夏にようかん

もるげんれえて

夏にようかん

 その夏はいつもと違う夏だったことを覚えている。

 小学校に上がった直後くらいだと思うが自信はない。確かなのはその年、私は両親の許を離れて父方の実家に預けられたということだ。

 なぜ両親と離れ離れになったのかは分からなかった。子供心に聞いてはいけない事情があるということは察していた。それよりも、普段とは違う環境に送り届けられる車内で、窓の向こうの景色がどんどん変わっていくことに心を奪われていたし、時たま会いに来る祖父や祖母の優しい顔と声と、美味しいお菓子やおもちゃに期待していた。母に「寂しいけどごめんね」と言われたが、これからの自由な生活に胸を躍らせていることを悟られないように必死だった。

 そうして私は夏休みの一ヶ月、東北の田舎で過ごすことになった。


 到着した私を祖父母はこれでもかと歓待した。預けた翌日には両親は帰った。その日一日は自由に過ごし、翌日からは祖父母の日常に参加した。二人は広い畑を持っており、最初の数日は畑作業を手伝った。祖父母は孫が手伝ってくれたことがうれしかったようだが、どうも私の性には合わなかった。それ以降はたまに顔を出しては「宿題がある」と言って一人で家に戻り、だんだん手伝うこともしなくなった。残念なことに家にはエアコンが設置されていなかったので、扇風機に当たりながらのんびりと過ごした。祖父母も孫には甘く、畑仕事に行かなくても何か言うことはなかった。

 ここに来たときは親の居ない自由さ、甘やかしてくれる祖父母と美味しい食事に満足していたが、娯楽がなければすぐに飽きるのが子供というもの。暇すぎて宿題をすこし進めてはごろりと寝転がり、夕方まで昼寝をするのが日課になっていた。

 祖父母の家に移ってから一週間くらいたったころ。その日もいつものようにゴロゴロと読書感想文のために読んでいた「エルマーと竜」を畳に広げながら瞼の重さを感じていた。

 縁側まで窓は開けっぱなしで、少しでも風を取り込もうとしていた。暖められたぬるい空気と扇風機からの風が体をとろかせるような心地にさせていた。まどろみの中、何回も同じ文字列を行ったり来たりしていた。

 冷ややかな風を感じた。夏に時たま吹く、心地よい風だ。

 気持ちいいなあ、と本から顔を背けてそっと横になった。うっすらした視界が縁側を向いた。

 その縁側に見覚えのない、赤い何かが座っていた。

 なんだろう、とおぼつかない視界の中でそれを見ていた。

 焦点がゆっくりと定まっていく。どうやら、誰かが座っているようだった。

 この家の近くには子供はいない。ではそこにいるのは誰だろうか、と体を起こした。

「あら?」

 その姿は自分へ振り向いた。綺麗な黒い目が自分を見ていた。

 年齢は自分と同じか少し上くらいの少女だった。赤いワンピースはバラのような赤というよりは梅やツバキのような淡い紅色で、夏の暑い日差しの中でも目に優しかった。風が肩まで伸びていたポニーテールを柔らかく躍らせた。

「起こしちゃった?」

 自分をいたわるように、少女は微笑んだ。初めて会う素性も知らない少女だというのに、私の中の警戒心はまだ寝ていた。

「ううん。大丈夫」

「ならよかった」

 今度は本当に微笑んだ。その笑顔は愛らしく、そして久しぶりの同年代の笑顔に自分は好奇心がまさった。

「君は?」

「私は、たまにこの辺りで遊んでいるのよ。昔から。どうも最近、初めて見る子がいるっていうから見に来たの」

 ちょっと遠いところにいるのだろうか。今思えば妙な言葉選びだと思うが、当時の私はとにかく遊び相手がいることが嬉しくてたまらなかった。畳を滑って縁側に座る彼女の横に向かった。

「そうなんだ。暇だったから、うれしいな」

「私も。ちょうど遊び相手が欲しかったのよ」

 彼女が誰かなどどうでもよかった。今大事なのは何をして遊ぶか、彼女はどんな遊びが好きなのか、それだけだ。そしてそれは彼女も同じだった。

 額を突き合わせるように向き合い、二人してにやりと笑う。

「ねえ、この辺りを歩いたことはある?」

 ブンブンと首を振る。見知らぬ土地を自由に歩き回る度胸のなかった私の行動範囲は、家と畑くらいだ。

 好都合、と彼女の唇が意地悪っぽく端を吊り上がった。

「じゃあ、冒険しましょう」

 そんな言葉を聞いた少年の出す答えは、一つしかなかった。


 これまでの暇な日々とは変わって、私は少女と遊び尽くした。

 決まって彼女が現れるのは祖父母の居ない時で、抜け出して遊ぶには好都合だった。まあ、川や山で遊んだあとは汚れているから祖父母も気づいていただろうが、その辺りは田舎だからか、とやかく言われることはなかった。

 私たちはとにかく遊んだ。近くにあった山を登り、駆け巡るだけで発見と驚きの興奮で胸が躍る。地元に住んでいる彼女は「この花はなになにという花だよ」とか「この虫はこういう面白い習性があるんだよ」とか、いろいろ教えてくれた。一緒に川に入り、魚を捕まえようとして躍起になったこともあった。

 雨の日にも祖父母が居なければ彼女は現れた。そういう時はどこかに遊びに行くではなく、この家にあるもので遊ぶことが多かった。あまり興味はなかったが、彼女がいくつかの折紙を教えてくれた。白く細い指が撫でるだけで、無機質な紙がツルやカエルなどへと変わっていった。必死に覚えたけれど、私には難しくて折紙は歪んでしまった。

 ふてくされる私に彼女はくすっと笑いながら、「ゆっくりやるんだよ」とその手を私の手に重ねて、折り方を教えてくれた。幼心に、彼女の手のぬくもりに胸を熱くした。肩が触れ合うような距離で、雨の湿度が彼女の吐息を伝えてくれた。

 そうやって私は彼女からいろいろな遊びを教わった。代わりに、というわけではなく単に一緒に食べたいから、居間にあったお菓子をくすねて持って行っていた。お歳暮、というものを知らなかったが、何故かたくさんお菓子があるのは知っていた。焼き菓子もおいしかったが、ゼリーや水羊羹は格別だった。それまでケーキやらクッキー、それにポテトチップスのようなジャンキーなお菓子しか食べてこなかった私にとって、水羊羹の素朴で柔らかな甘みは、夏の暑さも相まって体にしみた。つるりとしたのどごしに、彼女も目を細め、「おいしいね」と笑うのだった。あれ以来、私の好物の一つになった羊羹を親にせびるたび、「渋いわね」と笑われたものだ。

 そうやって、私たちは時間を過ごした。何事もなく、楽しく、いつまでも続くような日々は、それでもいつかは終わりを迎えるのだった。


 一ヶ月という時間は、私たちにとって短かった。少しずつ迫ってきた夏の終わりに目を背けていても、結局はこの日を迎えるのだった。

「明日、帰っちゃうんだ」

 彼女はいつもの紅色のワンピースを着て、ほっそりとした白い足をぶらぶらと投げ出していた。呟いた言葉は私にではなく、どこかに投げたようだった。川岸の石に座って、自分は「うん」としか答えられなかった。

「そうなんだ」

 淡々とした言い方で、思ったより残念そうにしないな、と彼女の横顔を見た。オレンジ色に染まり始めた入道雲を見ている彼女の目と頬もまた、オレンジ色に染まっていた。そこから表情は感じ取れなかったけれど、何かを諦めているのだろう、と後になって思った。

 川の流れは変わらず、夕焼けにキラキラと反射していた。川辺の涼しさに汗はひいていたけれど、腹の奥の方がずんと重かった。

「そっかあ」

 呟いた声は川の音に流されそうだった。彼女を見るのが怖くて、うつむいた。

 また会えるだろうか。両祖父母の家に来ることはそんなに多くはないが、来年とかに会えないだろうか。そんな先の分からないことを、口にすることは自分にはできなかった。

 ふと振り向くと、彼女が私に微笑んでいた。年上のような微笑みだけれど、子供のような幼さはない。なんだか薄気味悪い感じもあったけれど、不思議と嫌じゃなかった。

「また会えるよ」

 そう言って彼女は笑った。ポニーテールが風に踊っていた。


 長くて短い一ヶ月が終わり、私はまた両親と暮らし始めた。出ていったときとは変わらない家と生活が待っていて、残った宿題を終わらせると、また変わりない学校生活が始まった。

 いつもの生活が始まるとあの夏のことはだんだんと忘れていった。ただ、彼女のことだけが心のどこかにかさぶたのような、ザラザラとした質感で残っていた。

 再び私が祖父母の家に行くことになったのはそれから数年後で、あの夏のこともほとんどが家に着くまでは忘れていた。数日だけの滞在だったが、また会えるかも、と暇を見つけては彼女と遊んだ足跡を辿った。が、彼女には会えなかった。それから何度か祖父母の家に行くことはあったが、結局再び会うことはなかった。

 一度だけ、そのことを両親に聞いたことがあった。その話を聞くと親はぎょっとして「あの家の周りには同世代の子供はいなかった」と答えた。

 だんだんと彼女は自分が生み出した幻影だったのではないか、いわゆるイマジナリーフレンドというものではないか、と疑うようになった。けれど、あの時、私は確かに水羊羹を二つ持って行ったし、折紙は二つ分残っていたはずだった。

 そうして、当然のように時は過ぎ、いつしかその思い出そのものも忘れていった。


「ここがあなたのおじいさんたちの家ね」

 妻が車から荷物を降ろしながら聞いてきた。思ったよりぼろい、と言いたいのか、それとも案外いい家だと言いたいのか、判断はできなかった。

 そうだ、と答えながら私は息子に子供用リュックを渡した。一緒に荷下ろしをしている気分なのか、得意げに鼻を膨らませた。

 十数年ぶりに帰ってきた祖父母の家は、思い出よりもずっと小さくて、時間の流れにさらされていた。まだ健在の祖父母がゆっくりと玄関から出てきた。こちらも随分と年を重ねていた。祖父に至っては認知症が進み、そろそろ入所を検討しているとのことだ。

 この帰省はただの旅行だけではなく、祖父母の様子を見ることと家が傷んでいないかなどを確認するためでもあった。最終的には家と畑が祖父母の手を離れていくから、誰かがこの家を保全するか、あるいは売り払わなければならないからだ。

 とはいえそれはすぐの話ではない。今回はその下見だし、何より私の息子を会わせることが目的でもあった。曾孫に会うことを楽しみにしていた祖父母は息子が駆け寄るのを見て、ニコニコとあれやこれやと声をかけ、家の中に上がらせ、お菓子をこれでもかと授けていた。私でもここまではされたことはなかったと思う。

 荷物を家に入れ終えると、祖父母の拘束から逃れた息子が、遊びに行っていいかと聞いてきた。夕方に帰ってくること、遠くに行かないこと、と伝えると彼は帽子をかぶり飛び出していった。

 その間に祖父母と話し、家を見て回った。小さい、とは思ったが田舎特有の広さがあり、幼いことの記憶とつじつまを合わせるのに苦労した。納屋なども見て回ったら夕方になっており、畑は明日に見に行くことにした。

 息子の帰宅は遅く、夕食直前だった。靴も服も汚れており、おそらく近くの山にでも入ったのだろう。妻は心配そうに落ち着かなさそうにうろうろしていた。肩を落としながら、どこで遊んでいたのかと聞くと、息子は妙なことを答えた。

「友達と遊んでいたんだよ」

 言うまでもなく、息子がここに来るのは初めてだ。友達と呼べる人はいないはずで、ならば年近い近所の子供だろうか。しかし、祖父母の話ではこの近くに子供がいるような様子ではなかった。

 まあよくわからないが、夕食を待って両祖父母がいまやいまやとそわそわしている。早く上がって手を洗うように促した。

 洗面所までの廊下を歩いていると、そうだと息子が呟いた。

「友達からね、伝えてって言われてたんだ」

 何を、と聞いた。親御さんからの伝言だろうか。

 けれど、それは違った。

「また会えたね、だって」

 それと同時に息子が手を出した。そこには一羽のツルが折られていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏にようかん もるげんれえて @morghenrate

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る