第3話

「…これにて儀式は終了にございます。解呪は成功いたしました。ご協力、感謝申し上げます」

 そう言って、自分は依頼人である男におじぎをする。予定されていた今夜の解呪の仕事は、幸いにも呪いを肩代わりすることなく済んだ。報酬を受け取り、いつものように、煙たがられながら自分はその家をあとにする。

 外に出た瞬間、静かで冷たい夜の外気が迎えた。今日はとびきり真っ暗だ。人の気配のしないそのなかを、先ほど耳にした噂話を思い出しながら歩く。

 ―近頃、この街に化け物が現れたらしい。

 ―そいつは隣の王国を滅ぼした魔女だとか。

 ―会ってしまえば最期、魅了されて堕落してしまう。

 どこにでもあるような与太話だ。真面目に考えるだけ無駄なことだと理解しているけれども、自然と頭に残っていた。

 ともあれ、いつもより軽い足取りで帰宅の途につく。簡単な依頼と、気前の良い報酬。今日はいつもと比べて良い日だった。いつもこうであれば、生活も少しは楽になるのだが…なんて愚痴をこぼしたりもする。

 そのとき、ふと気付いた。

「………?」

 静かすぎるのだ。今が夜であるということを考えても、人の気配というものがあまりにも無さすぎる。さらには、周囲には数多くの屋敷や店が並んでいるというのに、窓から漏れる灯りは一つもない。

 なんだかもう、その一つが怪しいと、それ以外の景色も普通ではなく見えて、当たり前のような夜がどこか不気味に思えてくる。何か良からぬことが今にも起きてしまいそうだ。

 そんな悪い予感に押されて、早めに歩みを進めようとした。すると、

「………?」

 ふと、暗がりのずっと奥、何も見えない夜の闇の先に、揺らめく橙色の光が見えた。何の光だろうか、視線が吸い込まれるような感覚で、無意識に見つめ続けてしまう。いや、そんなことをしている場合じゃないと思い直して、しかし。

「…あれ?」

 ぴたりと、先ほどから身体が少し動いていないことに気付いた。いや、動いていないのではなく、動かせないのである。両の足が地に着いたまま、張り付いたかのようになって、前に踏み出すことができない。

「………っ!」

 突然のことでパニックに陥りそうになった。何者かの呪術を受けていると思って、すぐに何とかしなければと、必死の焦燥感に駆られる。

 落ち着け、大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、まずは今の状況を確認する。少なくとも、呼吸をする分には問題ない。足は動かせないとしても、左右の手だけはなんとか動かせる。

 ゆっくりとだが顔も動かせて、そうして周囲を確認しているときに気付いた。前方、暗い闇の奥から、こちらに近づいてくる何者かがいる。先ほどの、橙色の光とともに。

「…あれは……!」

 息を飲む。それは、燭台に立てられた蝋燭の火であった。なんとも不気味な燭台だと一目で感じたのは、それが人間の手の形をしていたからである。

 …あれは、栄光の手か。

 栄光の手。それは、魔女がつくる魔術道具の一つであり、その燭台に灯された火を見てしまった者は、身動き一つとれなくなってしてしまう。先ほどからこうして自分が動けないのも、この者たちがその手に持つ栄光の手による呪いであった、というわけだ。

「…何者ですか、あなた達は…!」

 目の前から近づいてくる人影。数は四人。暗闇に溶け込むような長い外套を羽織っているため、姿は判別できない。

「あの屋敷の主に掛けられた呪いを解いたのは、お前か?」

 その中の一人、栄光の手を掲げる男が、低い声でそう言う。

「…その手に持つ魔術道具、見覚えがあります。そして、そのことを口にするということは、もしやあの呪いを掛けた魔女の手先ですか、あなた達は…!」

 自分の問いに、彼らは答えない。代わりというように、手にしたナイフの鋭利な切っ先を、こちらに向けてくる。

 魔女のなかには、掛けた呪いを脅迫にして、解くことを条件に金を要求する者もいる。あの依頼人に掛けられた呪いは、こうして彼らをけしかけた何者かによるものだったのだ。

 しかし、その呪いを自分は解いてしまった。正しく、己は彼らにとって邪魔な存在ということであろう。隷属民の解呪師を殺す理由など、たったそれだけで充分だ。

「お前のように下賤な手品師がいては、高貴なる我ら魔術師の栄誉が穢されかねん。抗わず、我らが儀式の贄となれ、隷属民」

 問答無用といった様子で、動くことのできない己に、彼らはゆっくりと近づいてくる。このまま何もしなければ、間違いなく自分は殺されるだろう。

「………っ!」

 逃げる。そのためにはまず、身体の束縛から脱しなくてはいけない。

 見る者の身体を動かせなくする栄光の手。その効果を破るためには、まず立てられた蝋燭の火を消さなければいけない。

 右手を左手の裾の中に入れる。そこには、様々な道具を隠し込んでいた。その中の一つ、長い袖のもとから取り出したそれは、三つの結び目を持つ白い紐だ。その二つ目を、さらりと解く。

 そうした瞬間、結び目に閉じ込められていた強風が静かな通りを吹き荒らす。突然巻き起こった暴風は、彼らを一瞬驚かせ、その手に持つ栄光の手の火を揺らがせる。

 だが、

「ハ!そのような小細工など無駄なことだ。そんな方法でこの魔術が打ち破れるとでも思ったのか?間抜けめ」

 無意味な抵抗と言うように、男は嘲笑う。事実、その通りだ。身体が持っていかれそうなほどの強風だが、それにもかかわらず炎は揺れ動くのみで、少しも消える気配がない。

 栄光の手に灯された火は魔術の炎だ。それは、たとえ水をかけられたとしても、消えることがない。しかし、それを消すことのできる唯一のものがある。

 それは、

「――――」

 裾から取り出したのは二つ。取り出したもう一つのほう、白く濁った液体を内包した小さい瓶を、風に乗せるようにして軽く放り投げる。それは、強風に運ばれ、栄光の手に灯された炎の直上に辿り着いた瞬間に破裂、中身の液体を、炎に覆いかぶさるようにしてぶちまけた。

 栄光の手の火を消すことのできる唯一のもの。それはなんと牛乳なのだ。

「な、なに…⁉炎が消えた、だと…⁉」

 予想外の事態に、動揺する男。炎が消えたことによって、己はようやく身体の自由を取り戻した。

 栄光の手は、魔女が使う最も有名な魔術道具の一つだ。だからこそ、解呪師ならば常に対抗手段の一つでも用意しているのは当然といえる。…なのだが、実は今日だけは少しだけ違った。

 依頼に行く途中の露店で、香辛料と砂糖の入ったスパイスミルクを買っていたのだった。帰ったら温めて大事に飲もうと思っていたのだが…少し残念。

 とはいえ、やはり今日は幸運だと、自由になった身体とともに思い直す。いや、こんな目に遭っている時点で不幸なのだが。そんなことは考えるのは後にして、すぐさま自分は男たちとは反対の方向に走り逃げる。

「くそッ!小賢しい真似を…!おい!逃げたぞ、今すぐ追え‼生かして帰すな!」

 激高した叫びとともに、追いかけ走ってくる音が聞こえる。こちらは全力で走っているが、自分と彼らでは身体の大きさが歴然だ。このまま何もせずに走り続けていれば、いずれ追いつかれることは確実。

 さらには、ヒュンと背後から、風を切る音とともに飛来してくるものがある。それは、投擲されたナイフだった。慌てて身体を横に飛ばした瞬間に、頭のあった位置を飛んでいく。

 幸い、今はまだ距離があるのでかろうじて避けることができるが、一度でもくらえば確実に致命傷だ。

 だから、

「…オン・マリシエイ・ソワカ。隠形司りし陽炎の神よ、一握りのあいだ、我が身が貴方と等しく在ることを希わん!」

 祈り、願い、想像する。イメージするのは、神と一体化する自分。かの御方こそは、如何なる者でもその姿を見ることができず、それゆえどんな者であろうとも攻撃することができない、不死身なりし陽炎の守護神。

「――――」

 真言を唱え終えた瞬間、己の身体が周囲の光景と同化し始め、完全に透明な姿へと変わった。

「…なに⁉消えた…いや、透明化か…!」

 背後から驚きの声が聞こえる。術は成功したようだ。あまり長く続くものではないが、少しの間でも奴らの目から逃れることができれば充分だ。

「………ッ!」

 息を切らしながら走り込んだそこは、三つの行き先に繋がる十字路だ。ここならば、透明になった自分がどっちの方向に逃げ込んだのか分からず、混乱するはず。

 人の集まる街の中心に向かったほうが安全だが、あえて港のほうへと向かう。そこには交易で集まった物資を収めるための倉庫も多く、隠れる場所も豊富にある。ひとまずそこでやり過ごそうと、進行方向を向けたそのとき。

「解呪師風情が無駄な足掻きを…!こうなればもはや、手段など選んでいられるか!」

 昂った声が、夜の静けさに激しく響く。いったい何をする気なのか。そう思ったとき。

「魔界の王、我が命を捧げし主の敵対者よ!今こそ血と臓物の契約により、この地上に破壊と殺戮をもたらさん!」

 これは、まさか。

「あれって…⁉」

 振り向いた先、追手の一人が外套の袖から取り出したのは、黒く穢れた逆十字。

「邪悪なりし祈りをここに。主よ、我が行いを憐れみたまえ!」

 ネーマ。低く叫ぶような声が、その言葉を紡いだ瞬間。

「―――――‼」

 何もない空間から突然現れた爆炎が、自分ごと十字路一帯を全て焼き尽くした。

「………っ…かはッ!」

 とてつもない衝撃と熱が、全身を襲う。

 爆風による吹き飛ばしは、身体を軽く持ち上げ、容赦なく壁に叩きつける。爆炎は肌を焦がし、衣服に覆われた肌さえも焼き爛れさせる。

「…………‼」

 なんという、ことを。遠のきそうになる意識を必死に呼び止めながら、男の所業に息をもらす。騒ぎを起こさないように、派手な魔術は使ってこないだろうと踏んでいたことが仇になった。

「…ッく、逃げ…ないと……!」

 痛みで悲鳴を上げる全身を奮い立たせ、必死に立ち上がる。幸い、透明化の呪術はまだ続いているようだった。

「奴はどこだ⁉探せ、まだ生きているはずだ!」

 炎の燃える音とともに、後方から聞こえてくる叫び。爆炎によって生じた煙は、彼らの捜索を困難にさせた。先ほどの爆破魔術は、こちらにとっても悪いことばかりではなかったようだ。

 奴らが混乱している隙に、港の方向へと逃げる。先ほどの爆発による負傷は酷いが、己の身体は常人よりも無理が利く。痛みはどうしようもないが、この程度ならば、走ることに問題はない。

「はあッ…!はあッ…!」

 ゆっくりと歩き出し、しばらくしてから走り始める。身体の内側が破れてしまいそうなほど、酷く息が乱れていく。

 大丈夫だ。奴らは追ってきていない。もしこちらの方向に来たとしても、姿が透明な自分を見つけることなんてできないのだから。そうやって、自分に言い聞かせる。

 そのとき。

「そっちだ!奴は港の方向に逃げたぞ‼」

 それを聞いた瞬間、心臓が凍り付くような感覚が貫いた。どうして、気付かれた。なぜ分かった?パニックでそれしか考えられなくなる己の視界に、新しい姿が映った。

「グルァアア‼」

 暴力性を少しも隠すことのない、獰猛な唸り声。そこにいたのは、闇の如き黒い毛並みと、燃え盛るような赤い目を持つ四足の猛獣。ブラックドッグ、あるいはヘルハウンドと呼ばれる、魔犬の精霊。

 月の無い夜を支配し、十字路に姿を現す地獄の猟犬。魔女たちの女王に仕える彼らならば、たとえ姿の見えぬ者であろうとも、魂の匂いを辿って必ず食い殺すであろう。

「………ッく⁉」

 数は三匹。獰猛な牙の間から炎をくゆらせながら、一直線に突進してくる。それはまるで、こちらの姿が見えているかのように。

「ガルァア‼‼」

 先行する一匹が、唸り声とともに飛びかかる。圧倒的な速度と勢いをもったブラックドックは、自分の右腕に凶悪な牙を突き立てた。

「ッぐあぁあ⁉」

 刻む。焼く。刺し貫かれ、嚙み潰される。正しく、犠牲になった右腕はそのようになった。骨は砕け、筋肉は断裂し、露出した血は炎によって焦がされ固まる。酷すぎる激痛に、脳が沸騰しそうだった。

「そこかッ!」

 攻撃はそれだけにとどまらない。ブラックドッグたちの突撃により位置を把握した追手は、もう一度爆炎を起こさんと逆十字を握った。さらに、追い打ちというように、ぐらりと倒れそうになった自分に、後続したブラックドッグの残り二匹が左右から襲い掛かってくる。

「ルキフェルなりし我が主よ!今一度、その身を焦がす業火をここに顕現したまえ!」

 祈りの声が響き渡る。結びの言葉が為された瞬間、もう一度あの爆炎をこの身に喰らうことになるだろう。そうなったときが、全ての終わりだ。

「――――!」

 左手で、先ほど使った結び目の紐をもう一度取り出す。右手は今もブラックドッグが嚙みついて離さない。だから、紐を口で咥え、強引に結び目をほどく。

 この紐は、風を操る魔術道具だ。強さの異なる三つの風が、それぞれの結び目に閉じ込められている。

 一つ目には、適度なそよ風を。二つ目には、激しく吹く強風を。そして、三つ目には、

「……ッ‼」

 解放する。それは、嵐の如き薙ぎ倒しの暴風。全てを吹き飛ばすような破壊の風を、自分と追手の間に設置した。

 ふとすれば瞬時に飛ばされてしまうような暴風。追手たちは、飛ばされまいと必死に踏みこたえるが、しかし自分は、

「――――」

 強烈な吹き飛ばしに対し、為されるがままにこの身で受ける。

 轟音とともに巻き上がる風。それは、小さき我が身など軽々と持ち上げ、吹き荒ぶ方向へと己を連れて行ってくれる。

 凄まじい勢い。まるで、横向きに落下しているかのように、周囲の光景が、一瞬で後ろに流れていく。右手に噛みついていたブラックドッグも、あまりの速度に耐えきれず、違う方向に飛ばされてしまった。

 速度が頂点に達したとき、加速が途切れ、飛んでいた己の身体が地面に近づいてくる。顎を引き、首と顔を守り、衝撃に備える姿勢をとった次の瞬間。吹き飛ばされた勢いのまま、ガツンと地面に叩きつけられた。

 勢いを消しきれず、そのまま石畳の上をかなりの距離で転がり続けた。そうしてようやく止まった後、夜空を見上げるかたちで、だらりとその場に横になる。

「…ッく…は…はぁ…」

 受け身も取らずに着地したせいだ。火傷、裂傷、打撲、骨折。もはや全身、怪我の無い場所などどこにもない。先ほどの衝撃と爆炎で、四肢の筋肉は断裂していて、立ち上がろうとすると傷跡からどくりと血が溢れた。

 歩く。右足はもう動かない。今の自分には、この速度が精一杯だった。一歩を踏み込むたびに激痛が走り、ともすれば倒れてしまいそうになるのを、必死に堪える。

 朦朧とする意識で、逃げ延びるための方法を必死に思い浮かべる。今の自分に、港まで走る体力は残されていない。ゆえに、今いる大通りから外れて、小さい路地裏へと向かった。少しでも、奴らの追跡から逃れるために。

 より暗く、人の気配もますます消え去った路地裏の道に、己は足を踏み入れる。左右を背の高い建物に囲まれているために、月の光さえも届くことはない。

 暗く、塞ぎ込んだ濃密な闇の中に溶け込むように、その道を進んでいく。何も見えない暗闇は、今の状況ではかえって頼もしかった。なにしろ、奴らに見つかったときが、本当の終わりなのだから。

「…はっ…は…はぁ……ッ!」

 うまく息ができない。動かす脚も重い。それでも歩き続ける。もはや自分がどこまで進んだのかなんて分からなかった。今の自分にできるのは、路地裏の一番奥に行って、誰にも見つからないようにすることだけ。

 幸いなことに、奴らが追ってくる足音はまだ聞こえてこない。さっきの吹き飛ばしで、相当距離を離したのだろう。あとは、ブラックドッグたちに匂いを辿られないことを祈りながら、朝まで隠れてやり過ごすしかない。


 そんな可能性は、果たしてどれだけあるのだろう。


 魂の匂いすら嗅ぎ分ける猟犬相手に、朝まで隠れ続ける?そんなの不可能だ。奴らは絶対に自分を見つけてくる。この深手の状態で、今までにどれだけの血を流してきたと思っているのだ。奴らにとっては、その跡を追うだけで、いとも簡単に見つけられるというのに。

「…………」

 立ち止まり、下を向く。気が付けば、辺りは本当に真っ暗で、まるで世界に自分だけ取り残されたかのようだった。

 一人きり。孤独。駄目だと思っても、悪い考えばかりが脳をよぎる。

 何のために、歩き続けているのだろう。何のために、生きようと必死に足掻くのだろう。そう思った瞬間に、今まで己を突き動かしていた衝動のような力が、プツンと途切れてしまったようだった。

 カクン、と膝が力を失う。冷たい石畳に、力なく座り込む。そうすると、忘れていたものがやってきた。

「っ…ぃ…い、たぃ……」

 身体中が、痛みで震えている。耐え続けることが、どうしようもなく辛い。辛くても諦められないことが、さらに苦しい。あぁ、まるで、苦しみ続けるために、生きているかのよう。

 そのとき聞こえてきた。

「――――‼」

 恐ろしい犬の遠吠え。己にとっての死。避けることのできない、どうしようもない終わり。

「………だれ、か…」

 掠れる音が、喉を震わす。

「助け、て……」

 震える声は、ただ暗闇に消えていくだけ。

 救いなんて来るはずがない。そんなこと分かっているけれど、そう願わずにはいられなかった。だって、そうでもしないと、今すぐに自死をしてしまいそうだから。いずれ来る残酷な終わりよりも先に、静かに消えることができたら、どれだけ楽だろうか、と。

 だから自分は、無意味に願った。

「…だれ、か」

 誰か。

 誰でもいい。

「…たす、けて……」

 僕を、助けて。

 この終わりから。この苦しみから。あるいは。


 僕の、呪いから。


「………?」

 そのとき。路地裏の奥。いまだ見通せない暗闇のなかに、何かの気配を感じて、ぴたりと足を止める。

「…そこにいるのは、だれ」

 それを言葉にする自分に、先ほどの緊張感が戻ってくる。己が呼びかける何かは、視認することができなかった。完全に影に溶け込み、ただ暗闇があるというふうにしか見えないが、それでも異様な雰囲気が漏れ出ているのを感じる。

 それから片時も目を離すまいと神経をとがらせ、ごくりと息をのんだとき。暗闇のなかにいる何かが、一瞬だけ動いたように見えた。

『………なんだ、気付いていたのか。残念だが、まあ良かろう』

 奇妙な声だ。男と女、老人と子供を混ぜ合わせたような、何者でもない不気味な響き。

 だけど、その声を聞いて確信した。目の前の“それ”が、人間ではないことを。

『今宵は良い夜だ。何もかも死んでしまったかのように静かで、迷子の心の叫びすらも聞こえてしまいそうだよ』

 顔も何も見えないが、暗闇の中にいるそれが、確かに笑ったように感じた。実に愉快そうな、気楽な声と言葉。

「――――」

 雲間から、月が顔を出す。その光は、お互いの領域を明確に分けた。月明りを浴びる自分と、陰に潜む不明の何か。その境界を絶対不可侵にして、自分はそれと相対する。

 それは、次のことを言った。

『取引だ、人間。我がお前を救ってやる。その代わり、お前も我を助けよ』

 それが口にしたのは、自分が最も予想していなかったことだった。

「………え?」

 救う?自分を?こいつは今、そう言ったのか?

 聞き間違いを疑う自分に、目の前のそれはさらなる言葉を寄越す。

『お前の置かれている状況は理解している。生きたいのだろう?それは我も同じことだ。我がお前に望むことはただ一つ。お前の生命力を、我に分け与えよ。そうすれば、お前の敵を殺してやる』

 都合の良い話だ。こんな怪しい奴の言うことを信じるなんて正気じゃない。だけど、その言葉にはある程度の真実味もあるように感じた。人間を超越した力を持つ異属。そんな存在ならば、あの追手たちを倒せるかもしれないと、そう思わずにもいられなかった。

 あるいは、どちらでも良かったのだろうか。どちらにせよ、追手に捕まって死ぬか、騙されて死ぬかの二つなのだから。

『我の取引に応じろ、人間。さもなければ、お前は無意味に死ぬだけだぞ』

 それは、そんなことを言った。自分の心をひどく揺さぶる言葉が、夜の静寂を切り裂く。だから、こう言い返さずにはいられなかったのだ。

「…なら、あなたの人生には、意味があるのですか」

『………ほう。この状況で、いったい何が言いたいのだ?』

「言葉の、通りです。あなたは、何のために生きるのですか」

 僕にはそれが分からない。苦しいばかりの、無意味な人生。それは、無意味に死ぬこととどれほど違いがあるのだろう。

「――――」

 暗い闇を、じっと見つめる。こうしているあいだに、追手はこちらに迫ってきていることだろう。時間は音もなく過ぎていって、もうすぐで己は終わりを迎える。

『は、くだらん』

 それは、切り捨てるように嘲笑した。

『人生に意味などない。ただ、行動の結果が残るだけだ。それら全てが終わったとき、死ぬ間際に考えればよい。何のために生きたのか、とな。いまだ続いている人生に、意味など見出せるものかよ』

 それは、なんでもないかのように言った。

 そうか。僕の人生は続いていて、するべきことが残っているから、意味を見つけることができないのか。

「……どうすれば、よろしいのですか」

『我の取引に応じるということだな?よかろう、賢い判断だ。なら、我のほうへ近づいてくるがいい。ゆっくりと、一歩ずつ、な』

 それの言葉に、こくりと頷く。自分は、言われた通りに、ゆっくりと暗闇のほうへと近づいていった。

 緩やかに、時間をかけるようにして、歩みを進める。一歩、二歩、三歩。そこに辿り着くまでの数秒は、長いようで短い、不思議な感覚だった。

 考える。

 今までの人生を。消費してきた時間を。今はきっと、そういう時間だ。

 多くのことを為してきた。たくさんの人が泣いて、笑っていたと思う。それが、僕のしてきた行動の結果。


 …だめだ。分からない。


 ならばやはり、無意味な人生だったのだろう。

 けれど。僕が最後にする行動は、ひとつの命を救うもの。なら、それでいい。何もかも手放して、楽になってしまえば、もう悩む必要もないのだから。

『――――!』


 * * *


 いつの間にか、地面に倒れ伏している自分に気付いた。仰向けになるが、夜空は見えない。覆いかぶさるように、暗い闇の何かがあるからだ。

 いや、それはもはや、暗い何かではない。明確に輪郭を持つそれは、金色の毛並みをした狐だった。しかし、普通の獣の狐とはあまりにも異なる点がある。今も己を組み伏せ、押し倒すそれは、並みの狐よりも一回りも二回りも大きく、そして、尾も一つではない。ゆらゆらと妖しく揺れる尻尾は、付け根から幾重にも分かれて見えた。

 翠色の瞳が、その視線で己を貫く。開いた口には恐ろしげな鋭い牙が見えるが、それが自分に襲い掛かることはなかった。代わりというように、先ほどの暗闇と同じ声が響く。

『……なぜだ』

 それは、理解できないことを、不満そうに表すものだった。

『なぜ、抵抗しないのだ。お前は』

 目の前に、狐の顔が迫る。疑いの眼差しが、鋭く己を突き刺した。

『お前、本当は気付いていたな?我が、お前を騙して、近づいて来たところを取って喰らうつもりだったことを』

 どこか呆れるように、狐はそれを言葉にする。そんな状況で、自分はひどく落ち着いていた。

「どうして、今すぐ僕を喰らわないのですか」

『お前の行動が理解できないからだ。…敵意を秘めて近づいてくるというならば、まだ分かりやすい。そうではなく、ただ殺され、ただ喰われるために近づいてくるなど。かえって不気味だ』

「あなたが、言ったことではないですか」

 きっと、何気なく口にした言葉だったのだろう。だけどそれは、この自分にとっては、大きな意義のあるものだった。

「…僕の命は空っぽで、今すぐにでも投げ捨てられる無価値なものです。毎日を生きるだけで苦しくて、けれども無意味に死ぬことはできなかった。そんな僕を、あなたは救ってくれるのですよ」

 目の前にある、大きな顔。僕はそれが、恐ろしいとは感じなかった。狐の身体。自分など、丸呑みにできそうなほどの巨体、鋭利な牙。あぁ、でもよく見れば、金色の毛並みは、夜の月と同じ色で、とても綺麗に思えた。

「僕の命を喰らえば、あなたは生きられるのでしょう?それは、きっと無意味ではない。僕は、価値のある誰かのために、この命を使えるのですから」

 だから、これは正しい選択だ。

『…正気か。お前が助けようとしているのは、人を喰らう化け物だぞ。お前を殺した後、他の人間を襲うかもしれん。そんなものを救うということが、どういう結果になるのか、分かっていないのか』

 だとすれば、これは正義の自己犠牲などではなく、偽善的な自己満足なのだろう。

「それは、少しだけ困りますね。あなたはそんなことをしないと、信じる他ありません」

 根拠も何も無い希望的観測でしかないけれど、そこまで間違っていないようにも思えた。だって、今から喰い殺す者のことを、この人は知ろうとしてくれるのだから。

「…もしも慈悲を下さるのでしたら、一つだけお願いがあります。教会にいる、セラという名の神官に、僕のことを伝えてくれませんか。そうでもしないと、街全てをひっくり返してでも、いなくなった僕のことを探し回ると思うので」

『なぜだ…』

 突然、そんなことを問われた。

『どうして、そう簡単に諦めることができる。お前は、死ぬことが怖くないのか?』

「…そんなの、怖いに決まっています。でも僕は、何の意味もなく死んでしまうほうが、何倍も恐ろしいのです」

 でも、意味はあった。いや、たった今、見つけたというべきか。

「………ふふ」

 笑う。自然に、いつも偽りながらそうするのではなく。心の底から、頬が緩んだ。

「…あなたの願いは、何ですか。それは、難しいことでしょうか。でも、きっと大丈夫ですよ。その願いは、必ず、叶いますから」

 そう言ったとき。すぐ近くで、ブラックドッグたちの唸り声が聞こえてきた。複数の走る足音も近づいてくる。

「…さぁ、もうすぐ彼らがやってきます。その前に、終わらせてください」

 ひどく、穏やかな気分だった。今から死ぬとは思えないほど。あるいは、死とはそういうものなのかもしれない。

 そんな自分を見つめる狐は、どこか考えるような素振りを見せて、

『……そうか』

 それだけを言い残す。そうして数秒の沈黙の後に、大きく口を開け、その牙で自分の首を捉える。

 ぎゅっと、目をつぶった。ようやく、終わりがくるのだと、心の中で確信した。

 そのとき。

「………?」

 触れたのは、首に噛み付く牙ではなかった。人のものらしい何者かの手が、頭と背の後ろを優しく触れて、抱きしめるように包み込んだ瞬間。

「――――」

 唇に、柔らかい感触を感じた。

「……ん…ぁ……」

 口の中に、弾力のある湿った何かが入ってくる。それは唾液をこそぎ取るようにして、己の舌と絡み合い、くすぐるように撫でまわす。

 息ができない。けれど、なぜか苦しくはなかった。全身から、あるべき力が抜けていくような、そんな感覚。

 それが数秒間、じっくりと続いたあと、ようやく解放される。そうして、全てが終わって、何が起きたのかと、自分は瞑っていた眼を開けた。すると、

「…………ぁ」

 見えたのは、見覚えのある翠の瞳。けれど、それは狐のものではなくて。

「――――」

 金色の髪、それに埋まるようにして覗く、獣の耳。白く、透き通るような肌。明かりの無い夜においてさえ、輝くように美しい女の姿が、そこにはあった。

「あなたは……」

 そう言おうとして、しかし。妖しげな視線にあてられて、息ができなくなる。

 彼女は、迷うような表情を見せたあと、豊かな声音を響かせる。

「…言ったでしょう?これは、取引だって。何を勘違いしたのかしら。私は、ただその通りにしただけ」

 そう言って、優美に笑う。彼女は、力なく倒れる己を軽々と抱き上げ、傍の壁に背中を預けるようにして座らせてくれる。

「あなたは私を救って、その代わりに私はあなたを救う。今ので、約束の半分は果たされたわ。だから、今度は私の番」

 そう言って、己に背を向けるようにして振り返る。

 そのとき。

「…何者だ、女」

 路地裏の奥、見通せない闇から這い出てくるように、追手の男たちが姿を現した。

「そこを退け。用があるのはそこの子供だ。邪魔をするというのならば、貴様から殺してやろう」

 そう言って、黒の逆十字を握る姿に、思わず息を飲む。こんな狭い路地裏で爆炎を放たれたとすれば、どう足掻いても逃げ場所がない。

 まずいと、そう伝えようとしたとき。

「…ねぇ。狐の狩りを、知っているかしら?」

 彼女は、追手たちに身体を向けたまま、後ろの自分に流し目を送るように、不意にそんなことを口にした。

「獅子や狼とは違うわ。妖しき狐は、人を惑わすものよ?そんなものを相手にして、今見えている景色が、本当だと信じられるのかしら」


 * * *


 追手の男は、黒魔術の教団に所属するウィッチだった。とある一人の解呪師を殺すよう命じられ、そうして何人かの配下を連れてやってきたのである。

 最初、標的を目にした際には、なんて簡単な命令なのだと笑ったものだった。なにせ、ただの隷属民の子供にしか見えなかったからだ。せめて、傷なく捕らえて儀式の生贄にでもしようと、楽観していたほどである。

 しかし。暗殺用の栄光の手は打ち破られ、爆炎の黒魔術は外され、終いには秘蔵のブラックドッグまで呼び出す羽目になった。

 ようやく逃げ場のない路地裏へと追い詰めたかと思えば、また新たな邪魔が入ってくる。最初の楽観視はいったい何だったのだと毒づきながら、謎の女と彼は相対していた。

 …いったい何者だ、この女。いや、そもそも人間なのか?

 女の姿を、じろりと眺める。ひどく美しい女だ。ここで殺すのが惜しいと、そう思うほどに。

 警告はした。もはや、この女が何者かなんてどうでもいい。焼けば全て等しく灰になるのだから。

「…ルキフェルなりし我が主よ。その身を焦がす業火を、ここに顕現したまえ」

 祈りの言葉を紡ぐ。己が身を捧げるは、善人を導きし父なる神ではない。魔界にて、邪悪を統べる主の敵対者なり。

 この手に握る、黒く穢した逆十字こそが、かの者への忠誠の証。ならば、結ぶ祈りもそのようでなくてはいけない。

 nemA《ネーマ》。穢した聖句こそ、邪悪な行いに相応しい。

 その祈りをもって、破壊と混沌をこの世にもたらすのだ。

「ねぇ、どこを見ているのかしら?」

「……⁉」

 突然背後から声がして、とっさに振り向く。すると、つい先ほどまで仲間が立っていたその場所に、なぜか女の姿があった。

「貴様…ッ⁉」

 瞬間、懐から取り出した短剣で、女の喉目掛けて切りつける。

「――――⁉」

 一閃。刃は狙いの通りに走り、その柔らかい肌をいとも容易く切り裂いた。

 吹き出す鮮血と共に、喉を押さえて倒れる女。その光景を見下しながら、先ほどの女の強きな態度を思い出して笑う。多少は驚かせたが、実に呆気ないものだ。

「あらあら。どうしたのかしら、そんなに驚いたような顔をして」

 そのとき、再び声が聞こえた。同じ女の声だ。それは、最初と同じ前のほうから聞こえて、その方向に振り向く。そこには、殺したはずの女が立っていた。なぜ、そう思ったとき。

「ふふ。酷いことをするのね、お前。、だなんて」

 言われた瞬間、もう一度振り返る。喉から血を吹き出して倒れていたのは、女ではない。自分と同じ黒い外套を纏った、配下の魔術師だった。

「な、なにを…⁉」

 もう一人が、混乱するようにそう言う。己を警戒するように、後退るのが見えて、

「ち、違う!私には、確かに女の姿が見えて……!」

 慌てたように声を乱す自分を、女は嘲笑するかのように、くすくすと小さく笑う。

「そ、そうか!これは、貴様の仕業だな⁉そうだろう⁉」

「あらあら。手に掛けたのはお前でしょう?私はずっと、ここに立っているだけよ?」

「……ッ‼いや、もはやどうだっていい‼」

 逆十字を握る。ただ一言、最後に唱えるだけなのだ。ただそれで、爆炎が全てを焼き尽くす。

 だから。

「ネーマ‼」

 そう、唱えようとしたそのとき。

「…ッが⁉」

 背後から、何かが己の身体を深く刺し貫いた。

「なにを…する…貴様……‼」

 後ろにいたのは、残った一人の配下。息を切らし、ひどく怯えるように震える彼は、その手に握る短剣を、己の心臓に突き刺してきた。

「…貴様も……奴に…騙され……」

 意識が途切れる瞬間。最後まで唱え切られなかった術式は、制御を失い、暴走により爆発をその場に生み出した。


 * * *


 爆炎が、目の前の全ての空間を焼き滅ぼした。巻き込まれた二人は、為す術もなく、骨まで残らず焼き果てる。

 焼却を逃れたのは、後方にて座る自分と、目の前でただ立ち尽くしていた狐の女性だけ。しばらくして炎は静まり、暗く静かな夜の路地裏の空気に戻っていく。

 目の前にいるその人に、何か話そうとして、とりあえず立ち上がる。すると、彼女がこちらに振り返った。何事かを言うかと思った彼女は、こちらに視線を向けた後、己をじろりと眺めたあとに。

「――――」

 不意に、ぐらりと身体を傾かせて、力尽きるように倒れ込んだ。

「ちょっと……!」

 地面に倒れそうになる彼女を、自分は寸前のところで受け止める。

「………」

 彼女の顔を覗く。目を閉じてはいるものの、呼吸をするように胸は上下していた。どうやら、気を失っているだけのようだった。自分もそうだが、彼女もまた、限界に近かったのだろう。

 彼女はいったい、何者なのだろう。先ほどの光景は、追手の男たちが勝手に仲間割れしていただけで、彼女は何もせずただ立っていただけのように見えた。

 狐。妖狐。彼女は、自身を化け物と自称していたが、今の無害そうな寝顔を見ると、そんな物騒なものには到底思えなかった。

「………あ」

 ふと顔を上げると、東の空が徐々に明るみ始めていることに気付く。朝が近づいてきたのだ。

 帰ろう。そう思ったとき、この手のなかにいる彼女をどうするべきかと、一瞬考えた。

 …まぁ、こんなところで置いていくわけにもいきませんし……

 セラにはどう説明しようか。そんなことを考えながら、自分はボロボロの身体に鞭打って、家までの帰路に就くのであった。

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