気まずいと思いつつ、他に何か話せることはないだろうかと思案していると、
「――どうして、この人間たちを助けようとしたの?あんな男に、反抗してまで」
するとアルネラさんが出し抜けにそんなことを聞いてきた。それは、普段の余裕ある態度からではない。何か大事なものを少しずつ確認していくように、ゆっくりと、慎重に問いてくる。
「理由は、セラのときと同じですよ。自分も救われたいから、まずは他人を救う。そんな人が自分以外にももう一人いれば、僕だって救われるかもしれない」
「…でも、あなたの求める“救い”は、自分の命を永らえさせることではないのでしょう?多くの人間にとって、生きていることが当然の前提条件だけど、あなたはそうじゃない。あなたは、どんな救いを求めて、そんなことをしているの?」
そう問われた。どう答えたものか、と考える。
何気なく視線を逸らしてみるけれど、見えるのは光の無い森の暗さだけだ。街の明るさに慣れた自分からすれば、目の前のそれはどうにも非現実的に見えて、自分はどうしてこんな場所に来てしまったのだろうかと、一瞬考えてしまって分からなくなる。
とりあえず、口を開いた。そうすると自然に言葉が浮かんできて、
「…意味が、欲しいのです。この長い人生の、全ての報いとなるような。…僕は、きっと数え切れないくらいの人々を、今まで不幸にさせてきたから。そうしてきたことに意味があったような生き方をしなければならないのです」
意味が欲しいから、誰かを救う。こうしてみると、何も関係のないような二つの行為に思えた。これならば、ただ救いを待ちわびているのと何ら変わらないのかもしれない。
「…でも、結局そんなものは、どこにも無いのかもしれません。あの日の夜にアルネラさんが言ったように、意味なんてものは、終わる間際にしか分からないのでしょう」
自嘲気味にそう呟く。諦めたように言う自分に、彼女は何かを言おうとして、その寸前で言葉を吞み込んだ。それが何を言おうとしてのものなのかは分からないけれど、己を気遣ってのものだということは察せられる。
それからしばらくして、森の出口に辿り着くまであと少しとなった頃。不意に、アルネラさんが、何かに気付いたかのように顔を上げた。
「ユーリ」
呼ばれる一声で、それが穏やかじゃない状況だと気付いた。
「…どうしましたか」
歩みは崩さない。前を歩く彼らの足取りは、まだ軽いままなのを確認する。
「…後方、かろうじて目で視える距離に、複数の人間の気配がする」
前を向いたまま、彼女は平静を保ってそう言う。振り向かないのは、その人間たちに気付かれないためだろう。それに自分も倣うことにして、何気なく呟くように話す。
「…敵ですか?」
その言葉に、彼女は小さく頷いた。それだけの確認で、己は気分を入れ替える。
「…具体的な数は?それと、彼らが何かをしてくる様子はありますか」
「少なくとも十人以上はいる。でも今は、ただこちらの様子を窺っているようね。ぴったりと一定の距離を保ったまま、私たちのあとを着けているだけみたい」
「…ただ観察しているだけ、ですか?敵意があるのならば、どうして今は何もしてこないのでしょう?」
考え込むように彼女は言う。
「おそらく、襲撃の開始となるような特定の地点まで、私たちが辿りつくのを待っているのでしょうね。…たとえば、逃げづらく、人数有利が活かせるような開けた場所かしら」
周辺の地形の記憶を思い浮かべた。たしか、この先には森を縦断する小川があって、その近くは草木も生えない河原となっていたはずだ。敵が仕掛けてくるとすれば、その場所か。
「念のために聞きますが、アルネラさん一人でも、奴らと戦って勝てますか?」
「当然よ。でもまあ、あなたたち全員を守りながら、というのは難しそうね。もしも包囲でもされたら、私一人では守り切れないかも」
そうだろうとは思った。もし彼女が戦ってそれで済むのなら、彼女自身が最初からそう言っていただろう。
だから、何も悲観する必要はない。他に策があるはずだ。なにも、正面から迎え撃つことだけが方法じゃない。
「アルネラさんの変化というのは、どれまでのことが可能なのですか?」
その問いに、彼女は首を傾げた。次に伝えた内容を聞いて、アルネラさんは理解したように笑う。
「あぁ、なるほど。それなら可能よ」
その笑みは、何かを愉しむかのようで、緊迫したこの状況においてむしろありがたかった。
* * *
ユーリ達を追っていた盗賊部隊を指揮していたのは、ひどく臆病な男だった。彼は、無理難題を命じてきた上司への悪態を思い浮かべながら、視線の先で標的を捉え続ける。
逃げ切るだけで精一杯だった恐るべき相手に、今度は自分のほうから襲いに行けと命じるものだから、今度こそは見限るタイミングかと真剣に考えたものだった。
彼ら盗賊たちの棟梁が、部下の死を悲しむような人間ではないことは男も理解している。たとえ作戦が成功しても、ここにいる殆どの者たちが殺されるだろう。しかし、それを理解してなお、彼らの特効を命じた者は、あのユーリという名の少年を優先した。
それだけの価値があるのか?男は考えた。いや、考えるまでもなく答えを出せる。あぁ、間違いなくあるだろう。こんな、いつ裏切るかも分からない傭兵崩れの盗賊が何十人いるよりも、あの子一人のほうがよっぽど価値がある。
男は、長い間この盗賊団で働いてきた。臆病だからこそ、今まで生き延びてきた。このような死地に赴こうとするのも、それがこの先の生存に繋がると確信しているからだ。
は、と息を吐く。ぐにゃりと歪みそうになった表情を矯正する。獲物を前にして舌なめずりなど、油断大敵にもほどがある。
腰を下げ、木の陰を次から次へと移動していく。その際、少しの音も立ててはならない。最大限夜目を効かせた状態で、ぎりぎり見える範囲から、標的に目を向けた。
少年と女を最後尾とした五人組は、ゆっくりと襲撃地点に近づいている。あの女ならば、こちらの存在に気付いていないわけがないというのに、その動きに変化はない。余裕で迎え撃てる算段なのか。たしかに、人数有利であるとはいえ、それでもあの女にとっては相手になどならないだろう。腹立たしく、末恐ろしいが、そのつもりならそれでいい。せいぜい、こちらに意識を向けていればいいのだから。
あと少し。たった今、奴らの先頭が、木々の密集を抜けて河原に到達した。そこに、姿を隠せるような障害物は何もない。岩肌の露出した平面と、入り口への行く手を遮る長い川。予定している襲撃地点はそこだ。
ついに、最後尾の少年が河原に現れた。彼らが、目の前の川をどう越えるかで難儀しているとき、最初の行動が起こされる。
まず初めに、標的を奇襲するのは我々ではない。そもそも、どれだけ優れた不意打ちであろうとあの女は――いや、あの異属は、敵意を感知してしまう。異属だけが持ちうる、第六感ともいうべき能力だ。
ゆえに、最初の一撃は人であってはならない。敵意があってはならない。ひたすらに目的を遂行するだけの機械でなくてはならない。
「―――――!?」
遠くから、悲鳴が上がった。河原に仕掛けていた煙幕の罠が起動したのだ。ただでさえ光の貴重な闇夜を、黒煙が塗りつぶしていく。
「―行くぞ」
声をその場に置いていくように、我らは疾走を開始した。複雑に木の根が張り、ぬるりと滑る苔が覆う森のなかを、平地と変わらない速度で駆けていく。当然のことだ。それすらできない者など、我らのなかでは生きてゆけない。
「放て」
河原に出る瞬間、懐からナイフを抜き出し投擲する。狙いは標的のいた周囲一帯を覆うように。片手四本、両手で八本。この場にいる総勢十八名が一斉に、刃の壁を打ち出す。
キン、と高い金属音がそれぞれ違う場所で響いた。武器持ちは少年以外の四人。異属だけじゃない。相手は神官もいる。咄嗟のこととはいえ、防ぐ程度はするだろう。でも、今ので位置は把握した。
黒い煙のなかに突入する。我らの目的は、あの少年の奪取のみ。それ以外はどうでもいいし、それを邪魔する障害は全て排除する。
少年はあの女のすぐ傍にいるだろう。だから、一時的でも彼らを引き離す必要がある。
まず、二人が挟み込むようにしかける。二人の背後から死角を突くように、また二人が潜んでいる。それら全てを囮として、彼らの装備に仕込まれた爆砕術式が全てを吹き飛ばすのが、第一の作戦行動だった。
男は、少年のことを知っていた。この程度では死なないことも承知している。だからこそ、多少強引にでも引き離すことこそが、あの異属相手にも通じる数少ない方法だと考えた。
しかし。
「……いない?」
突入した煙幕のなか。その場所には、誰もいなかった。目的の少年も、あの異属も、神官さえも、誰一人として見つからない。どこかに動いた音はしなかったはずだ。ついさっきまで確かに存在していた彼らは、一切の痕跡すら残さず、忽然と消失していた。
「……くそ!いねぇ、いねえぞ!奴ら、どこに行きやがったんだ!」
吶喊した四人が、たまらないように声をあげる。馬鹿やろう、と内心で毒づく頃には、もう遅い。
『――そこね』
どこからか、声が響いた。ひゅん、と飛翔していく音は、声を上げた一人の脳天に突き刺さって止まった。
瞬間、周囲に爆発が巻き起こる。彼らに無断で仕掛けた爆砕術式の起動条件を、本人の死亡時としていたのが仇となった。それは他の三人にも連鎖して、連続する爆破の衝撃が周囲の煙幕を吹き飛ばした。
爆風で晴れる煙。やはりと言うべきか、そこに標的の少年の姿はない。他の神官たちも同じだ。そこには誰もいない。……前方、川を挟んだ向こう側にいる、美しくも恐ろしい異属の他には。
そこでようやく、男は己の失策を理解した。もはや、取り返しのつかないところまで来ていることも。
――だけど、そんなことがどうでもよくなるほどに、男は、目の前の光景に目を奪われていた。
「ぁ………」
空から降り注ぐ月光を、ドレスのように身に纏う柔らかな肢体。ゆるやかに伸びる金の御髪は、あふれる光輝を形にしたようで、こちらを残酷に睥睨するその瞳は、空に浮かぶどの星々よりも煌めいていた。
彼女を前にしてしまえば、ありとあらゆる芸術品が価値を失うだろう。その瞳が自分を見つめるのなら、その唇が自分の名を呼ぶのなら、人は何もかもを投げ出せる。
でも、彼女が口にしたのは、無慈悲な現実だった。
『――私からユーリを奪おうとするのは、あなた達?』
死が歌う。何もかもを台無しにして。
『駄目よ。お前達に、あの子は渡さない。だって…あは。――もうあの子は、私のものなのだから』
* * *
一方その頃。ユーリたちは、ある方向に向かってひたすらに森の中を突き進んでいた。
後方を見渡し、追ってくるものが誰もいないことを確認してから、作戦がうまくいったことを確信する。
これも全て、アルネラさんのおかげだ。数分前、自分が彼女に話したことを思い出す。
「アルネラさん一人ならば、奴らに勝てるのですね」
その問いに、彼女は当然というふうに頷く。
「そもそも、彼らの装備では私の肌に傷一つ付けることすらできないもの」
「なら、アルネラさんの変化で、僕たち四人に分身することは可能ですか?」
「できるけど…それでどうするのよ」
疑問する彼女に、自分は一つの作戦を伝えた。
「これから僕たち四人は、隠形の術を使用して別方向に離脱します。その際、アルネラさんには奴らを引きつけてほしいのです」
言うまでもなく、それは彼女を囮にするということだ。彼女一人に危険を押しつけてしまうことに後ろめたさを感じるけれど、そんなものは自分の勝手な正義感にすぎない。
「ユーリ」
名前を呼ばれる。彼女は、こちらを見て笑っていた。
「任せなさい。あなたの敵は、私が倒すから」
かくして、作戦は予定通りに進んだ。本来、己が使用する隠形の術は、自分一人を透明にするだけで精一杯なのだが、そこは神官たちにも協力してもらった。
己の術式を補助してくれた神官の一人―シエルというらしい―柔和そうな垂れ目をした彼女は、祈りに集中する自分の手を包むように握り、優しく声をかけてくれる。
「大丈夫。あなたは、術式の維持に集中して」
その優しさが、少しだけ心に痛かった。それが向けられている自分というのが、あまりにもおかしな存在のように思えたからだ。
「…ごめんなさい。教会の神官さまに、こんな異教の術式を手伝わせてしまって」
そんな難しさからか、そのような言葉が口に出た。余計なことを考えたせいで、ざくりと脳内に痛みが走る。
「気にしないで。主も、この程度のことで罰を与えることはないでしょう」
はらり、と笑う。その声も、今の自分には毒となって痛みを引き起こした。
「――相応しくないと思う?自分が、優しくされるのが」
そう言われて、びくりとした。何もかも見通された気分になって、はっと顔を上げる。
「そう驚かないで。迷える若者を導くことも、私たちの責務ですから」
これまでに何度もそうしてきたように、彼女は優しく微笑む。
「きっとあなたは、今までずっと一人で頑張ってきて、だから他人に優しくされることに慣れていない。でも、あなたはそれを、悲しいことだなんて少しも思っていないのでしょう?」
それは、そうだ。他人の存在を前提とした生き方なんて、完結していない。不完全だ。何もかもが一人で済むのなら、それが最良だと感じる。
「いいえ。それは違うわ。一人きりでいることは、強さの証明じゃない。ただ寂しいだけよ。だから、あなたはもっと他人を求めなさい。与えられる優しさを、救いを。あなたは、それだけの価値があるのだから」
その言葉の一つ一つが、丁寧に選ばれたものだということは分かる。でも、自分にはよく理解できないようだった。そんな自分を見て、その人はやれやれと肩をすくめる。
それからしばらく、僕たちは別ルートから出口を目指して走り続けた。囮となってくれているアルネラさんは無事だろうかと、意味もなく何度も振り返る。
そうして、そろそろ息も切れ切れになってくる頃、ようやく森の出口近くまで辿りつく。周囲、誰もいないことを注意深く確認しながら、自分は隠形の術を解いた。
か、は、と喉を鳴らして、貪るように空気を取り込む。これまでずっと、術式の維持に集中力を割いていたせいか、まともに息をしていなかった。必死そうに胸を上下させる自分に、シエルは背中をさすって落ち着かせてくれる。
「ありがとう、ユーリ。よく頑張ったな。全ては君のおかげだ」
頭上から声が降り響く。顔は見えないが、その表情が満足げに緩んでいることが想像できて、自分もあたたかい感覚を内心に得る。
「怪我をしているもう一人の治療のため、我々はすぐ教会のほうへ向かうが、君はどうする?私たちと一緒に行くか」
「い、いえ。ここで待機して、敵を倒したアルネラさんと合流します。ですので、僕のことは気にせずに、早くその方を安全な場所まで連れて行ってあげてください」
少しだけ我慢をして、無理に笑ってみせる。男は、そんな自分の強がりを見抜いていた。その上で、何かを考えたあと、そうかとだけ呟いて頷いた。
「私がどれだけ言ったところで、彼女を置いて自分一人逃げるなんてことを君はしないだろう。…だけど、くれぐれも気を付けてくれ。君は無茶をし過ぎるきらいがある。君が傷つくと、悲しむ人がいるということを忘れないでくれ」
それだけ言って、彼はもう一人の神官を気にしながら街の方向へと走っていった。一人取り残された彼女も、こちらを心配そうに覗いてから、同じように立ち去っていった。
とはいえ、もう危険なんてない。盗賊たちはアルネラさんが全て相手してくれているし、幽霊たちも森の外には近づかない。己を害する存在は、この森には存在しない。
「………」
しない、はずだ。だけど、正体不明の不安が、背筋をすらりと抜けていった。
…何か、忘れているような。
そのとき、自分は、己の背後で揺れる草の音に気付いていなかった。
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