私の居た極小の世界

桜辺幸一

私の居た極小の世界


「私、天使なんです。」


 少女はそう言った。


 一週間前の話だ。俺が仕事を終えて部屋に戻ると、そこには見知らぬ少女が居た。

売春婦か、さもなくば商売敵かとも思ったがどうも違う。目の覚める様な金色の長髪に、今時は子供でも着ない白のワンピース。齢はまだ成人に達していないだろう。にしては彼女は無垢で、純粋で、無害で、そしてひたすらに可憐だった。

 しかも、自称天使。こりゃあ頭のおかしい人間に絡まれたと、その日は追い出したが、次の日になると彼女はまた俺の部屋に戻ってくる。次の日も、次の日も同じことの繰り返し。ヤケになって部屋の入口にトラップを仕掛けても効果がない。俺は音を上げて、もう彼女が居ても何も言わなくなった。



「ふざけてる。」


 そう毒づきながら、現実に意識を戻す。手にはずしりとしたライフルの重さが乗っている。

 さて、仕事の時間だ。スコープに刻まれた十字の中心には、すでにターゲットの顔が映っている。ターゲットは家族と談笑中だ。完全な無防備。人間らしい笑顔。

 俺は引き金を引く。くぐもった銃声。ターゲットが倒れる。慣れ親しんだ定形作業ルーティーンワーク


「っ・・・・・・ゲホッ!」


 だが、俺はスコープから目を外すと、胃の中のものを全て吐き出した。

 仕事の後はいつもそうだ。何のことは無い。俺はこんな仕事をしているにもかかわらず、まだ人間を殺す事に抵抗を感じている。もうただのと言っていいくらい繰り返したことなのに、それでも。

 以前、同業者に言われたことがある。「お前はこの仕事に向いてない」と。

 ああ、本当にごもっとも。



「おかえりなさい。」


部屋に戻ると、また自称天使様が居た。

 少女は、俺を見るなり立ち上がると、キッチンでコーヒーを煎れてカップを二つ持って来る。既に勝手知ったるなんとやら、だ。

 彼女はカップを俺に手渡して言う。


「疲れてるみたいですけど大丈夫ですか?」


 俺は、片手を払うようにして「気にするな」と伝える。


 「あまり、ご無理はなさらぬよう……。お仕事が大変なようでしたら、転職も考えた方が良いですよ?」


 転職という、あまりに平和な単語に、一瞬言葉に詰まる。けれど、答えは決まっている。


「……無理だ。」


 その短い答えに、しかし少女は何も言い返さなかった。

 そうだ。俺にはこれしかない。子供のころから俺はこうなるべく育てられたし、そもそもそれ以外の生き方を知らない。

 嫌なら止めればいい、と他人は言う。けれどそれは他の選択肢を持つ――他の選択肢を持つことを許された、恵まれた人間の戯言だ。


 俺は、次の日も引き金を引いた。


 少女は、コーヒーを淹れた。


 俺は、次に日も引き金を引く。


 少女はコーヒーを淹れる。


 俺は、引き金を引く。


 少女はコーヒーを淹れる。


 俺は、俺の世界にゲロをぶちまける。



 そしてある日、ついに。俺は仕事でしくじった。



 敵に追い詰められ、銃を突きつけられる。


「――。」


 銃声。あまりにあっけない。死を確信する。

 ……だが、痛みはいつまで経ってもやってこない。恐る恐る目を開けると、目の前にはあの少女が居た。俺を撃った男は傍らで気絶している。


「いったい、何が――」


 そう呟いた俺の目に、赤色が飛び込んでくる。真っ白なワンピースを染め上げる、赤。腹部に広がる、血の色彩。あの銃声。彼女が俺をかばったのだと悟る。


「お前、それ、」


 震える手で、その腹部に触れようとする。

 が、奇妙なことに。触れようとした赤色は、蒸発するように見る見るうちに薄くなり、やがて元の真っ白な布地が顕になる。

 その光景を見て絶句する俺。そんな俺の反応を見て、少女は困ったように笑った。


「さ、お家に戻りましょう。」


 そしてそれだけ言って、彼女は俺の手を引いた。




「実は私、天使としてあなたの魂を引き取りに来たんです。」


 俺の部屋に戻ると、少女はそう告白した。


「今日、あなたは死ぬはずでした。」


 そんなことを言われても、実感など持てるはずもない。けれど、彼女が人間ではなく、俺が今日死にかけたことだけは確かだった。


「でも、駄目ですね。あなたが撃たれる瞬間、無意識に体が動いてしまって。……私、天使に向いてないってよく言われるんです。天使の仕事は魂を運ぶだけなのに、私は人間に感情移入しちゃうから。」


 そう語る少女の苦笑には、ひどく見覚えがあった。初めて見る表情なのに、まるで毎日見ているような。いや、あるいは物心ついた時から見続けて来たような。


「……。」


 俺は無言で立ち上がると、キッチンに向かう。そしてコーヒーを淹れ、2つのカップにそれぞれ注ぐ。


「ほらよ。」


 片方を天使に手渡して、コツンとカップを合わせる。天使は初めキョトンとしていたが、今度こそ真に微笑んで、それを受け入れた。

 カップを持つ俺の手は既に血の幻覚に汚れている。口を付ければコーヒーはたちまち血と汚物の味に染まるだろう。

 だから、この瞬間。合わせたカップの中だけが、俺達に許された極小の人間らしさせかいだ。

 明日には終わるかもしれない運命。それはきっと不幸で無意味でグロテスクなものに違いない。けれど、何もかもが終わって、いずれ無意味になるとしても。この世界だけは、澱み無いものとして最後まで――。

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