3-10

 東堂さんはこめかみをぐりぐりと押さえてから目を開いた。


「ぶっ飛んでるなあ」

「東堂さんは今のぼくの説明で有賀の説を理解されましたか」

「理解はしたよ。たぶんだけど」

「で、この説はありですか?」

「悩ましいね。そもそもボクたちの通常の感覚ではピンとこないだろ」

「はい。意味不明です」

「でもね、量子レベルの微小なスケールでは、この説と同じような振る舞いが基本的な物理法則になっているんだ。だからといって、それを今回の問題に当てはめるのがありか、なしかって言われるとねえ」


 めずらしく煮え切らない返事だった。


「量子力学ってやつですか」

「そうだね。いわゆる観測問題の拡大版って感じかな。人間の意識によって波動関数が収縮するっていう説もあるから、荒唐無稽とは言い切れないのかな」

「観測問題――」

「申しわけないけど、ボクもなんとなくわかったような気になっているってレベルだから、きちんとした説明はできないんだ。そうだなあ、量子力学としては正確ではないと思うけど、こんな説明でどうだろう」


 東堂さんは、人差し指で机の天板をトントンとたたいた。


「守山君の小学校時代の友だちで、今は別の学校になってしまって、ここしばらく連絡を取り合っていない人っているかな」

「いっぱいいますね」

「ではそのうちの一人を思い浮かべてもらおう」


 ぼくは五、六年生のときに仲の良かった桑田君を思い浮かべた。


「さて、その友だちは今、生きているかな、それとも亡くなっているかな」

「そりゃあ、まあ、生きているでしょう」

「ここしばらく連絡を取っていないのにどうしてわかるの?」

「ぼくと同学年ですからね。まだ死ぬような歳ではないです」

「若くても、病気とか、事故とかって可能性はあるだろう。ほら、ハマモト君は中一だったじゃないか」

「それはまあ、そうですが。いったい何が言いたいんですか」

「今の守山君にとって、その友だちは生きているのか死んでいるのか、はっきりしていない状態だってことが言いたいわけさ。つまり、守山君からすると、友達が今も生きている世界と亡くなっている世界が共存していると言い換えることができる」

「はあ」

「ボクからこんな説明を受けた守山君は、その友だちのことが気になって電話をかけたとする。すると電話には友だち本人が出てくれた。この瞬間、その友だちが生きているということが確定するわけだ。同時に、その友だちが亡くなっていたという世界は消えてしまう。そんなものは元々なかったじゃないかという指摘をしたいかもしれないが、電話をする前の守山君にとっては両方の可能性はあったよね。と、まあ、こんな感じかな。つぐみさんの説のざっくりとしたイメージは」


 ちょっとわかったかもしれない。少なくとも桑山君のたとえはわかったと思う。そう言うと、東堂さんは片頬に笑みを浮かべた。


「まあこの説は思考実験的というか、それこそ妄想上のお遊び的な説ではあるね。ただ、ちょっと厄介なのは、確定した方の世界に生きているボクたちは、『消えてしまったというもう一つの可能性の世界なんて元々存在しない』という証明はできないってことかな。つまり、現実的にはありえないだろうけど、論理的には否定できない説ってわけだ。いやあ、それにしても長年かけて培ったつぐみさんの妄想力は大したものだね」

「つまり、二つ目の説は言葉遊びみたいなもので、現実的な解決を必要としている人にとっては役に立たないから、捨ててもよいということになるのですか」

「それは、飯塚さんが決めればいいと思うよ」

「決める?」

「今回のことに限らず、世の中にあるいろいろな説や理論が正しいかどうかは、対象となる現象をきちんと説明できるかどうかで判断するわけさ。

 ある時代には正しいとされていた理論も、新たな現象について説明できなくなった時点で誤りということになる。ただし、その理論を適用する範囲を限定することで説明が可能となる場合もあって、それは特定の条件下においては有用な理論ということになる。

 たとえばニュートン力学は、ボクたちの日常生活の大半において正しく物体の運動を説明できているだろ。でも物体の速さが光速に近づいたり、重力がとてつもなく大きくなるような条件の下だと説明がつかない現象が出てくる。たとえば時間の進み方が違ってくることとか、ブラックホールの存在だったりだね。それらを説明するにはアインシュタインの相対性理論が必要になるし、素粒子よりも小さなスケールの世界では量子力学の出番となる」


 ようやく東堂さんのエンジンがかかってきたようで、わかりそうで理解ができない言葉が途切れることなく流れ出してくる。


「つぐみさんの二つの説は、どちらも今回起きたことを上手く説明できている。つまり説としては成立している。となれば、どっちを受け入れるかは飯塚さんが決めるしかない。少なくともボクたちではないよね。飯塚さん自身が納得できて、いちばんしっくりくるのを選べばいいのさ。極論になるけど、不安が解消されるなら、事実でなくてもかまわないわけだ。裁判じゃないんだからね」

「それって、西川さんとお父さんが目撃した血まみれの男性が、幽霊とか幻覚ではなく、事故の被害者の変わり果てた姿だったという『事実ではない説』に対して、西川さんが納得して、丸く収まったってことを言ってます?」

「今日の守山君はなかなか冴えてるな」


 たしかに西川さんの件はあの結末でよかったような気がする。でも、飯塚さんの場合、城崎きのさきさんという人物が消えてしまっているのだ。そこに事件性はない――警察案件ではないと言い切れるのだろうか。


「守山君は納得できていないようだね。これはボクの感覚的な見解なんだけど、今回の件はまだ結論を急がなくてもいいと思うよ。まずはつぐみさんの口から二つの説を飯塚さんに伝えてもらおうじゃないか。それで飯塚さんが納得できなければボクが話を聞いてみる。そんな感じでどうかな」

「有賀の説を伝えてもいいのですか」

「いいんじゃない。あくまでも説だから。ちゃんと筋も通ってるし」


 やけに軽い。

 東堂さんは有賀の発想自体は褒めつつも、真相は別のところにあると考えているのではないだろうか。有賀の説明を受けても飯塚さんは納得せず、東堂さんの話を聞きたい、となることを予想している――とか。

 有賀の説は突飛だが、だからといってぼくには他の説は思いつかない。でも東堂さんには別な考えがあるのだろう。少なくとも、ぼくのようにまったくお手上げということはないはずだ。相手が望めば会おうと言っているのだから。


「じゃあ、有賀にそう伝えますね」

「東堂が感心していたって、つけ加えておいて」

 それは危険だ。間違いなく調子に乗る。今の要望は聞かなかったことにしよう。

「では、ぼくはこれで」


 東堂塾を出て時計を見ると間もなく正午だった。

 長かった。たんに長時間を過ごしたというのではなく、話題が地縛霊にドッペルゲンガーなのだ。

 とにかく疲れた。

 ぼくはきれいに晴れた空を見上げ、午後からの有賀とのやり取りを想像し、今日は長い一日になりそうだと思った。

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