第20話 後退

 カール二等兵は右肩に小銃を担いで延々歩いていた。カールの属する中隊は指定の線まで後退すべしとの命に従い陸続と隊列を作り行軍していた。


 隊列は粛々と進む。兵士は消沈していた。消沈、とまではいかなくても重苦しい現実が心にのしかかっていた。


 帝国軍の肉弾、猛攻、嵩む損害、そして繰り返される後退。士気が発揚されるはずもなかった。


 負傷兵はトラックの荷台に積められて隊列の前方をガタガタと揺られている。


 ザクザクと地面を踏み締める音が延々響く。


 「対空警報!」


 誰かが叫びそれが一瞬にして隊列に広まる。誰も彼もが訓練通りに「対空警報」と叫び隊列は散開。


 カールは戦友共々、左手にあった林に我先に駆け込んだ。木々が敵機から我々を遮ってくれる。


 どれほどの気休めになるかわからないが、太い幹の敵機の来襲方向の反対側に隠れた。物理的には敵機からは枝葉が邪魔してカールの姿は見えないが、それでも機銃を掃射してくることは考えられる。


 視界から消えるとは言え物理的にはそこに存在しているし、カール以外を狙った流れ弾もあるやも。それから単に大勢が逃げ込んでいるのだから適当に撃っても当たるかも、と考えるのは普通のこと。


 カールは木陰にじっと潜んだ。獣が吠えるみたいに敵機のエンジン音が大きく響き、機銃を掃射音が耳に鋭く突き刺さる。


 機銃弾の擦過音、幹を貫き、地面にめり込む恐怖の音。


 敵機が頭上を通過する爆音。凄まじい風圧にに草木がぐ。


 遠吠えのようなエンジンの残響を残して敵機は去っていった。


 そろそろと街道に戻る。分隊、小隊長である軍曹や少尉が自隊の掌握に努め、誰かが「衛生兵!」

と叫んでいる。


 真に英雄的な行為があったのはこの時だ。空襲時、隊列先頭のトラックに満載された負傷兵の大部分は逃げることができなかった。トラックは精々林の縁に止められた程度。多少は枝葉で遮られるものの、敵機からは絶好の的に見えた。


 銃撃され炎上するトラック。荷台の負傷兵は何人かは銃撃で死んだが何人かは生きていた。エンジンからの炎は車体、荷台の幌を伝い素早くトラックを包み込んだ。


 ハンス・イェッケルン一等兵は誠の戦友愛を持って炎に巻かれたトラックに臆せず飛び込んだ。自身も火傷を負いながらこのトラックから負傷し動けないでいた負傷兵を救い出したのだ。


 この類稀な戦友愛の発露とその功績を認められハンス一等兵は叙勲じょくんされるに至った。


 この光景は中隊全員を励ました。示された勇気に全員が奮い立った。自分にもまた彼のような勇気があるに違いなく、また彼のように行動できるに違いないと励起された。


 中隊は指定の地点まで到達、現在地での防御命令を受領した。

 

 小隊長をはじめ指揮官級が命令を受領している間にカールなど兵卒は給食を受けた。


 撤退中という事情でメニューはあまりよろしくない。


 撤退する時、真っ先に後退するのは足の遅い後方部隊だ。具体的には砲兵や輜重しちょう


 榴弾砲といった重機材は、迅速な行動が望まれる撤退行ではどうしても足を引っ張る。そのため前線部隊に先んじて下げておく。


 敵の追撃から逃れるには身軽になるに越したことはない。


 輜重は後退時、後から後退してくる部隊のために街道に必要な物資を残置していく。


 野戦炊事車は兵に温食を提供するに欠かせない機材だが、やはり大多数は予め後退していた。


 中隊に配布されたのは肉の缶詰、スープの缶詰とパン、ラード。


 銃剣で缶をこじ開けようとすると軍曹に制止された。


 「あー待て待て、それあっためるから」


 「はぁ……」


 カールは戸惑う。あっためる、と言われてもどうやって?野戦炊事車等は無い。


 この軍曹は軍歴が15年を越える古参の古強者。カールとは応集されてからの付き合いだから数ヶ月の付き合い。


 国防軍の万事に精通していて、役回りとしては小隊のおっ母、という感じ。


 その軍曹がどうやって缶詰を温めるのかとカールが注視していると二等兵2人が古びたドラム缶を持ってきた。錆びていて本来の半分程度の高さしかない。


 中からチャプチャプと音がする。近くの川から水を汲んできたらしい。


 軍曹は慣れた手つきで火を起こすと沸騰した水の中に一個分隊分の缶詰を入れた。軍曹の支持の元、小隊全員分のスープの缶詰が温められる。さすがに他の缶詰まで加熱する余裕は無かった。


 温かさが五臓六腑に染み渡る。ともすれば栄養補給になりがちな軍隊飯ではなく、しっかりとした食事、文明的なものに感じる。


 トマト風味のスープ。パプリカもひとつまみ程度。小指の先程度の大きさの牛肉とじゃがいもがごろごろと。


 ふと脳裏をよぎるのは妻の味。妻の場合はもう少しパプリカの味が強くて、あと胡椒やらハーブやらが効いていた。もっとも、料理に疎い自分では一々ハーブや香料だのなんてのは知らないのだが。


 しかし妻は元気だろうか?


 カールは二等兵ではなく、カール・シュルツマン個人に戻っていた。


 家は綺麗に清掃されてるだろうか?妻はこまめに清掃する性質だからたぶん綺麗だろう。俺の部屋も変わらずかな?いかんせん応集までに綺麗さっぱり整頓することは叶わなかった。


 あとは……。妻も寂しがっていないだろうか。


 胸ポケットから油脂に包まれた一葉の写真を取り出した。結婚式のあとしばらくして撮影した2人のだ。


 確か式から1ヶ月は経っていたか。おかげで妙に肩張ることもなく自然体の2人で写っている。


 写真の中で妻は優しく微笑んでいる。妻は非力ゆえ中々危なっかしいところがあって、特に重量物の移動が苦手だ。新居に引っ越して荷解きの最中に危うく花瓶を頭に落とされるところだった。


 一緒に住んでいた時は俺がやれば良かったが今は家に1人。どうにも気掛かりだ。


 食事を摂り終えた。無機質な兵士ではなく1人の人間に戻れた気がした。


 そして心の内から抗戦意欲が湧き上がる。銃を執り、もって断固として妻を守るのだ。

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