才能とはなんぞや
まあまあ私も大層普遍的な生活を送ってきたもので。大成功と言えるような結果を収めたわけでもなければ、大失敗をしたことも無く。無難な生活、を選択してきたものでね。
基本的に私は運は悪い方だとは思うのだけれども、肝心な時にはそのマイナス分を支払っているのか、なんなのか、運が味方してくれる。
某デスゲームの初代に出てくる超高校級の幸運のような幸運なわけだ。最悪な状況は回避する、みたいなね。二作品目の幸運タイプじゃなくて良かった。
その最たる例が受験。以前話したけれども、私は4日受けて1日を運良く受かっているのでね。ちなみに、という話をすると、もうワンランク下の大学は落ちている。本当に運が味方してくれた。
というわけで、だ。最悪の状況は回避するタイプの運なものだから、夢は自分で努力して、才能掴んでどうにかするしかないわけだ。だって夢は叶わなくても生きていけるものな。大学は、落ちたら浪人だったし、もっとも、浪人したって生きていけるのだけれども。両親との話では、浪人すると大学の費用は全部私もちになる、ということだったから、今よりも相当苦しんでいたとは思う。本気で言っていたのかはさておき。
でもよぉ、才能ってなんだ?
いきなりとてつもなくフランクに疑問を投げかけてしまったが、やはりこういうものは永遠のテーマたるものだと思う。
「諦めないことも才能」
「ギフテッド」
「努力の才能」
「天才」
人間と言うのはこういう、「努力」と「才能」を振り分けた上で、「努力」の中でまた才能のある無いを分けたがるわけだけれども。私はいやいや、と思ってしまうわけだ。
そりゃあもちろん、言い聞かせるには十分だと思う。私は生徒に、「諦めなければ力がつく」「努力も才能」と言う。勉強をするにあたって、我々一般人は努力する以外の道はないのだから、追いつきたいなら、置いていきたいなら、勉強をしなさいと。もし別の道を進みたいのだとしても。
私は才能自体は始めた初期から開花するものだと思っている。ピアノやバレエやというのは、幼少期に結果で花咲いた方たちが大人になっても続けていくイメージが強い。
他にも、小学生で英検何級を取得しましただとか、高校数学まで出来ますだとか、そんなものはいかにも才能だと思う。英才教育の結果云々はもちろんあるのだろうが、できない人はできない。芽に水をやるから花が咲くのであって、おもちゃに水をやったところで花は咲かない。
これは何も芽吹かなかった人に才能がないと言っているわけではない。綺麗事の極のように思えるかもしれないが、万人に才能はある。ただ、見つけられるか見つけられないか、というだけの話だ。
その点勉学の才能は発見しやすい。2歳で漢字が読めるようになったんですとか、国の国旗と名前を覚えて、とか、日本人は万人が触れるものだからこそ、勉学の才能は発見しやすい。
次に発見しやすいのは美術系とスポーツだろう。絵、音楽、工芸、スポーツ。これらは全て、小学校で副教科として学ぶものだ。スポーツは身近にクラブがあって、という場合が多いとは思うが、発見するにあたってこんなにも最適な場所は無い。
そういう意味では、私は音楽以外の美術系の才能は皆無だったし、体育系なんか全くだった。まずまず興味すらもてなかった。
ちなみに、学校の勉強において「こんなの必要ない」という人に釘をさしておくが、元来それを学ぶ意味は、「興味を持つ人」をすくい上げるためにあるのだ。受験として全部必要、みたいな形式になっているからかすみがちだけれども、別に興味のないものは興味が無い、で本来は構わない。社会やら理科やらの、教養だけは入れておいた方がいいが。
だから、私はある程度成績が取れるようにだけして、中高でもまともに美術系や体育系はやらなかった。音楽系も、中学の最初は吹奏楽部に入ったが、あまりにも先輩と反りが合わなくて、半年も経たずにやめた。根性がないと批判するのもいるかもしれないが、私はハナから自分に合わないことはやらない性分だ。勉学は割と性にはあっていたのだろう。そう考えると。
まあ、勉強もまともにやっていたかと言われると微妙なところだが。一応、評定平均は5マックスで4は超えていた。テスト前に詰め込むタイプだったので、暗記が苦手だろうが乗り切れた。その変わり、テストを終えたらほぼ全部忘却の彼方だった。まぁこれが、「ある程度成績だけは取れるようにしていた」というやつである。
私は自分が非常に大事なので、余計な分野で自分が傷つくようなことはしたくない。基本自分が弱いので、逃げるという選択肢があるのなら迷わず逃げる選択肢を選ぶ。それはきっと批判されるべき性質なのかもしれないが、持っておいて悪くは無い性質であるとも思う。まぁ、逃げられる方法を探してもいたから、そこはやはり自分の相当弱い部分だとも思う。
自分のそうした性質を、私はよく知っている。自己保身に走る方だけれども、特別弱点を晒すことにそこまでの抵抗感はないのだ。自分の欠点を見つめること自体はそこまで苦ではないし、なんなら今も別に欠点を克服できているかと言われると出来ていない気もしている。やらなければならないことはやる。やらなくてもいいことはできる限りやらない。
とはいいつつも、できるだけのことはやった。死ぬ気でやったかどうかは分からないが、少なくとも及第点は取れるくらいまではやった。社会は嫌だ、苦手だ、英語は嫌だ、とさんざ打った高校生活だったが、高三の秋にはテストの学年順位は1年前と比べて100位以上上がって、上位10パーセントには入り込んでいた。自分の苦手を把握していたからこそ友人やら両親にはすごく言い訳したが、本当に言い訳にならないようにはした。
ここで皆々様に問いたいのだが、皆々様はこれを才能と呼ぶだろうか。
私は教えている身だから知っている。私よりもきっともっと勉強している人がいる。けれど、私よりも勉学において結果を残せていない人もいる。
私は数学が好きだった。だから、文系の他の人たちとはだいぶ差をつけられた。じゃあ私は数学の才能があるか?
才能というのは、所詮は相対的評価のひとつに過ぎない。ある分野において、ある程度の成績を残せたら、人はそれを才能と呼ぶ。結局のところ、能力の有無ではなく、結果が出ればそれは才能だし、結果が出なければ才能ではないのだ。じゃあ、何位までに才能という言葉を付与する?才能という言葉を与えられなかった人と、与えられた人との境目は?
努力の天才だって、結果が出たから言われるのだ。結果が出なければ、ただの努力しただけの人だ。その努力量は、もしかすると成功した人の数十倍かもしれないが。
こう考えたら、才能という言葉はなんと安っぽいものだろうと思う。
人間、思いもよらぬところで評価されたりするものだし、あまり才能にこだわりすぎるのも馬鹿な話だ。
才能を1番阻害するものはプライドであるから、「私は才能がある」という仮初のプライドはさっさと捨てた。結果が出ないということは才能がないのだ。周りのセンスがないわけじゃない。方法を変えてチャレンジするのが、結局1番早いように思える。
才能のない私へ 干月 @conanodo
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