4-05

 市立病院に着いた。

 外来の受付は終了していたが、案内窓口にはまだ人がいたので用件を告げると、内線電話で二言三言やりとりをした後、このまま待合ロビーで待つようにと指示された。


「やあ守山君、お久しぶりですね」


 背後から声をかけられ飛び上がりそうになった。がらんとした待合ロビーにいるのは自分だけだと思っていたが、振り向くと三列目のベンチに人が座っていた。照明が半分ほどに落とされており、顔ははっきりとは見えないがその声には聞き覚えがあった。


「えっと、あの――」

 すっと立ち上がったその人物はすらりとした体型で、身長百七十五センチのぼくよりも上背があった。

「お忘れかな。以前、もみじ公園で余計なお節介をした者です」

「もみじ公園?」

「あのときの守山君は夜の散歩中でしたね。お巡りさんとのもめ事で困っておられた」

 ベンチとベンチの間を回り込み、その人物はぼくの前に立った。

 さらりとした清潔感のある髪型、優しげな目、すっと通った鼻筋、どれもが品の良さを漂わせている。そんな各パーツの中で何より目を引くのは、短く切りそろえられた口髭だった。


「スピッツがユーミンの『十四番目の月』をカバーしていることを教えてくださった」

 思い出した。

「あ、あなたは――えっと」

 名前がわからない。聞き忘れたんだっけ。いや、違う。この人は東堂さんになりすましていたんだった。


 いったい誰なんだ。


「こうして駆けつけてくれたということは、あれから辰巳と交流を持っていただいたんですね」

「辰巳?」

「下の名前はご存じありませんでしたか。東堂塾の塾長をやっている東堂辰巳ですよ」

 知らなかった。東堂さんは辰巳という名前だったのか。

 それはまあいいとして、東堂先生を辰巳と呼び捨てにするこの口髭の人は誰なのか。

「そうでした。まだちゃんと自己紹介をしていませんでしたね。私は辰巳の兄で、東堂克巳と申します」


 東堂さんのお兄さん!


 東堂さんはくせ毛だが、お兄さんの方はさらりとした直毛なので、ぱっと見たときの印象はずいぶん違う。でも、兄弟であることを意識してよく見れば、すっと通った鼻筋や全体の輪郭などはよく似ている。

 いや、今はそれどころではない。東堂さんの容態はどうなのか。


「辰巳は緊急手術を受けています。頭を強く打っていて、MRIで調べた結果、脳の一部に出血があったとのことでした」

「脳に出血って、大丈夫なんですか」

「わかりません。病院に運ばれてきたときには意識がなかったそうです」


 意識不明って――まずいじゃないか。心臓がどどっと暴れ出す。


「事故は、事故はどんな感じだったんですか」

「119番に通報してくれた人の話によると、歩道を歩いていた辰巳が突然ふらついて車道の方へよろよろと出てしまったようです」

「よろよろと、ですか」

 あの東堂さんがふらつくという絵が浮かばない。どこか体調でも悪かったのだろうか。


「手術はまだ時間がかかると思います。ここは私がいれば大丈夫なので、守山君はいったん帰ってください。何か進展があれば私から連絡しますので」

 そうだった。連絡といえば、東堂塾では西川さんが連絡を待っているはずだ。

 ぼくは東堂さんのお兄さんに断りを入れ、有賀のスマホに電話をかけ西川さんに代わってもらった。今は手術中だと伝えると、そうですかと暗い反応が返ってきた。有賀は次々にやってくる生徒たちに人気だそうで、塾が再開したら採点かなにかのバイトをやってもらいたいぐらいだよ、とのことだった。有賀のことを話すときの西川さんの声は少しだけ明るかった。ぼくはまた連絡を入れますと言って電話を切った。


「えっと、東堂さんのお兄さん」

「それ、言いにくいでしょう。克己でいいですよ」

「克己さん、やっぱりぼくもここに残ります。家に帰っても落ち着きませんし、東堂さんにはいろいろお世話になっているので」

「そうですか。では、座って待ちましょうか」

 ぼくと克己さんは少し間隔をあけてベンチに並んで座った。


 廊下を歩く看護師さんの足音が響く。

 パジャマ姿の入院患者が自動販売機で緑茶を買う。

 案内窓口の人がブースの照明を落とし、軽く会釈をして立ち去って行く。

 手術に関する情報は何も入らず、ただ時間が過ぎていく。


「長くかかりますね」

 ふと気を抜いた瞬間に、ほとんど意味のない言葉が口から漏れた。

 克巳さんは受付カウンターの上にある時計を見上げた。

「手術開始から二時間ちょっとかな。頭部の手術をするということでしたから、助かる見込みがあるならまだまだかかると思いますよ」

「どういう意味ですか? だめなときはすぐ終わるのですか?」

「ケースバイケースでしょうけど、以前、私の生徒が交通事故に遭ってこの病院に運び込まれたときは、一時間ちょっとで手術が終わりましてね。今ここで言うのもどうかと思いますが、もう手の施しようがなかったとのことでした」

「私の生徒?」

 克巳さんは、「ああ、すいません」と言って、こっちを向いて少し恥ずかしそうな表情を見せた。

「私は以前、中学校で理科の教師をしていたことがあるのです」

「そうだったんですか」


 このときのぼくは、意識不明や緊急手術という単語で気が動転していたのだろう。克巳さんが以前理科の教師だったということと、人体模型発火事件が原因で辞めた理科教師の名前が「東堂」だったことが結びつかなかった。


「あのときもこの待合ロビーでじりじりしながら座っていました。そして結果は残念なことになってしまいました」

「そんなことがあったんですね」

 話題が話題だけに、話は広がりそうもない。かといって、二人でこのままじっと黙り込んでいるのもどうかと思ったので、中学校の教師ってどんな感じなんですかと軽い気持ちで聞いてみた。

「人それぞれでしょうね。私には向いていないってことがはっきりとわかったので辞めたわけですが」

「教師に向いてる、向いてないって、はっきりとわかるもんなんですか」

「私の場合は、ある日突然、自覚しました」

「ある日突然――ですか」

「時間もありますから、その辺のお話でもしましょうか」

「いいんですか」

「楽しい話ではないんですけどね」


 それは九年前に受け持ったとあるクラスでの持ち物検査に関するものだった。

 克巳さんは生徒たちの発言をほぼ全部覚えているとのことで、話は思いのほか長くて臨場感のあるものとなった。

 教師側の視点で持ち物検査の実情を聞けたことは面白かった。また生徒たちの言い分には、なるほどとうなずかされるものもあった。担任としてはもう少し柔軟な対応をしてもいいのではないかとも思ったが、部外者が無責任にあれこれ言うことではないだろう。

 ただ、教師をやめるきっかけになるようなことではないような気がした。

 ぼくがそう言うと、克巳さんは小さな笑みを浮かべた。

「持ち物検査を行った日の放課後に、不要物として手鏡を提出した女子生徒が交通事故で亡くなったのです」

「もしかして、それがさっきの――」


「はい、あのときもこうして手術が終わるのを待っていました」


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