趣味と義務

 私は友人が少ない。中学の時の友人の連絡先は1人しか持っていない(持ってはいるが、連絡を取るのは1人だけ)し、高校の時なんて3年間で9人しか友人を作らなかった。1学年360人のうちの、9人だ。大学でも友人が多い方とは口が裂けても言えない。が、まあ話す友達はいる。


 友人が少ないことについて負の感情を抱いているかと言われたら、まあ、ない。交友関係が広いことが全てでは無いし、合わない人と付き合っていたところで疲れるだけだ。人と話すこと好きだが、そこに人の量は伴わない。

 友人は少ない方だが、プレゼンテーションが得意だと話したように、前に立つのは別に苦手ではない。中学のときも、高校のときも、大学でも、好んで学年全員の前に立って発表した。自己顕示欲はそこそこ強いのだ。


 友人が少ないので、休日友人と遊びに行く、ということがあまりない。サークルにも入ってないから、必然的にバイトに入るか、家でゴロゴロするか、1人で外に出かけるかの3択になる。

 バイトに入らなければ、家でただゴロゴロしている時間が多くなる。アウトドア派ではないので。春か秋なら散歩にでも行くのだけれど、昨今は外に出るには気温が極端すぎる。

 家でゴロゴロと言っても、本当に寝るかと言われるとまた違う。いや、寝る時もあるのだが。それは例えば、動画を見ながらゲームをしたり(詳しくは前回参照だが、単に動画だけを見ることや、単にゲームだけすることが苦手なのだ)、ニードルフェルトをしたり、コラージュをしたり、レジンで遊んだり、勉強をしたり、割と様々である。その日の気分によって何をするか決める。

 色々と列挙したが、結局のところいちばん多いのは、文を書くことだろう。文であればなんでもいい。小説でも、エッセイでも、短歌でも、詩でも、レポートでも。結局何かを考えて思いついて、文字に起こして残すという行為が好きなのだ。


 ようやっと本題に入るが、私がこうした執筆作業を趣味にし始めて、もう8年ほどになる。中学時代から何となく続けていたことが、こうして今も続いているだなんて、当時の私は思わなかったことだろう。私の苦手なことの1つに継続があるのは、例え中学生であったとしても、自覚していたはずである。

 小学校の卒業のとき、将来の夢を書いて、宣言した記憶がある。その時私は確か、「小説家になりたい」と言っていた。小学生の頃はコロコロと将来の夢が変わっていた記憶があるのだけれども、結局今も、その夢は具体性こそ持てど、変化はしていない。


 初めて小説を書き始めてから、毎日なにか数文字でも、文章を書いていた。例えそれがどんなに稚拙で、今見たら羞恥で悶えそうになるものでも、確かに書いていた。修学旅行でスマホを持っていけなかった日は、流石に書いていなかったとは思うが。


 書き始めてからから数年経って、私は今の文章と、過去(中学3年)の文章を見比べてみた。

 はっきり言って、文体に変化はあまり見られなかった。当時から既にできあがっていたのか、はたまた今もまだ成長していないのかは正直分からない。それ以前の文章はシンプルに酷かった。3行で見るのを辞めたくなって、6行でブラウザを閉じた。あれは見るものじゃない。


 何が当時と変わったかと言うと、文章量である。

 読めた文かどうかはさておき、きちんとした地の文のある小説で比較すると、中2時で1000、中3時で8000字、高2で70000字、大1で100000字である。これは当時かけた限界字数だ。あれだけ苦労していた1万字も、今となっては削らなければならない1万字になった。1万字も削れるか、という苛立ちもあるが、その感慨深さたるや。


 小説を書き切れるのは才能だ、という話がある。それには同感だ。書ききることの難しさは身に染みて体感している。未完のままメモ帳に残っている作品なんてごまんとある。データごとさようならした作品を足せば、もう。

 どこにもあげる予定のない、ただの自己満足でしかない小説はそういう傾向になりやすい。反対に、どこかにあげようと思って書き始めたやつは6割程度完成まで持っていっている。見切り発車で書き始めたものはまず完成しない。長編想定なら尚更だ。完成させるには、まずゴールをせいぜい1万字前後に設定すべきだ。


 私はどうにも風呂敷を広げすぎる節があるらしく、そのせいでいつも苦しんでいる。だから今回は要素を限界まで絞っているが、結局欲張りだから、コメダのシロノワールのごとく、とんでもない量をお出ししてしまう可能性はある。まあ食べたことないし行ったこともないが。

 

 ここまで書いておいてなんだが、私は自分に才能があるとは微塵も思っていない。二次創作はある程度評価を貰えている作品もあるのだが、それは小説に評価を貰えているのか、はたまた解釈一致や、それに付随する何かについているのかは判断し兼ねる。マイナージャンルで活動していたため、少ない書き手に評価が集まるのは当然の話だ。評価が分散しないのだから。とはいえ評価が貰えるのは純粋に嬉しいので、特段卑下するつもりもない。ある程度の評価は貰えている。

 

 ではなぜ才能がないというのかと言うと、まあそう思っておいた方が努力できるよな、と思っているからだ。実際にあるのか、ないのか、というのはどうでもいいのだ。というか、はっきりないと自覚したら最後、心が折れる気すらしている。

 私がはっきりと持っているのは、執筆が好きで、故に執筆に注いでいる熱量である。私は基本、「小説を書くことが好き」だと口にするが、才能の有無には一切触れない。文章量をかけることに関しては、「長年やってりゃできるようになる」ということ以外は何も言わない。文章の自然、不自然については、センス云々ではなく国語の問題なので、読める文章が書けるからと言って評価を下されるべきでは無い、と、私は思っている。読めないよりは読めた方がいいのには違いないが。評論を書くつもりはないので、皆々様は個々人の評価軸で作品を楽しんだらいいと思う。読みやすさだって、もちろん大事。私があまり好まないと言うだけ。私が好まない文体でも、皆々様が高評価をくださるのであれば、それは価値のあるものだと考えている。矛盾しているようだけれどもね。


 そういうわけなので、何事においても、あまり過剰な自信は持たないようにはしている。私の性質上、自信は油断となり、油断は努力を怠らせる。好きなものに対しての才能がないのなら、熱量で上回るべきだという思想は持ち合わせているから、熱量を継続させるには、「私は才能がない」と思うことも、大切なのである。

 まぁでも、それで自信を完全になくしてしまったら元も子もないから、皆々様は自分の性格に合わせてマインドを変えるのよ。私は何も本気で「全く文才がない」と思っているわけではないからね。

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