59

「桃香ちゃん、ごめん」


 名前を聞かれた時のことを思い出す。

『救世主様の名前を聞いても?』

 手を怪我した時、隠していたのに、バレて、心配されたことを思い出す。

『これ、どうしました。一体誰が』

 面倒事を持ち込んでいるのは竜日なのに、戦いにくいのは自分のせいだと笑っていたことを思い出す。『つまりね。今リューカさんが苦しいのは俺のせいです』

 思い出す。

『すみません』

 謝られて、ひどく悲しい気持ちになったことを思い出す。


『そう、大丈夫なんです!』


 震えるからだと声で、そう言って、前向きな言葉を選んでくれた。


「私……」


 信じてくれていた。協力は惜しみなく、竜日はとうとう、あの世界で不自由をしたことがない。


「私、ごめん、自分の為に、最人を帰らせようとしてる」


 ちょっと命を救ったくらいで、返してもらってもいいあたたかさではない。


「それはどうして?」

「約束」


 胸の中に輝いて、積もり積もっていたものを見つけて、徐々に落ち着いてきた。


「約束?」


 桃香はハンカチを取り出し、竜日の目の下にあてる。


「それも違う。約束を、守ってくれたのが嬉しかった。あの港が。町のみんなが。いや、それも違う。最初はそうだった、でも今は、今はね、桃香ちゃん」

「もういいわ」


 人前で泣くのはいつぶりだろうか。散々振り回してきた、ジャカという男がいる。派手なシャツ。大きな身体、いつも少しだけ後ろで立ち止まっていると隣に来て。「なにか心配なことでも?」と笑う。


「もういいのよ」


 桃香は竜日を抱きしめていた。


「運命の出会いがあったのね」


 強く抱きしめられた後、ゆっくりと体を離す。竜日も、桃香も。涙を流していた。


「その人のことが、大好きなのね」

「うん」

「よかった」


 もう一度、お互いの背に腕を回す。


「よかったわね、竜日」


 涙は止まらない。止まらないが、桃香はいつもの調子で胸を張った。


「仕方がないから、最人が帰ってきたらちゃんと面倒を見て差し上げるわ」


 帰らなければいけない。やらなければならないことがある。――今、無性に会いたい人がいる。

 竜日と桃香は向かい合って笑う。お互いに目が潤んで、赤くなっている。


「ごめん。じゃあ、私」

「ええ」


 竜日は一度俯いて桃香から視線を外し、それから言う。


「――元気で」

「竜日も、元気でね」


 きっともう会えない。また会いたい。さよならとは言いたくない。離れていても、友人をやめるわけではない。いろいろな感情を込めて背を向けた。

 桃香とは、反対の方向に歩き出す。

 竜日の正面に先ほどの子どもが立ち塞がる。涙を流して、両手を広げ、頭を左右に振っている。


「……ごめん」


 こういう時は、誰にも遠慮してはいけないのだと、桃香に習った。


「桃香ちゃんに会わせてくれて、ありがとう」


 子供は突然、竜日に飛び掛かった。竜日は背中を床に打つ。小さな手で竜日の首を押さえる。

 金色の、丸い、キレイな目に涙が溜まっていた。「ごめん」竜日は言うが、彼女の力が弱まることはない。

 白い空間は、黒くなって崩れていく。

 彼女の後ろまで完全に真っ暗になると、なにも見えなくなった。

 突然空中に投げ出されるような浮遊感。


「――死んじゃえ」

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