第6話
「ふーん…そんなことがあったんだ、ユーリ」
翌日。帰ってきたセラと朝食を取っているときに、昨夜のことを話題として出す。とはいっても、アルネラさんについてのことだけは意図的に伏せていた。話している今この場にも、彼女の姿はない。
というのも、人間至上主義の教会にとって、異属は敵になるからだ。基本的に、異属は人間に仇為す存在として知られているのもその要因の一つ。とはいってもアルネラさんはそうではないし、セラも話せば分かってもらえる気がするが、念のためということで話さないようにしていた。
「また、危ない目に遭ったりしなかった?」
「そ、そんなことは無かった、よ?……それよりも、教会のお仕事のほうは、どう?」
じとりと見つめてくる彼女から目を逸らすように、自分はそんなことを口にした。
「……そのことだけど。今日から忙しくなりそう。だから、こうやって帰れる日も少なくなっちゃうかも」
元気なさげに、肩を落として言うセラ。心配されているのだろう。
「大丈夫だよ。それだけ君は必要とされているんだ。僕のことは気にしないで、頑張っておいで」
そう笑って言うけれど、彼女は元気のない返事をするだけだった。
「…でも、そうなると、少し寂しくなるね」
何気なくそう言うと、妙な反応をされる。
「そ、そう?…私と一緒に居られなくて、悲しい?」
「うん。とても残念だよ」
素直に頷く。すると彼女は、なぜだか頬を緩ませて、だらけるように微笑んだ。
「そ、そっかぁ…えへへ…寂しい、ね……じゃなくて!あーもう仕方ないなぁユーリは、もう!…えへへ」
などと、喜んでいるのか呆れているのか良く分からない様子を見せるセラ。ごほん、と切り替えるようにして咳を入れる。
「そ、そんなユーリに。心配だからこれ、あげる」
ぽんと手のひらの上に乗せられたそれは、なにかの聖人を象ったアミュレットだった。王国人がよく身に着けている御守りに似ているが、それには軽い呪力が込められているようで。
「共鳴のアミュレット。私が持っているもう一つと連動していて、ユーリの身に何かあったら伝わるようになっているから」
次の瞬間。流れるように、彼女に手を取られる。アミュレットをのせていたほうの手だ。それを、彼女の両手が柔らかく包み込んだ。ぐいと引き寄せられて、互いの距離が一気に近づく。
「大丈夫だよ、ユーリ」
真っ直ぐな瞳に捕まえられる。今の彼女と視線を合わせるには、どうやら自分は少し見上げなければならないようだった。…少し前はそうでもなかったのに、いつの間にかセラも随分と背が伸びたらしい。
「…あなただけは、私が絶対に守る。あなたを苦しめる全てから、私があなたを救う」
それはまるで、物語に出てくる騎士が、その王に忠誠を捧げるかのように。静謐に、絶対に、何より揺らがない覚悟の如く、誓われた。
「安心して。どんなことになろうとも、私だけは絶対に、ユーリの味方だから」
* * *
夕方になって、名残惜しくも彼女は教会へと戻っていった。そうして一人きりになった瞬間を見計らって、一匹の狐がぴょんと目の前に躍り出る。
『…おそろしい子ね、彼女』
女性の姿に戻るアルネラさん。おそらくは隠れて観察していたのだろう彼女は、開口一番にそんなことを言い出した。
「恐ろしい、ですか?確かにセラは、あの若さとは思えないほどの聖術の技量を有していますから…」
普通、見習いの神官を悪魔祓いに行かせたりなんてしない。何年も訓練を受けた大人が、それでも命を死と隣り合わせにして、危険な悪魔憑きと戦う。それをまるで何でもないことかのようにこなすのは、彼女が特別だからだろう。
教会創設以来の神才。それがセラという人間だ。
「それもあるけど、もっと違う意味でもよ」
「どういう意味ですか?」
曖昧な彼女の言葉に首を傾げると、ならばと彼女は言って、
「あなたはあの子のこと、どう思っているの?」
「とても立派な子だと思いますよ。真面目で、優秀で、なにより正しい心を持っている」
「いや、そうじゃなくて…あぁもう」
焦れるように、目を細める彼女。まあ、彼女の言いたいことは分かる。今の自分も、敢えてずれた返答をした。
「もう率直に聞くわね。あなた、あの子のこと好き?もし彼女が好意を告げてくるとしたら、それにあなたは応えるのかしら」
それは、と少し考え込むけれど、それほど悩む質問ではなかったと思い出す。少し前にも考えることがあって、そのとき既に答えは出ているのだから。
「セラのことは、もちろん好きですよ。あの子のためなら、僕は何だってできる。でも、その想いに応えることだけは、決してできないと思う」
「それはどうして?」
「僕は隷属民で、彼女は王国人だから、ですよ」
言った。そうして、少しだけ静かな時間が生まれた。どうやら彼女は、僕たちの関係を勘違いしているようで、訂正するためにも少し昔の話をしようと思った。
「…今から十年ほど前のことです。死の呪いに侵され、ぼろぼろの身体で路地裏に捨てられていた彼女を、僕は助けました。でもそれは決して、彼女の為ではありません。ある日突然、彼女が救われるとするならば、自分にもそんなことがあっていいだろうと思った。だから、僕は彼女を助けたのですよ」
あまり、面白い話でもない。行き止まりで、どうしようもないような、情けない話だ。
「セラは善良な子です。助けられたことを、忘れることができないでしょう。その行為に、いつまでも報いようとするはずです。彼女が僕に向ける感情というのは、つまりはそういうことでしょう」
助けたこと自体には、何の後悔もない。ただ一つ、致命的な間違いがあったとすれば、それをしたのが自分だということ。…本当に、残酷なことだ。こんな僕に、助けられてしまったあの瞬間、彼女はそうなるしかなくなってしまったのだから。
「…だから僕は、こう思ってしまうのですよ。“助けたのが僕ではなければ、君はもっと良い人を好きになれたはずなのに”と」
そう言う自分を、アルネラさんは実につまらなさそうにして聞いていた。
「そう。なるほどね」
はぁ、と溜息が聞こえた。そのあとに、彼女は無機質に言い放つ。
「あなた、誰かを好きになったことがないのね」
彼女はそう言った。言葉は、僕と彼女の間にある静寂を伝わって、意味が脳裏に響き渡る。
「―――」
それは、と言い返そうとして、やめた。その代わりに、今は“なぜ”と問うことにする。
「どうして、そう思うのですか」
問いかける自分に、何でもないように彼女は応える。
「もしあなたが本当に誰かを好きになったことがあるのなら、さっきのようなことを言うはずがないもの」
そうか、と理解した。彼女の答えを聞いて、それだけで納得する。どうやら自分は、また間違えてしまったらしい。
声には想いが宿る。言葉の意味だけでなく、それ以上に、感じる者の心を直接揺さぶるようなものが。今の彼女の声には、憐みがあった。あのときの、あの人のような。分からないことを嘆くような、理解不能の感情。
「――ならば、どうすれば分かるようになれるのでしょう」
だから、自分は聞くことにした。
僕はどうすればよいのか。どうすれば、あの子の心が分かるのだろう。
「そんなの、実際に誰かを好きになってみるしかないわよ。そうね。例えば私のことを大好きになってみるとか――って、何よその反応は。傷つくわね……」
予想外の言葉に、返答に窮して沈黙する。受けが悪いと感じたのか、よよ、と泣くフリをする彼女。ついさっきまであった緊迫した空気が、一気に消え去ってしまったみたいだ。
…いや、まあ。何も言えなかったのは、彼女の言葉に、自分がどきりとしてしまったからなのだけれど。
「…ユーリ?」
「い、いいえ!なんでもありません。…というかそもそも、いきなり誰かを好きになるなんて、やっぱりおかしいですよ」
「難しく考えすぎよ。生物である以上、子孫繁栄の本能は誰もが持ちうるもの。誰かを好きになるというのは、本能に基づく自然の摂理なのよ。分かる?子孫繁栄。エロいことをしたくなるって意味よ」
「それは性欲というのでは…」
「どっちも似たようなものよ。あなただって、今までに何度か私に口付けされて、疚しい気持ちになったことがあるでしょう?」
なんてことを言うんだ、この人は。
そう思わずにはいられないが、ここで恥ずかしがっても負けな気がするので、素直に頷いておく。
「…ま、まあ。あくまでもアルネラさんの名誉のために、そういう疚しい気持ちになったこともあると言っておきましょう」
「あらあら。誤魔化さなくたっていいのよ?何ならここで、もう一度確かめてみましょうか?」
「え」
そう言って、彼女は口ずさむように笑う。妖しく、獲物を追い詰めるように、ニヤリとこちらを視線で捕らえた。
「…あの、アルネラさん」
「なにかしら?」
「どうして、ゆっくりと僕のほうに近づいてくるのですか」
そう言う。目の前から、じりじりとにじり寄ってきている彼女が見える。そういえば、今日はまだ呪力を彼女に渡していないことを不意に思い出した。…なんというか、この後の展開が読めてきた気がする。
「食事タイムよ」
「ほ、本当にこの方法でする必要があるのですか…?」
「だって約束したじゃない。ちゃんと守らないとダメよ?」
そう言われると反論できない。先日の依頼でも、彼女に力を貸してもらったのだから、相応の礼はすべきだと思う。
というか、もはや何度も繰り返してきて、少しずつ慣れてきてしまっている自分がいた。恥ずかしいのは変わらないが、別に嫌というわけでもない。だからまあ、為されるがままに、目を閉じて身体を預ける。
真っ暗の視界。聞こえる足音。期待するような自分も、少しだけいる。何はともあれ、少しの間我慢していれば良い話なのだった。
そのとき。
「………?」
さらり、と奇妙な音がした。軽い何かが、擦れて音を立てるような。たしかに聞き覚えのある音の気がする。なんというか、衣擦れに似たような……
不思議に思って目を開く。今は朧げな視界。だけど次第に明確になってきて、目の前にあるそれに視界が合っていく。
「………え」
肌色が見えた。
「は⁉」
衣服を足元に放り出し、惜しげもなく肌を晒す彼女が、そこにいた。
「は、はぁ⁉ちょ、ちょ、ちょっと何してんですかアルネラさん!」
咄嗟に目を逸らす。しかし、慌ててそうしたのも手遅れで、既に色んなものが見えてしまっていた。シミ一つない純白の肌に、豊かな曲線を描く肉体。それらを考えないようにしても、否応なく脳裏によぎってしまう。
ぺたり、ぺたりと湿った足音がする。彼女が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。何をする気か?思わず後退ろうとして、焦るあまりに勢いよく背後の壁にぶつかる。そのままバランスを崩して、壁に背中を預けるように座り込んだ。
「……な、な、な…!」
足音がさらに近づく。これ以上、後ろに下がることはできない。逸らした視界からでも、近づく彼女の身体がちらりと見えてしまって、今度はぎゅっと目を閉じた。
な、何が起きているんだ?いったいどういう状況だこれは?どうしてこんなことになっている!?
分かるのは、異様な雰囲気にあてられて、心臓の鼓動が際限なく上昇していくということだけ。
「………ぅぁ!」
何かが触れて、咄嗟に声が出た。熱のある柔らかさが、座り込む自分に覆い被さるように密着する。
頬に手が添えられて、前を向くように動かされる。恐る恐る目を開くと、愉快そうに笑みを浮かべるアルネラさんが見えた。
「…ふふ。どうして、そんなに恥ずかしがっているのかしら?」
「あ、当たり前じゃないですか…!アルネラさんが急に、服を脱ぎ始めたから…!」
「あら。この程度で恥ずかしがっているの?今からすることは、このくらいでは済まないのに?」
「え、えぇ⁉ほ本当に何をするんですか⁉ちょ、ちょっと待って、まだ心の準備が、準備がぁああ!」
そのとき。
「ねぇ。隠すのをやめて」
彼女は言った。
「あなた、心臓の鼓動を思うままに制御できるのね。こんなにドクドクと鳴り響いているのに、あなたの魂は、少しも揺れていない」
それだけ言って、彼女は沈黙した。言葉は消え、音も消え、吐息すらも聞こえてきそうなほどの静寂で、二つの視線だけがお互いの間を交差する。
もう、彼女の顔に、先ほどの笑みはない。ひたすらに、こちらを暴いてやろうと見据える意志が、彼女の瞳に宿っている。
「………」
緊張と緊迫。凝固した空気のざらつき。瞬きさえも許されない時間に思えるのは、それをした瞬間、彼女の眼には、別の意志が現れるだろうと思えたから。
既に心臓は正常な鼓動に戻っていた。触れる肌、絡みつく手足。文字通り、逃がさないということだろう。向けられる瞳は、恐ろしいほどに魅力的で、じわりじわりと自分の中を侵していく。大事な何かまでも、見られてしまいそうになって、
「――――‼」
突然、警笛のようにけたたましい音がなった。音の源は、自分が腕に巻いていた一つの装飾品。
神々しい光とともに存在感を放つそれは、先ほどセラからもらったばかりのアミュレットだった。それから数秒して、
「だいじょうぶユーリ!?アミュレットから危険信号が出ていたんだけど、もう何か起きたの!?」
必死そうな叫び声。視線を向けるとそこには、出ていったばかりのセラが、部屋の扉の奥に立っていた。
「……何しているの?ユーリ」
床に座り込む自分に、不審そうな視線が浴びせられる。右に左にと見渡しても、自分以外の人影は見当たらない。
その代わりに。
『――――』
足のあいだから、一匹の子狐がぴょこんと飛び出てきた。その子は軽い足取りで扉に走り、そそくさと玄関をくぐって何処かに逃げてしまう。
「…あれは…狐…?こんなところに珍しい…」
そんな姿を見て不思議そうにするセラだったけれども、それ以上気にすることはなかった。走り去る子狐を見送ったあと、いつまでも座り込んでいる自分に近づいてくる。
「…大丈夫?何があったか、教えて」
いつもの冷静さを取り戻すセラ。深刻そうに心配する彼女に、それほどのことはないと言い聞かせる。
「大した事はないよ、セラ。道具の準備をしていたら、さっきの子狐がいきなり家のなかに入ってきて、少し驚いてしまっただけだから」
そう言う。すると彼女は、無表情にじっとこちらを見つめてきて、
「……本当?」
「ほ、本当だよ。嘘をつく意味もないだろう?」
恐ろしいほどに察しの良い彼女なのだった。こちらも、必死に平静を保とうとして冷や汗が出てくる。
「…さっきのアミュレットの反応、少し変だった」
「き、気のせいじゃないかな。この通り、僕には何ともないんだからさ」
すると、彼女は暗く恐ろしい表情を浮かべて、
「気のせいなんかじゃない。…この反応、ユーリの貞操が危ないときの反応…」
「なにそれ!?他にもあるの!?」
「他には、ユーリが悪い女に引っかかったときに危険信号を発したり、邪な視線を向けるものに強烈な光を照射したり…」
「な、なんか想定している危険に偏りがないかな…?」
「でも、上手く作動していないのかも。…やっぱり、私が傍に居たほうが……」
「い、いや!大丈夫だよ!セラが心配するようなことは起きてないし、これからも絶対に起きないから、ね!?」
それから、今日の仕事は休むと言い出してやめない彼女をどうにか説得して、次の仕事に取り掛かる準備を始めたのだった。
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