発火点
4-01
始業のチャイムと同時に教室の前の扉がカラリと開いた。入ってきた担任の手には黄色い巾着袋が下げられている。持ち物検査だ。言葉にはならない動揺と一瞬の目配せが生徒たちの間に走った。
「朝の会を始める前に持ち物検査をします。不要物を持ってきた者は隠さず机の上に出してください」
最悪。よりによってどうして今日なの。
美咲は胸ポケットに手を当て、細く深くため息をついた。
「自分から正直に出した場合は一時預かりとしますが、隠していたのをあとで見つけたときは永久没収です。では今から三分以内に出すように」
教壇に姿勢良く立つ担任は、ルールと制限時間を淡々と告げた。
「先生、質問」
美咲の前に座る後藤真一が勢いよく手を挙げた。
「後藤君、どうぞ」
「一時預かりになったやつはいつ返してくれるんですか」
「君たちが卒業するときです」
教室が静かにざわめく。
「まだ半分しか読んでないのに、続きは一年半も先かよ」
後藤っちの不要物はマンガか。そういえばちょっと前から最新刊が出るとかどうとか言ってたよね。かわいそうに。でも、まあ、マンガはまずいかな。わざわざ学校で読まなくたっていいもんね。
「あと二分と三十秒です。永久没収が嫌なら急ぎなさい」
あちこちでカバンを探る音が聞こえてくる。
ポケモンのトレカ、クロミのヘアクリップ、チロルチョコ、色つきリップクリーム、nicolaにELLEgirl――
休み時間によく見かけるアイテムが次々と机の上に置かれていく。
やっぱり男子はバカだよね。チロルチョコなんか出してどうするのさ。卒業のときに返してもらったってもう食べられないでしょうに。そういうやつはいちかばちかで隠しておけばいいんだよ――っていうか、他人のことはどうでもいいんだよ。どうしよう、この手鏡。卒業までの一年半は長いよね。長すぎるよね。でも、永久没収なんてありえないし。
美咲が周囲を見渡すと、すでに半数近くの生徒が机の上に何かしらの小物を出していた。
くっそう。悔しいけど、仕方ないか。万が一、見つかったらアウトだもんなあ。
美咲は胸ポケットに仕舞っていたハート柄のコンパクトミラーを机の上に置いた。
コトン。
あーあ。出しちゃったよ。
美咲がもう一度ため息をつくと、左斜め前の相原琴音が振り返り、机に置かれた手鏡をちらりと確認した。左右の生徒たちも美咲のコンパクトミラーに視線を注いでいる。離れた席から首を伸ばしてのぞき込む者もいる。
え、どうしたの。出したらダメだった?
美咲は予想外の周囲の反応にとまどった。
「先生、質問があります」
左斜め前の相原が右手を真っ直ぐに挙げ、強い視線を担任に向けた。
「相原さん、どうぞ」
「不要物か不要物じゃないかって、どういう基準で決めているんですか」
「中学生が学校生活を送る上で、必要がないとされるものを不要物としています」
「学校生活って、授業を受けることだけじゃないですよね」
「登校してから下校するまでが学校生活です」
「休み時間も学校生活の一部ということになりますか」
「もちろんです」
「授業中にカードゲームをしたり、チョコ食べたりするのはよくないってことはわかります。でも、休み時間に気分転換としてマンガとか雑誌とかを読むのがだめな理由がわかりません」
「相原さんは休み時間のとらえ方を誤解していますね。学校生活での休み時間というのは、何をしてもよい時間という意味ではありません。次の授業をしっかり受けられるように、いろいろな準備をしておくための時間です。たとえばトイレに行く、目を休める、教室を移動する、教科書やノートを出しておく、黒板をきれいにしておくなどです。これらをきちんとやろうとすれば、休み時間にマンガや雑誌を読む暇はありません」
「気分転換は次の授業をしっかり受けるための準備にはならないのですか」
そうだそうだ。
美咲は心の中で相原を応援しながらも、この担任にはきっと通じないんだろうなと、あきらめてもいた。
「気分転換を否定はしません。でもマンガや雑誌を読まなくても気分転換はできます。休み時間のたびにマンガを読むことにしていると、続きが気になって授業に集中できないということになりませんか。そういうのを本末転倒と言います。気分転換をしたいなら、たとえば窓の外の景色を眺める、軽いストレッチをするなどがいいでしょう。目も休まるし、健康維持にもいい。こういうのを一石二鳥と言います」
相原が、「ふう」と、わざとらしく声に出してため息をつく。
「気分転換のことはもういいです。別な質問をしてもいいですか」
「どうぞ」
相原は自分のカバンを机の上に置くと、持ち手のところに付けていた小さなシカのぬいぐるみを外し、担任に向かって突き出した。
「これも不要物ということになっていますよね」
「そのマスコット的な物を相原さんはカバンの飾りとしてつけているのですか」
「飾りというか――まあ、そんな感じです」
「では不要物です。理由は、もうわかるでしょう」
「このぬいぐるみをカバンにつけていても授業の妨げにはなりません。休み時間に次の授業の準備をするときのじゃまにもなりません。他の人に迷惑もかけません。それでも不要物ですか」
「相原さんは不要物のとらえ方も誤解しているようですね。私は最初にきちんと説明していますよ。学校生活を送る上で必要のないものを不要物としているのです。教科書、ノート、筆記用具、ハンカチ、カバンが、学校生活に必要だということに異論はないでしょう。その上であらためて聞きますが、そのマスコット的な物は学校生活に必要ですか?」
「必要です」
「ほう」
相原の返事があまりにも早かったせいか、担任は一瞬とまどったように見えた。
「その理由を説明してください」
相原さん、がんばれ。
美咲は両手のこぶしにぎゅっと力を込めた。
「このぬいぐるみは、先週、修学旅行で京都と奈良に行っていた弟が、お土産として買ってきてくれたものです。こつこつ貯めていた自分の小遣いで買ってくれました。私にとってはとても大切なものです。いつでも身近なところに置いておきたいと思って、自分の部屋にいるときは机の上に飾っています。寝るときは枕元に置きます。今朝は学校に行く前にカバンにつけました。家でも学校でも何かの拍子にこのぬいぐるみが目に入ると、心がふんわりと暖かくなります。少し疲れていてもやる気が出たりします。ストレッチよりも効き目があります。だから、私の学校生活にこのぬいぐるみは必要です」
なんという説得力。こんなに素敵な理由を否定できるわけがないよね。
美咲は相原の勝ちを確信した。
「相原さんの個人的な事情はよくわかりました」
「じゃあ、このぬいぐるみは不要物にならない、ということになりますか」
「カバンの飾りとしてつけていたということですから、髪飾り、ブローチなどと同様に装飾品とみなせます。装飾品を身に着けることで、心が癒されるということに異論はありませんが、その効用だけを理由にして装飾品の持ち込みを認めると、指輪、ネックレス、ピアス、宝石類と際限がなくなります。装飾品が必要な理由は人それぞれでしょう。切実なものもあればこじつけのような理由も出てきます。その結果、Aさんのブローチの理由は認めて、Bさんのピアスの理由は認めないとなると、君たちが嫌う不公平という状況が生まれます。よって、装飾品は一律禁止――すべて不要物です」
「一律禁止って乱暴じゃないですか。それって、先生がよく言う思考停止じゃないんですか」
「ルールや決まり事というのは、それを守らなければならない人たち全員が納得できるものであることが理想ですが、残念ながら、現実には全ての人が納得できるルールを作ることは無理なのです。それは一人一人の考え方や価値観が違っているのですから当然のことです。学校のように多くの人が集まり一緒に生活する場では、多くの価値観が入り混じっています。こういう集団の場でルールを設定する場合、一人一人の事情をすべて考慮することはあきらめて、どこかで一律に線引きをしなければなりません。この学校では、不要物か否かを判断する基準として、娯楽品・装飾品と学用品の間にその線を引いたと考えてください。ほとんどの人にとって、髪飾りやブローチ、カバンにつけるマスコットがないと授業が受けられない、勉強が手につかない――とはならないからです。相原さんも、そのマスコット的な物があった方がより意欲的に勉強ができるのかもしれませんが、それがないと授業を受ける気にならない、勉強にまったく身が入らないというほどのものではないでしょう?」
「そこまでではないけど――」
「では学校生活には不要ということです。そのマスコット的な物は不要物として卒業まで預かります。ここまでの説明で納得できましたか」
「先生の説明は理解したけど、納得はできません」
そう言いながら相原はカバンを床に下ろす。
机の上にはシカのぬいぐるみだけがぽつんと残された。
「一時預かりの期間が卒業までっていう理由は何ですか。学校生活に不要だから取り上げるというのなら、今日の終わりの会のときに返してくれればいいじゃないですか」
そうだよ一年半も待てないよと、後藤が小声で加勢する。
応援するならもっと大きな声で言いなさいよと、美咲は自分のことを棚に上げてもどかしく思った。
「今日の終わりの会で返したら、明日、また持ってくる人が出てきます。すると明日の朝もまた持ち物検査です。毎日毎日、朝に預かって夕方に返す。時間と労力の大いなる無駄遣いですね」
「だったら一週間とか、長くても一ヶ月ではだめなんですか。卒業までなんてどう考えても、だれにとっても長すぎます」
「そう、長すぎます。残りの学校生活全部ですからね。すると君たちはこう考えるでしょう。『ひどい目に遭った』『こんなことはもう二度とごめんだ』と。でも同じ目に遭わないようにするのは簡単なのです。不要物を持ってこなければいい――それだけです。その結果、クラスの全員が不要物を持ってこなくなれば、持ち物検査などという、だれも得をしない不毛なことをやらなくてもよくなります。そのためにも一時預かりの期間は、だれもが長すぎると感じるものでなければならないのです」
相原の肩にぐっと力が入る。そして何かを言いかけたが、言葉が見つからなかったのか、上がっていた肩がすとんと落ちた。と同時にくるりと振り返り、美咲に向かって、口の動きだけで、「ごめんね」と言った。
そうか。相原さんはこの手鏡がどういうものかを知っていて、自分のぬいぐるみのことを持ち出してまでがんばってくれたんだ。
美咲は相原の背中に向かって、「ありがとう」と小さくお礼を言った。
「俺も質問いいすか」
低く太い声に全員が振り返ると、窓側の一番後ろの席で矢野浩司が手を挙げていた。
あの矢野君が質問?
反対の手はズボンのポケットに突っ込んだまま、脚を大きく広げ、尻は椅子から半分ほどずり落ちそうになっている。ひどい格好だが、それでもちゃんと手を挙げて、先生に指されるのを待っている。
「矢野君、どうぞ」
担任の声のトーンは変わらない。
「オレたちが卒業する前に先生がいなくなったらどうなるんすか。今日没収したやつはちゃんと返してくれるんすか」
「たぶん来年も私は持ち上がりでこの学年を受け持つことになるので、卒業前にいなくなることはないと思います。まあ何事も絶対ということはありませんから、万が一、他校に異動ということになったら、この学年の先生方にきちんと引き継いでおきます」
「じゃあさ、このあと職員室にもどったら、すぐに引き継ぎってやつをしておいてよ」
「このあとすぐに? なぜですか」
「人間なんてさ、いつ死ぬかわかんないだろ。今日の帰りに交通事故で死ぬ、駅のホームから落ちて死ぬ、通り魔に刺されて死ぬってことが、もしかしたらあるかもしれないじゃん――って、オレの意見、なんか問題ある?」
教室が静まりかえる。
美咲も息を飲み込んだまま固まってしまった。
「考えておきましょう」
担任の平板な声が教室内に響く。その直後、朝の会の終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。
「そうだ、オレも不要物を出しとくよ」
矢野はそう言って、机の上に真っ黒なサングラスと銀のブレスレットを置いた。
「ちゃんと返してくれよ。預かっているうちに失くしました、なんてのはナシだからな」
「安心しなさい。責任を持って預かります」
「ふふ、卒業式の日が楽しみだな」
こうして、クラスの約半数の生徒から提出された不要物が黄色い巾着袋に納められた。
――昔の、某中学校での話である。
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