2-08

「西川君のお父さんは本来とても怖がりな人だったんじゃないかと思うんだ。とくに幽霊だの心霊現象だのが大の苦手な人ね。

 だから、幽霊というものは脳が見せているだけの現象なんだっていう鉄壁の理論武装をして、自分を安心させていた。その説を繰り返し息子に語ることで、いつしかそれはお父さんにとっての真実になっていた。

 でもね、本来はやっぱり怖がりなのさ。そんなお父さんが釣りの前日に悲惨な事故のニュースを知ってしまった。未明から朝方まで何度も何度も轢かれ続けた遺体はいったいどんな状況になってるのか。そのときお父さんが思い描いた映像が、『ぐちゃぐちゃに顔が変形し、髪の毛が束になって逆立ち、首が傾き、両方の腕が変な方向に曲がっている全身血だらけの男性』だった。

 続けて事故のニュースの詳細を確かめているうちに、その事故現場を明日の早朝に走るっていうことに気づいてしまた。すっと血の気が引いたんじゃないだろうか。でも普段から息子に幽霊なんて実在しないって話をしている立場上、気味が悪いから釣りは中止だとは言えない。お父さんは大きな葛藤と共に出発したと思う。

 怖いな怖いな。嫌だな嫌だな。まだちょっと暗いのに事故現場はもうすぐだ。あそこかな、あの辺かな。

 そんな風にびくびくしながら走っているときに、何かが起きた。それが何かはわからないけれど、ほんの些細なことだったんじゃなかいな。普段の精神状態なら気づくことさえないような、たとえばフロントガラスに鳥の影が走った、路面に落ちていた軍手を踏んでしまった、ふっと生臭い臭いがしたとかね。その瞬間、お父さんの目の前に、血だらけの男性が現れたんだ。そう、脳が見せたんだ。お父さん得意のロジックでね。

 お父さんは事故があったことを知っていた。男性がひどい状態でなくなったことも知っていた。だから目の前に現れた血だらけの男性は、お父さんにとっては本物の幽霊なんだ。

 そりゃあ、声も出るだろう。その声で西川君が目を覚ました。

 西川君にどうしたのと聞かれて、お父さんは見たばかりの映像をくわしく描写してしまった。

『今、前方の道路上に、ぐちゃぐちゃに顔が変形し、髪の毛が束になって逆立ち、首が傾き、両方の腕が変な方向に曲がっている全身血だらけの男性がこっちを向いて立っていたんだ』ってな感じに。

 西川君は驚いただろうね。

 え、何それ。

 あ、いや、何でもない。うん、お父さんの気のせいだ。

 だって、『うわっ』て言ったよ。ねえ、お父さん、今の――

 黙れ。

 このときのやり取りのうち、西川君の記憶に強く焼き付けられたのは、悲惨な状態の男性の描写と、お父さんの『黙れ』だった。時間が経ち、血だらけの男性という強烈なイメージは、いつしか西川君自身が目撃したものとして、当時の一連の出来事の記憶に上書きされた。

 妄想とはいえ、ちょっと都合よく作りすぎかなあ」


 東堂さんは、よっこらしょのかけ声とともに立ち上がり、ホワイトボードの前に移動した。「まあ、本当のところはもう誰にもわからないと思うよ」と言いながら、クリーナーでいびつな人の絵を消していく。


「それこそ本当の幽霊だったって可能性も否定はできないし」

「そのお父さんと最後の面会になるかもしれない西川さんに、嘘の説明をしてもよかったんでしょうか」

「お父さんには悪いことをしたかなとは思うよ。他人の話の中で勝手にいい人にされちゃったんだからね。でも息子のための嘘だから、勘弁してもらえるんじゃないかな」


 ホワイトボードは真っ白になり、嘘の証拠隠滅は完了した。


「最近のお父さんは、一日の大半をモルヒネで意識が朦朧とした状態で過ごされているそうだ。面会をしても、あまり長い話や込み入った話は無理だと思う。西川君にはね、そんなお父さんに、『ありがとう』とだけ言ってくれればいいなと思ってる。その言葉で救われるのはお父さんではなくて西川君自身だからね」


 東堂さんは指先にチョークの粉でもついているかのように、ぱんぱんと手をたたいた。


「さてと、お待たせしたね。守山君の相談とやらを聞かせてもらおうか。そうだ、そのキットカット食べてもいいよ。ただし三つまでね」

 ぼくは思わず、「あ、いただきます」と言ってしまった。

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