3-02

 ここ数年、特に予定のない日曜日は、朝の十時過ぎに両親と一緒に桜ヶ丘のショッピングモールに出かけることになっている。地下の駐車場に車を停めた後、フードコートでの待ち合わせ時間を決めて、約一時間の別行動を取るというのがいつものパターンだ。早く戻った方が三人分の席を確保しておくという暗黙のルールもある。


 今日はお気に入りのボールペンのインクが切れていたので、両親と別れてすぐに、二階にある文具売り場に向かった。お目当てのジャングルグリーンのインクは品切れ中だったので、まだ使ったことがないファンタスティックピンクを買ってみた。目的のインクは手に入らなかったけれど、初めての色が思いのほかにかわいくて気分は上々だった。


 時計を見た。両親との待ち合わせの時間までまだ五十分もある。専門店街のアパレルショップを端から全部チェックしていこう。私はショルダーバッグを肩から斜めがけにして、一階へと流れ落ちていくエスカレーターのステップに足を乗せた。


 パパが赤ちゃんを抱っこしている若々しいファミリー、お化粧が華やかな女子中学生のグループ、手をつないで歩く老夫婦、走る小学生、イヤホンをしてじっと足元を見ている男の子、ガラスの天井から降り注ぐ陽光。

 専門店街の広い通路には、色とりどりの生活が入り混じりあふれている。ただ眺めているだけで幸せな気分になれる空間だ。


 そんな景色の片隅に城崎きのさきさんの姿を見つけた。


 薄いクリーム色のトレーナーにスリムなジーンズという地味な服装で、どこの店に立ち寄るでもなく、まっすぐ前を向き、通路の端をこちらに向かって歩いてくる。このままだと雑貨屋さんの前あたりですれ違いそうだ。


 どうしよう。


 城崎さんは一人のようだった。もしかすると私と同じように家族とは別行動なのかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。今はもし目が合ったらどうするのかということが問題なのだ。声ぐらいかけるべきだろうか。最初から目が合わないように、店頭の雑貨を見る振りをして視線をそらしておくのが無難だろうか。それとも――


 思い悩むうちに城崎さんとの距離はどんどん縮まり、目をそらすタイミングを逃したまま、手を伸ばせば届くほどの距離ですれ違った。あごの先の少し右寄りにあるホクロや、きれいな形の耳がはっきりと見えた。でも城崎さんとは目が合わなかった。無視されたという感じではなく、よそ見をしていたわけでもない。たぶん私のことは視界に入っていたと思う。ただ気づかなかっただけ。そんな感じがした。私も城崎さん以外に大勢の人とすれ違ったけれど、一人一人のことはまったく覚えていない。考えごとをしながら歩いていれば誰にでもありえる話だ。


 でも、城崎さんが意識的に気づかない振りをしていた可能ももゼロではないと思う。知らん顔で通り過ぎておいて、今、振り返って私のことを見ているかもしれない。たぶん、そんなことはないと思うけど、ちょっと確かめてみたい。それは簡単なことだ。私も振り返ればいい。いや、無理だ。私にはできない。もし城崎さん目が合ったりしたら、きっと私は石になってしまう。


 翌日の月曜日、朝の教室には少し浮ついたような空気が漂っていた。私は自分の席に着き、一時間目の準備をしながら周囲の会話に耳をそばだてた。


「まさか優勝するなんてね」「すごいよね」「応援に行けばよかった」


 どうやら土曜日と日曜日に、いくつかの運動部の県大会が行われたようで、サッカー部と女子バレーボール部が優勝したらしい。帰宅部の私には縁のない話だったが、自分の学校が活躍しているというのはうれしいものだ。ちょっと華やいだ気分になったところで始業のチャイムが鳴り、いつもより明るい気持で世界史の授業を受けることができた。


 放課後、自分の席で帰り支度をしていると、教室の横の廊下をジャージ姿のにぎやかな集団が通り過ぎていった。部活に向かう女子グループだ。その中心にはいつものように城崎さんがいた。ちらりと聞こえた話し声の中に、「優勝」という言葉があった。それで思い出した。城崎さんはたしか女子バレーボール部のはずだ。


 あれ?


 城崎さんたちの声が遠ざかり、再び教室の中がしんと静かになったとき、私はおかしなことに気がついた。


 城崎さんは昨日の試合会場には行かなかったのだろうか。


 ショッピングモールで城崎さんとすれ違ったのはお昼前だった。でもその時間、城崎さんは県大会の試合会場にいなければならないのではないか。優勝しているのだから、二日目の日曜日にも試合があっただろうし、試合後には表彰式とかも行われるだろう。


 やっぱりおかしい。まだ二年生で試合には出られないのかもしれないけれど、優勝チームの部員が会場を抜け出してショッピングモールをうろつくなんてことがあるだろうか。

 でも――

 あれは城崎さんだった。

 すれ違うときは手が届くほどの距離だった。あごの先、少し右寄りにホクロもあった。耳の形も同じだった。一年間は同じクラスで、毎日その顔を見ていたのだから間違うわけがない。

 双子?

 いや、そんな話は聞いたことがない。あの城崎さんが双子だとしたら、クラス中の誰もが知っていて、大きな話題になっていて、当時の私の耳にだって入っているはずだ。

 いったいどういうことなのか。


「きのうのお昼前、桜ヶ丘のショッピングモールにいなかった?」

 そんな風に、城崎さん本人に直接聞けば解決するってことぐらい私にもわかる。でもそれは無理な話だ。仮に聞くことができたとしても、「はあ?」って返されればいい方で、きっと何の反応もないと思う。


 もういいか。


 よく考えてみれば、日曜日にショッピングモールで同じ学校の人を見かけたってだけのことだもの。その時間にショッピングモールにいるのはちょっと変だよねってだけで、でもいたんだから、何か事情があったんでしょう。それを知ったからってどうということでもないし、城崎さんが私に説明する義務もない。


 やめたやめた。城崎さんのことはもう考えない。ありきたりな言い方だけど、私とは住む世界が違う人なんだ。うん、そういうことだ。おっと、今日は早く帰って録りためておいたアニメを見るんだった。

 私は帰り支度を再開し、カバンに最後のノートを詰め込むと、ガタガタと音を立てながら椅子を机の下に押し込んだ。顔を上げ、最後に教室全体を見渡そうとして、「ひっ」と声を出してしまった。


 教室の廊下側一番後ろに人が立っていたのだ。

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