第5話

 日が落ち、すっかりと夜の姿へと変わった街のなかを静かに進む。今日も今日とて解呪師の仕事だ。昨日と違うことがあるとすれば、やはり。

「ねぇ、あっちのほうには行かないの?なんだかとても賑やかね」

 大通りのほうから届いてくる喧騒に耳を向けながら、隣を歩くアルネラさん。興味深そうに周りを見回している様子から、あまりこの街には慣れていないように見える。

「アルネラさんがこの街にいらしたのは最近なのですか?」

「えぇ、そうよ。少し前は、別の国にいたわ。あなたはずっとこの街で暮らしているの?」

「はい。かれこれ二十年以上になるでしょうか」

 何の気もなしにそう言うと、驚いたような顔をする彼女。

「二十年って……あなた、どう見てもまだ子供じゃない。どういうこと?」

 怪訝そうに言われて思い出す。彼女にはまだ、このことを伝えていなかった。

「掛けられている呪いの影響で、成長しない身体になってしまったのです。だからこう見えても、今年で三十八歳なんですよ、僕」

 成長できないのは困るけれど、悪いことばかりでもない。なにしろ、

「便利な呪いですよね。だって、成長しない分老化もしませんから」

 そう付け加えると、彼女はどこか悲しいような顔をしてこちらを見つめる。

「卑下しないでいいわ。他人に羨まれるような呪いだとしても、あなたにしか分からない苦しみだってあったはずでしょう。だというのに、そうやって平気そうに笑い続けているというのは、とても立派なことよ」

 そう言って、微笑みながらくしゃりと頭を撫でてくるアルネラさん。

 そうして歩き続けるうちに、僕たちは目的の場所に辿り着いた。

 目の前に、なんとも立派な大豪邸が見える。この屋敷の主人が今回の依頼人らしい。相当な金持ちであるのは間違いないはずなのに、教会の神官ではなく市井の解呪師に依頼するということはつまり、あまり教会に関わりたくない職業なのだろう。

「えっと、アルネラさんも付いてくるのですよね?」

 念のためそう聞くと、当然というように彼女は頷く。

「でも、僕のような隷属民が、あなたみたいな人を連れていたら、怪しまれると思うのですけど……」

 そう指摘しながら、改めて彼女の姿を眺める。

 金色の髪。白い肌。すらりと伸びた手足。狐の耳と尾さえ除けば、その容姿は王国人のものにそっくりだ。そんな人が、隷属民である自分に付きしたがっていれば、間違いなく不審に思われるだろう。

「まあ、あなたの心配ももっともだろうし、そこは私がなんとかしましょうか」

 そういった瞬間、ぼふんと煙が上がって彼女の姿が消える。

 どこに行ったのかと、慌てて周囲を見回したそのとき、煙の中から突如現れてきた小さい狐が、ぴょんと自分の肩に飛び乗った。

『どう?これなら、あなたの服のなかにでも入りこんでおけると思うけれど』

 ふさふさとしてなんとも愛らしい子狐から、彼女の声が聞こえてきて少し驚いた。

「それ、どうやって喋っているのですか?」

『喋っているのではなく、思念であなたに直接伝えているのよ。だから、周りに誰かがいたとしても聞かれることはないわ』

 そう言って、腕を伝って外套の懐にぴったりと入り込む彼女。たしかにこれならば、不審に思われることもないだろう。

 最後の懸念も晴れて、ようやく自分は屋敷の戸を叩く。扉に取り付けられた金属の輪を持ち上げ、響かせるようにして叩きつけた。しばらくして、使用人らしき女性が迎え、依頼人のもとまで案内してくれた。

「お前が依頼した解呪師か?腕の良い者と聞いていたというのに、ただの子供ではないか」

 部屋に入って早々、依頼人である中年の男は、こちらの姿を見るや否や不満そうに溢す。とはいえ、自分の姿のことで驚かれるのは慣れているので、いつものように受け答える。

「僭越ながら、過去に受けた呪いの影響にございます。とはいえ、ご依頼の完了には何の支障もございませんので、どうかご安心ください」

 そう言うと、何とか納得してくれたようで、男は、ふんと鼻を鳴らす。

「まあ、いいだろう。それよりも、ほら。早く私の呪いを解け。そのためにいるのだろう」

「……いえ、そのためにもまず、どのような呪いなのか、少しお話を聞いてもよろしいでしょうか?」

 すると、途端に嘲笑うように声を上げ、得意げに話し出す。

「私は知っているのだぞ?お前ら解呪師は、自分に呪いを移して掛けられた呪いを解くのだろう。ならば早くそうするがいい。話などする必要もない」

「いえ、ですが………」

 ぎろり、といきなり強く睨みつけて、

「金は私が払ってやるのだから、お前は私の言う通りにしろ!隷属民如きが、私に口答えするんじゃない!」

 怒鳴り声が部屋中に響き渡る。またか、と自分は思った。王国人を相手にする以上、こういう状況は今までにも多くあった。何を言っても無駄だということも分かりきっている。

 とはいえ、呪いを肩代わりするだけなら、解呪とは違って特別な儀式も必要ない。この男とこれ以上揉める必要がないのだとすれば、そうするのも悪くないだろう。そうやって自分に言い聞かせ、自分は依頼人の言う通りにすることに決めた。


 * * *


 そうして、呪いの移し替え自体は何の問題もなく完了した。依頼人の男も、呪いがなくなって気分を良くしたようで、滞りなく依頼金を渡してくれた。それだけで今回の依頼も終わり、自分たちは屋敷を後にした。

『…まったく、呆れるわ』

 夜道を歩いていると、そんな声が聞こえてきた。今も懐に入ったままのアルネラさんのものだ。彼女は、言葉通りの雰囲気で溜息を一つ入れる。

『どうやって解呪するのかと思えば、ただ呪いを自分に移しただけ。…ただでさえ短い人の命を、さらに縮めるような生き方ね』

「えっと、もしかして心配してくれているのでしょうか?」

 なんて、茶化すように言ったりする。しかし、

『えぇ、そうよ』

 否定されるかと思いきや、意外にも即答で肯定されてしまった。

『何で心配しているか、分かる?』

 さらにはその意図を問われる。一瞬、甘いことを考えそうになったが、

「…僕が死んでしまうと、アルネラさんに生命力を渡せなくなるから、ですよね」

『はい、正解』

 あっさりと返される。勘違いすべきではないのは、僕と彼女は利害の一致で共同しているだけ、ということだ。

『もしあなたが死んだならば、足りない生命力を補うために、また別の人間を喰い殺すから。そうされたくなければ、あまり無茶はしないようにしなさい?』

「…別に、無関係な人間が殺されるのを気にするほど、善人でいるつもりはありませんよ」

『あらあら。その言葉、後で覚えておきなさいよね?』

 くすくすとからかうようにして、彼女の声が楽しげに響いた。

『それで?どうして依頼人の言う通りにしたの?あなたの性格的に逆らえないっていうのはありそうだけど、もっと別の理由もあるのでしょう?』

 何かを見通すような、確信の声。言い当てられて、少しだけどきりとした。

「まあ、大した理由では、ないのですけれど。…呪いといっても、何の理由もなく掛けられるものではありませんから。ただ解呪するだけでは、何も救われないような気がしたのです」

『つまり、どういうこと?』 

 懐から、ぴょこりと顔を出したアルネラさんに、自分は答える。

「この呪いを掛けた術者のもとへ向かいます。これ以上、呪いで苦しむ人がいないように」

 そう言うと、彼女はおかしいように笑いだす。

『やっぱり。とびっきりの善人よ、あなた』

 いいわ、と彼女は呟く。

『それじゃあ行きましょうか。呪いの元凶を倒せばいいのよね?』

「え?まあ、はい。そうですけど、」

 少しだけ、呆気に取られて反射的に頷いた。というか、その言い方だと、まるで、

「て、手伝っていただけるのですか?」

『なに驚いているのよ。あなたに死なれると困るって、今朝言ったばかりじゃない』

 それはまあ、と納得する。けれど、

「意外です。僕とアルネラさんの契約は、必要以上の介入をしないものと理解していたので」

 アルネラさんは失った力の回復。そして自分は、彼女が傍にいるあいだ限定の安全の確保。それがお互いの約束であり、最初から終わりが決まっている関係だ。

 だから自分は、あまり彼女の力を必要以上に求めないようにしていた。何もかもが圧倒的な彼女は、その力も絶大だ。望めば望むほど、離れがたくなってしまうような気がして。

『あらあら。私としては、あなたとの関係は結構気に入っているのだけれど』

「昨日の夜に、僕たちは出会ったばかりなのに?」

 僕たちはまだ、お互いのことを何も知らない。自分たちの関係は、未だ時の洗礼をうけていない。ふとしたきっかけで、何もかもが嫌になってしまうかもしれないのに。

『時間なんて、関係あるかしら』

 さらり、と彼女は言ってのける。

『一目惚れ、なんて言葉があるでしょう?時間も理由も分からないけれど、その人に惹かれてしかたない、みたいな。少なくとも、あなたのポケットの中の居心地は、それほど悪くないと感じているけれど?』

 咄嗟の返事を忘れて、今も懐からこちらを覗く子狐を見つめた。さっきの言葉は、つまりどういう意味なのだろうと、頭のなかで思い浮かべる。

「……アルネラさんは、良い人なのですね」

「人じゃないわよ。それに、この程度契約の誤差範囲だわ」

「でも、僕なんかに、こうして手を貸してくれますし。…僕には、そういう人が少ないから、なおさら嬉しく思うのです」

 にこり、と微笑みながらそう言う。すると、一瞬固まった彼女は、すぐさま奥に潜んでしまった。

 それから自分たちは、肩代わりした呪いを頼りに、術者の居場所を探った。歩き続けてからしばらくして、それらしい反応を感じた付近に近づいていく。しかし、

「ここが、術者のいる場所、なのか…?」

 思わず、あやふやな声が口から漏れた。だって、この場所は。

「――――――」

 荒れ果てた大地。月明りが不気味に照らすそこに、風を遮る樹木はなく、地面を覆う微かな草花さえ存在しない。あるのは、やせ細った枯れ木と枯れ草だけ。

 記憶が正しければ、この場所には収容所の共用墓地があるはずだった。しかし、実際に来てみれば、そこは墓地と呼ぶにはあまりにも―――

 まず、墓がない。石碑も、十字も、目印となるようなものは何も見えなかった。さらに、極めつけは、今も嗅覚を刺激する匂いの原因。

 カラスの鳴き声が響く。枯れた木の枝に、何匹かがとまっていた。彼らの視線の先にあったのは、粗雑に打ち捨てられた人間の死体。腐敗の進んでいるものから、完全に白骨化したものまで、幾つもの亡骸が、埋葬すらされずに放置されていた。

「…まったく、酷い有様ね。死の匂いが、辺り一帯に充満しているわ」

 恐らく、自分よりも敏感に感じ取っているのだろう。人の姿に戻っていたアルネラさんは、匂いに表情を歪めて、上着の裾で鼻を覆うような素振りをみせる。

「術者の反応は、今もこの場所にあります。つまり――」

 そう言おうとした瞬間、

「―――――!」

 突然、周囲に高く響き渡る音がした。叫びと嘆き、負の感情を内包した悲劇の声が。

 風が巻き上がる。みるみる下がる外気温は、瞬くうちに氷雪の如き冷気を放ち、露出した肌を突き刺すように浸食する。

 生を拒絶するかのような極寒は、この地に眠る死者たちのものだろう。今も横たわる彼らには、もはや温かな肉など存在しないのだから。

「ッ……!」

 寒さに震えたそのとき、からり、と木製打楽器のような音がした。何かと視界を振れば、連想していたものほど気楽なものではないと気付く。

 骨。骸。肉が削げ落ち、所々欠けたようになったそれらが集まり、一つの形をつくっていた。

 一つ一つは、余りにも小さい欠片。しかし、それらは夥しいほど大量に存在した。それほどの人が、この場所に打ち捨てられているのだろう。頭蓋、肋骨、頸椎。どれもがバラバラで不揃いなそれらは、腐肉で繋がれ、歪で異様なヒト型となる。

 出来上がったのは、亡骸づくりの骨人形。眼の在る位置は、伽藍のように空洞で、代わりに青き炎を欄として灯す。

『ァアアア―――‼』

 その眼がこちらを向いた瞬間、人ならざる叫び声が上がった。復讐の行き先を、ようやく見つけたのだ。なにしろ今の自分は、あの男の呪いを肩代わりしているのだから。

「ユーリ!」

 瞬間、彼女に引っ張られて、大きく後ろに飛びのく。その一瞬のあと、元いた地面に巨大な骨の腕が叩きつけられた。

 亡霊の動きは止まらない。何度も振り下ろしてくる巨大な腕を、彼女は身軽に躱していく。その様は、一見すると亡霊を圧倒しているようにも見えたが、しかし。

「ごめんなさい!手伝うとか言ったけれど、あれやっぱり撤回!今の私の力では、亡霊の身体に攻撃が通らないみたい!」

 そう叫ぶ彼女に、ならばと自分も応える。実のところ、必要になるかと思って念のため家から持ってきていた装備があった。

「アルネラさん!これを!」

 そう言って、細長い布包みを彼女に向かって放り投げる。勢いよく回り続け、空中で解けていった包みから覗いたのは、一振りの太刀。

「対霊用の儀式剣です!それなら、霊的存在にも干渉できるかと!」

 飛んでくるそれを、彼女は回避の途中でがしりと掴んだ。

「―――これは」

 瞠目する彼女は、受け取った太刀に目を向ける。

 飾り気のない白鞘。その柄に手を掛け、彼女はゆっくりと刀身を引き抜く。鏡のような刃が、月明りを浴びてきらりと輝いた。

「良い刀ね。これなら、いけるわ」

 にやりと、彼女は不敵に笑った。

『ガァアアアッ!!!』

 叫びを上げる亡霊。振り下ろされる巨大な腕。対する彼女は、無防備としか思えないように、だらりと右手に太刀をいつまでも提げたままで。

 刹那。

「―――――」

 キン、と澄み渡るような音が響く。

 既に、彼女は亡霊の背後にいる。時間は、いまさらのように、起こった結果を世界に反映させていった。

『ギシャァアアアア……!?』

 亡霊の身体に刻まれた、一本の線。それが瞬時に広がり、亡霊の身体を一瞬で両断する。そうして、断末魔のような叫びとともに、亡霊は霧散して消えていった。

 たった、それだけだ。勝負は一瞬で終わった。相手は、間違いなく強力な亡霊だったはずなのに。それを彼女は、たった一撃で倒してしまったのだ。

 あの太刀に、何か特別な力があったわけではない。ただ、霊体に干渉できるというだけ。自分がしたのは、ゼロだった勝率を、たった一パーセント上げただけだ。

 これがもし自分一人ならば、きっと何日も準備を重ねて、決死の覚悟で挑まなくてはならなかっただろう。けれど、それは一瞬で片付いてしまった。

「はい。これにて一件落着、かしら。あなたの助けになるかと思って、少しだけ張りきっちゃったわ。ふふ、感謝なさい?」

 そうやって、にこりと微笑みかける彼女。その優しさが、どうしてか、自分にひどく相応しくないように思えて。感謝の言葉よりも先に、疑問が口をついてしまった。

「どうして、ですか……?」

 疑うことは悪いことだと理解しているのに、そう思わずにはいられない。だって、

「僕には、あなたの優しさに返せるものがありません。この命だって、きっと不相応でしょう。なのに、どうして、そんなに優しくしてくれるのですか…?」

 自信無くそう言うと、彼女は当然のように言ってみせた。

「そうしたいと私が思ったからよ。…でもまあ、こんな言い方だと、あなたは納得しないでしょうね。なら、分かりやすく言ってあげるわ」

 くるり、と彼女は身を回して、下から覗くように彼女は腰を落とす。そのまま上目遣いのようにして、彼女はにこりと微笑んで言った。

「私が、あなたを好きだからよ」

 は、と一瞬なにを言われたのか分からなかった。

「え、えぇと……もう一度言ってくれますか?」

「だから。あなたのことが好きなのよ、私が。きっと一目惚れね」

 平然とそう話す彼女に、いやいやと自分はツッコミを入れる。

「いや、あの、僕たち出会ったばかりですし。そんな、好きになる理由なんて………」

「理由ならちゃんとあるわよ?」

 そう言って、彼女はどこか遠い場所に視線を向けながら話し始めた。

「私には、とある呪いが掛けられているの。それがある限り、私は願いを叶えられない。誰も、私を見ることがない。辛くて、苦しくて、悲しい。そんな呪いよ」

 これまでずっと、凛々しい姿を見せ続けていた彼女。だけど今は、不安のようなものが覗き見えた気がした。

「でもね。あなたといると、不思議と呪いのことを忘れられるの。……どうしてでしょうね。こんなこと、今までずっと生きてきたなかでも、初めてなのよ?」

 どうして、と今度はこっちが疑問される。分からないと素直に言うと、それでも良いと返された。

「そんなわけだから、なるべくあなたと一緒にいたいと願うのよ。ねぇ、これって、好きという以外になんて呼べばいいの?」

 良く分からず、曖昧に自分は首を傾げる。すると彼女は、諦めたかのようにため息をついた。

「今は分からなくてもいいわ。とにかく、私は私の喜びの為に、あなたに力を貸したいのよ。……まあ、そういうことだから、」

 彼女は言った。とても優しい顔をして。

「安心して、ユーリ。あなたがあなたでいる限り、私は決して裏切らないから」

「それは――」

 言おうとして、やめる。言うべきことは、そうではない。

 そうだ。彼女の優しさを疑ってしまったのは、なにより、その優しさ自体が、偽物なのではないかと、そう思ってしまったからだった。何度も、何度も、自分はそれを信じようとして、その度に、裏切られてきたから。

「…ありがとうございます、アルネラさん」

 ようやく、その言葉を口にできた。すると彼女は、満足そうに頷いてから、そそくさと自分の隣に移動する。

「それじゃ、帰りましょう?そろそろ私も、お腹が空いてきたところなのよ」

「か、帰ったらまた、アレをやるんですか……?」

 などと言いながら、自分たちは墓場を後にした。帰路の途中、他愛もない会話に花を咲かせながら。

「ねえ、ユーリ」

 不意に、彼女は口を開いた。

「あなたは呪いで成長できないわけだけれど、その呪いを羨む人もいたでしょう?もしそういう人が、あなたの呪いを寄越せと言ったら、あなたはどうする?」

 それは、と考えて、けれどもすぐ首を振る。

「当然、渡す気はありませんよ。というか、そもそもこの呪いは、不老になるものではないのです。保持者の成長を止めるのは、あくまでも副次的な結果に過ぎません。本当は、」

 言った。すると彼女は、

「………え?」

 信じられないような顔をする。目を見開いて、ぴたりと一瞬彼女の動きが止まった。

「…嘘、でしょう…?そんな、そんなの……あまりにも残酷すぎるじゃない!そんな呪いを、あなたはずっと耐え続けているの?誰にも押しつけることなく、一人きりで!?」

 月夜の帰り道に、彼女の声が響いた。しかしそれは、夜の静けさにすぐさま吸収され、残響として留まることもない。ここまで彼女が心配するとは思わなくて、少しだけ驚いた。別にそれほど、苦しいものでもないのに。

「それであなたは、平気なの…?」

「えぇ、もう慣れましたし。心は、身体と違って傷つきませんから」

「馬鹿じゃないの…!傷つくわよっ!そんなの、いつ壊れたっておかしくないぐらいの…」

 心配する彼女に、少しだけ戸惑ってしまう。今の彼女の感情を、自分はうまく理解できないようだった。確かに呪いは苦しいけれど、そんなものは誰もが生きていくうえで少なからず耐えなければいけないものだと自分は理解している。あぁ、でも。

「唯一、辛いことがあるとすれば、夜に眠れないことでしょうか」

 この数十年間。意識が落ちることはあっても、本当に眠ったことは一度もなかった。身体が限界に達したとき、気絶するように意識を失う。それがずっと続いていた。けれども。

「…でも、アルネラさんが、ぎゅっとしてくれたあのときは、本当に眠れた。…えへへ。一緒ですね、僕たち。僕も、あなたと一緒にいることで、この呪いを忘れることができるのです」

 だから。

「もしも、よろしければ、なのですけど……。今夜も、同じようにしてくれると、嬉しいです」

 そう言う。すると、彼女は、

「……えぇ、もちろんよ。私に任せなさい。思いっきり気持ちよくして、そんな呪いなんて忘れさせてあげるから」

 夜闇に、彼女の声が優しく響く。

 そうして自分は思い浮かべた。あぁ。今夜は、いったいどんな夢を見るのだろうか、と。

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