第2話
「ん…ぅ……?」
窓から差した陽光が瞼に当たる。その暖かい眩しさに刺激されるようにして、目を覚ました。いや、唐突に覚醒したのは、それだけが理由ではない。
なにやら、美味しそうな匂いがする。そのことを強く感じるというのは、お腹が空いているからだろう。たしかに、昨日は解呪の仕事から帰ってすぐに、疲れのあまり食事も取らずにベッドで倒れてしまったのだった。
空腹で目覚めるなんて、まるで獣のようだと思いながら、この匂いはなんだろうと疑問する。起き上がる前に、一つ大きく身体を伸ばし、あくびを一つ。
「あれ……?」
伸ばした手足が、何か大きいものに触れた気が…。なんとなく想像はついたが、隣で不自然に膨らんだ毛布をさらりと捲り返す。すると、やはりと言うべきか、予想通りの姿がそこにあって、
「…なにしているの?セラ」
無造作に頬を寝台に押しつけて、かわいらしく眠る少女がいた。彼女は、起き上がった自分の動きに反応して、瞼を蝶の羽ばたきのように震わせ開く。
「ん…起きたんだ、ユーリ。おはよ」
むにゃむにゃと、彼女も小さくあくびを入れて、眠そうにとろけた瞳をこちらに向ける。
「おはよう。来ていたのなら、起こしてくれても良かったのに」
「今朝こっちに帰ってきたら、珍しくよく眠っていたから。最初は眺めているだけだったけど、あんまりにも気持ちよさそうに見えて、つい」
ごしごしと目をこする彼女。隣で寝ていたのはそういうことか、と理解する。
「こんな固いベッドで寝るなんて、身体に良くないよ」
「それ、ユーリも同じこと」
「はは。僕は男だから大丈夫。だけどセラは女の子でしょ?」
そう言うと、セラは無表情な顔を怪訝そうにして、
「…なんか今の、教会のおじさん神官みたいな言い方だった」
「え、えぇ?なんかグサりとくるなぁ…あはは……」
そう思われるのは若干心外である気もしなくはないが、まあしょうがない。外見はともかくとして、中身はそれくらい年をとっているのだから。
「そんなことより、ユーリ。お腹、空いているでしょ?朝ごはん、つくってあるよ」
解いた髪を結びなおしながら、セラは言う。
その言葉を聞いて、あぁそうかと納得する。この美味しそうな匂いは、彼女の料理からのものだ。
「ふふ。ありがとうセラ。それじゃあ、一緒に食べようか」
そう言う。なんだか、懐かしい気分になるものだ、と感じてしまう。
「うん」
いつも無表情な彼女は、少しだけ笑顔を見せて頷いた。
* * *
「そういえば、今日は教会の仕事はあるの?」
テーブルに並べられた料理に舌鼓を打ちながら、ふと口にした疑問だ。
先ほど、朝の八時を告げる鐘の音が響いた。つまりは少し遅めの朝食ということになる。ちなみに、今日の朝食のメニューは、豆と野菜のスープとパン。そして果物だ。滋味の深いスープは、身体の芯から温かくしてくれるし、パンもまた、今朝焼き上げたばかりのようで、柔らかくスープとの相性は抜群だ。みずみずしい果物は、爽やかな酸味と微かな甘みで寝起きの頭をすっきりとしてくれる。
「うん。今日はいつもの礼拝の仕事じゃなくて、悪魔祓いのほうだから。忙しくなるのは夜から」
自分と同じように、もぐもぐと口を動かしながら、彼女は答える。
セラは教会で働く神官だ。本人曰く、まだまだ見習いとのことだが、相当頑張っているのは確かである。彼女は謙遜屋なので、けっして自分から言うことはないが、それでもかなり優秀な神官であることは間違いない。
彼女が小さいころから一緒にいた身としては、セラが立派な神官として活躍しているというのはとても嬉しく、そして誇らしい。料理の腕も、始めたばかりの頃よりだいぶ上達したものだと思う。
…こりゃあ、将来良いお嫁さんになるに違いないなぁ……。
「……なんか変なこと考えているでしょ」
などと、下衆なことを考えていると、怪しい目をされる。そういうことに鋭いのが彼女だ。
「いやいや。今日も美味しい料理だと思っただけ」
「……本当?」
「あぁ、本当だよ」
実際、つくってくれる料理はどれも美味しい。自分などのために、わざわざ手を尽くしてくれる彼女には感謝しかない。
「だけど、忙しいなら無理して帰ってこなくてもいいんだよ?」
そう言う。こんな自分を心配してか、セラは数日おきにこうして我が家に来て、いろいろと家の手伝いをしてくれるのだ。
今でもこの家を帰る場所だと思ってくれているのはかなり嬉しいことだが、しかし彼女のことを考えると、それが重荷になっているように思えてしかたがないのだ。
「…無理なんてしてない。これは、私がしたいからしていること。それに、」
強がるように、セラは凛々しい言葉をくれる。それに、と言葉を続けて。
「目を離した隙に、すぐ無茶するから」
若干目を伏せるようにして、彼女は言った。
「ねぇ、ユーリ。また呪いを引き受けた、でしょう」
「もしかして、僕が寝ているあいだに走査したの?」
軽くおどけて言う自分に、セラは真剣な表情を向けてくる
「…ユーリのことなら、なんでも知っているから」
「はは、それは怖いなぁ」
冗談だろうと思って、少し笑ってみせる。しかし、セラは、
「…ごめんなさい。私の聖術では、その呪いも解けないみたい。私にもっと、力があればいいのに。……助けられなくて、ごめん」
そう言って、肩を落とす彼女。震える眼は、今にも涙が溢れそうなほどに、悲しさの色を映しているようだった。どうやら相当心配させてしまっているようだと、少し反省する。
「セラが謝ることじゃないよ。それに、力不足なんかでもない。こうして君がつくった食事を、君と一緒に食べられることは、それだけで僕にとっては幸せなことだから」
そう言って、笑うように頬を緩ませる。彼女も、安心とまではいかないけれど、それだけは分かってくれたようで、すぐさまいつもの様子を取り戻してくれた。
「その、大丈夫なの?」
「うん、そこまで酷くはないかな。呪いを引き受けるのは慣れているし。この程度の呪いなら、すぐに他の呪いと馴染んでいくだろうからさ」
できるだけ心配させないように、と考えたけれど、自分の説明を聞けば聞くほど、セラはこちらを案じてしまうようだった。
まあ実際、これくらいは大丈夫な範囲だ、呪いを代わりに引き受けるということも、今に始まったことではない。
昨日のようなことは、今までにも何回かあったものだ。自分の呪力では解くことのできない呪いがあった場合、解呪するのではなく、己が肩代わりすることで、その人の呪いを取り除いてやる。これは呪いを引き受け始めてから分かったことだが、どうやら自分は呪いの影響を受けにくい体質らしい。それゆえ、昨日の依頼の少女が患っていた脚部障害の呪いも、自分にとっては軽い痺れという程度に収まっている。
この身は既に、数多くの呪いに蝕まれている。それは、もはや数え切れないほどに。そうでもしないと、解呪師としては食っていけないのだ。
身分の低い隷属民は、王国人とは違って、己がなりたい職業を選べるわけではない。多くの場合、誰も担い手のいない、本来忌避されるような職業を生業としていることが殆どである。
その一つが解呪師だ。
本来、人々にかけられてしまった呪いを解くのは、教会が専門としていることだった。しかし、正式な教会の神官に解呪を頼むと、それなりの金額がかかる。王国人といっても、誰もが裕福であるというわけではないのだ。
そんなとき、必要とされるのが解呪師だ。多くの庶民は、解呪をするには彼らに依頼することが多い。正式な神官を呼ぶことができるのは、貴族や商人というような金持ちくらいのものである。
解呪師は、己の命を犠牲にすることで、その日その日を生き延びる。ゆえに、解呪師という職業は忌避される。そもそも、長生きできないのが当たり前だ。幸運なことに、自分はまだまだ元気でやれているが。
「…ねぇ、ユーリ」
などと、あまり楽しくもないことを延々と考えていると、出し抜けにセラが口を開いた。
「私、もうすぐ教会の見習いとしての期間が終わるの。そうすれば、正式な神官として、教会に所属することになる」
「へぇ、すごいじゃないか。ようやく一人前の神官になれるっていうわけだね。おめでとう、セラ!」
突然の嬉しい報告に、内心が沸き立つような感覚を得る。自分の祝福の言葉に、小さく“ありがとう”と返してくれたセラは、言葉を続ける。
「…それで、ね。教会で働くことになれば、少ないけれど、お給料も貰えるようになるの。そうすればさ。もうユーリは、こんな仕事を続けなくても、良いんだから、ね…?」
だから、と間において、意を決したように、彼女はそれを口にする。
「だから、もし、そのときは…」
その先を言おうとしたそのとき、顔を上げたセラと目が合った。若干、頬を赤く染めたようにしている彼女と、己の視線が混ざり合う。
「ぁ………」
少しの吐息。言葉なく見つめ合う今は、まるで時が止まったかのように。
綺麗な瞳だ。いつ見てもそう思う。けれど僕は、その美しさを思うたびに、少し後ろめたい気持ちに襲われてしまうのだ。
彼女の言いたいことは分かる。その真意も。いつの日か、口にされるかもしれないその言葉の先に、自分は“否”と答えなければならないだろう。
だって、自分は隷属民なのだから。
「―――――」
そうして、無言で見つめ合う時間がしばらく続いたあと、我に返ったかのように、彼女は目を丸くする。
「い、いや!やっぱり、なんでもない…!なんでもないけど、この話は、また改めてするから…!」
どこか落ち着かない様子の彼女は、慌てるようにして、残りの食事を一気に平らげる。
「え、えーっと、そうだ!やらなきゃいけないことを思い出したから、今日はもう行くね!私がいない間に、あんまり無茶しないでよね、ユーリ」
それだけ言い残し、彼女は風のように立ち去っていってしまった。
「………」
途端に、家の中が静かになったように感じる。あるべきものが欠けてしまったかのような空白。そんなの慣れ切っているはずなのに、今この瞬間だけは、そう思わずにはいられなかった。
「………ふふ」
先ほどのセラの様子を思い出して、くすりと笑う。本当に、彼女は立派な人間に成長した。もはや、彼女を縛るものは存在しない。
夢があり、未来への希望があり、それらを信じることに何の疑念もないような、そんな眩しさを見た。彼女には無限の可能性がある。何にだってなれるだろう。だからこそ、そんな彼女の可能性を妨げてはいけない。
「…ありがとう、セラ」
だから、僕にとっては、その言葉と想いだけで充分だ。たったそれだけで、全てが報われるような、一番の意味があるのだから。
* * *
今より昔。自分は、捨てられた一人の少女と出会った。
その子は王国人の少女だったが、しかし、一つの呪いにかけられていた。
それは「死の呪い」。最強最悪と謳われる、不可避の運命の呪いだった。
少女の呪いは、誰も解くことができなかった。助けられないと悟った少女の両親は、この街を訪れ、そうして彼女を一人置いていったという。
あの日の夜。腐敗する手を、力なく夜空に伸ばそうとする、一人の少女の姿を見た。その瞳は、見つめる夜空と同じく、真っ暗で何も映すことはない。
自分は、彼女を助けることを選んだ。そうやって引き受けた死の呪いは、今この瞬間も己を死滅せんと、身体の内側で脈動している。
どうして、あのとき自分は彼女を助けたのだろう。
別に、珍しい話じゃないだろう。たとえ呪いが原因でなくても、貧しい家の子供が、糊口を凌ぐために捨てられるなどよくあることだ。今に始まったことではなく、ここだけに起きていることでもない。
一人を救うことは、救われなかったそれ以外の全員を見捨てることと同じだ。自己満足の偽善でしかない。彼女一人を救ったところで、何が変わるわけでもないのに。
ならば、どうしてあのとき、自分は彼女を見捨てなかったのだろう。
「……それは、」
それは、きっと。自分が救われたかったからだ。
誰も助けてくれない、どうしようもない毎日。あのときの少女もまた、同じことだ。そんな彼女が救われないのだとすれば、自分もけっして、救われないような気がした。
だからこれは、決して彼女のためではないのだ。自分のため、自分が救われるために、自分は彼女を助けた。利己的で、偽善的で、人に誇ること自体が馬鹿らしいような、嘘に満ちた行為に過ぎない。
だから己は、いずれそのときが来ても、躊躇うことなく彼女に“否”と言えるだろう。何もかもを断って、切り捨てることができる。そんな自分に失望した彼女は、ようやく自由に生きていけるのだ。
それが最善の選択。今の彼女にとって、僕という存在が“呪い”なのだから。
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