2-07

 その後一時的に放心状態にまで陥った西川さんは、キットカットをさらに二つ食べ、血糖値を上げたことで元気を取り戻した。東堂さんに何度もお礼を述べ、明日、帰省しますと宣言して帰って行った。


 とりあえずは一件落着ということになるのだろう。それにしても、幽霊の正体が路上に薄く引き伸ばされた遺体だったとは驚きである。文字通り地縛霊ということか。ぼくの感想を聞いた東堂さんは、「ふふ、やっぱりキミも信じたんだね」と笑った。


「どういう意味ですか」

「キミは当事者じゃないんだからさ、少し引いた目でぼくの説明を聞いてたんじゃないかなと思ってたんだよ。でも、まあ、そういう立場のキミも信じたんだから、うまくいったってことだね」

「ちょっと待ってください。さっきの話は嘘なんですか」

「嘘っていうとイメージが悪いなあ。作り話って言ってくれないか」

「え、え、どういうことですか」

 ぼくは大いに混乱してしまった。


「考えてもみなさいよ。車に轢かれてぺったんこになった遺体が、トリックアートみたいに立体的に見えたりすると思うかい」

「そりゃあ、まずありえないでしょうけど、実際、事故も発生していましたし、トリックアートの仕組みも東堂さんが絵まで描いて説明してくれたじゃないですか」

「だからさ、あんなトリッキーな絵を即興で描けると思う?」

「描いたじゃないですか」

「あれはね昨夜遅くまでかかって準備をしたんだよ。ネットでトリックアートの描き方を調べて、パソコンで下絵を作成して、それを見ながら実際にホワイトボードに描いてってところまでやっておいたんだ。それから見る人の立ち位置の確認をして、最後にホワイトボードの絵を薄く消しておいたのさ」

「じゃあ、さっきは下絵をなぞっただけ?」

「そうだよ。何回か描き直す振りをしたからそれっぽかっただろう?」

「いやいや、でも、それって事前に西川さんが幽霊を見たときのエピソードを知っていないと準備できませんよね」

「もちろん知っていたよ」

「え、どうやって知ったんですか」

「最初に説明したじゃないか。飲み会の場で、西川君は元々はお父さんのことを尊敬していたっていう話を聞いたって」

 そうだった。西川さんもそんな話をしましたっけって言っていた。


「西川君はね、アルコールが入ると毎回同じ話をするんだよ。なぜお父さんを尊敬していたのか、それがどうして尊敬できなくなったのかっていうエピソードをね」

「それって、さっき、ぼくも聞いた話ですか」

「うん、そっくりそのまま同じ話だね。ボクはもう四回目かな」

 あの知的な感じの西川さんが、お酒を飲むと、そんな風になってしまうのか。人は見かけによらないというが――


「お父さんの病気が進行して、もう長くないだろうって話も聞いていた。本当はすぐにでも帰省して、話ができるうちに会って、これまでとってきた態度を謝りたいってね。でも、依怙地になっていた年月が長すぎて、ちゃんと謝れそうにないんですって、ため息をついていたからね。なんとか背中を押せないかって思ったんだよ」

「それで今回のような作り話を、ですか」

「そういうこと」

「でも、事故は実際に発生していたわけですし、遺体の上を通過してしまったっていうのは本当なんでしょう」

「通過してないんだ。釣りに行ったときは、もうすっかり事故の処理は終わってたんだよ」


 なんだって。それはおかしいだろう。ぼく自身が調べた記事に、事故の発生は八月十二日の未明と書かれていた。


「ボクはね、西川君の幽霊目撃エピソードを何度も聞いていたから、釣りに行った日がペルセウス座流星群の極大日だったってことも事前に知っていた。この日に何か参考になりそうな出来事が起きてないかなと思ってネットで調べたら、キミが見つけたのと同じ記事にたどり着いた。事故の発生は未明で、車に何度も轢かれているというひどい事故だ。この記事を見つけたとき、さっきの説明のような状況がぱっと浮かんで、ああ、これが真相だったのかって、全身に鳥肌が立ったよ。でもね、落ちついて事故の日付を確認してみると一日ずれていた。事故の発生は八月十二日の未明。西川君たちが釣りに出かけたのは八月十三日の早朝。事故からほぼ二十四時間経っているから処理はすっかり終わっていたはずだ。ぺったんこの遺体の上を車で通過なんてことは起きてないのさ」


「え、でも釣りに行った日はペルセウス座流星群の極大日だったから、八月十二日だって言いましたよね」


「守山君としたことが肝心なところを聞き逃してるよ。いいかい、さっきボクは、『ペルセウス座流星群の極大日といえば八月の十二日か十三日だね』と言ったんだ」


 そう言われればそうだった。十二日か十三日――たしかに十二日と限定はしていない。じゃあ、どうして釣りに行ったのは十二日だと勘違いしたのか。


「その後で、キミにネットを検索をしてもらっただろ。まだキーワードを覚えてるよね」

 覚えている。『九年前の八月十二日』『B県』『交通事故』だった。

 そうか、この時点でぼくと西川さんの意識は八月十二日へと誘導されてしまったんだ。


「守山君も後で調べてごらん。ペルセウス座流星群の極大日は、八月十二日もしくは十三日で、年によって変わるんだ。九年前の極大日は、八月十三日だったんだけど、そこは十二日か十三日という曖昧な言い方にしておいて、検索の方は十二日に限定してもらったのさ。ペルセウス座流星群は結構有名だから、お盆の頃に見えるってことを知っている人は多いだろう。でも極大日が年によって変わるってことまで知ってる人は少ないし、ましてや九年前の極大日が十二日だったのか十三日だったのかなんて、天文マニアでも即答できないだろうね。西川君は物理専攻で地学には疎いから、まずばれる心配はない」

 実際、ばれなかったしねと言って、東堂さんは笑った。

「つまり、嘘をついてったってことですね」

「嘘っていうか、勘違いさせたっていうか――やっぱり嘘かな。事故から数時間後に事故現場を通過したんだってことにしないと、トリックアート説が成立しないからなあ」


 ああもう、何が嘘で、どこまでが実際にあったことなのか。

 とにかくだ、交通事故が起きたのは十二日の未明で、西川さんたちがその現場を通過したのは丸一日が経過した十三日の明け方で、ぺったんこになった死体はもうそこにはなかったということだ。

 いやいや、ちょっと待て。

 西川さんもお父さんも、血だらけの男性が道路に立っているのを目撃してるじゃないか。トリックアート説が作り話だったというのなら、二人が見たのはなんだったんだ。

 ぼくがそう問い詰めると、東堂さんは事もなげに、「幽霊だろうね」と言った。

「はあ? 一周回って、最後は幽霊ってことになるんですか」

 それはどうなんだ。なんかずるくないか。


「あのね守山君、ここから先は完全にボクの勝手な推測、いや妄想なんだけど、一応、話しておくね」

「お願いします。ちなみに妄想を聞かされるのには慣れています」

 東堂さんは、ふふっと片頬で笑った。

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