2-06

「じゃあ、さっそく始めよう」


 東堂さんは席を立ち、教室の前方にあるホワイトボードの前まで行くと、黒のマーカーを手に取った。ホワイトボードは横軸を中心にしてくるりと回転し、表と裏を入れ替えられるタイプだった。東堂さんは使われていなかった裏側をこちらに向け、キュッキュッと音を立てながら奇妙な絵を慣れた手つきで描き始めた。


 それは人の形をしていたが、素人目にもやけにバランスが悪かった。頭部は円ではなく、縦方向に引き伸ばされた楕円形で、左右に広げられた腕はやけに太く、胴と足は異様に長かった。


 東堂さんはホワイトボードを斜めに回転させ、腰をかがめ、絵の一部を消して、また描きなおすということを何度か繰り返した。


「こんなもんだろう。西川君、ちょっとこっちに来てくれるかな。興味があるなら守山君もどうぞ」

 もちろん興味はある。西川さんの右隣に並ぶ形でホワイトボードの前に立った。

「二人とももう少し下がって、うん、そのあたりでいい。ではこの絵を見てもらおう。守山君、これは何だと思う?」

「人、ですよね。でもバランスがおかしいです。もちろん、わざとそうしたんでしょうけど」

「その通り。今日の守山君はやけにボクの説明がしやすいように発言してくれるね。とても助かるよ」

「たまたまです」

「だろうね。じゃあ次だ。二人ともそのままこの絵を見ていてくれたまえ」


 東堂さんはホワイトボードに手をかけ、ゆっくりと向こう側に倒すように回転させ始めた。バランスの悪い人の絵は頭を奥に、足を手前側にして倒れ込んでいく。すると西川さんが、「あっ」と声を出した。それを合図にしてホワイトボードの回転は止められた。

「これは、まさか」

 西川さんはホワイトボードを見つめたまま唖然としている。ぼくは石川さんの方へと体を寄せ、目線の高さを合わせ、あらためてホワイトボードを見た。

「あっ」


 そこには両腕を真横に広げた人が立っていた。

 いびつに見えていた人の形は、この角度からだとバランスのよい体型となり、まるでホワイトボードの上に立っているように見える。


「西川君はもう全部わかったみたいだね。守山君も絵自体はちゃんと見えたみたいだ」

「先生、本当にこんなことが」

「だって、こうだったと考えればすべてのつじつまが合うじゃないか。お父さんは小学生のキミにトラウマとならないように幽霊ということにしたんだよ」

「東堂さん、ぼくはついていけていません」

 東堂さんはちらりとぼくを見て、「トリックアートと同じだよ」と言った。

「守山君にも普通に人が立っているように見えたんだろ」

「今も見えています」

「それはホワイトボードを傾けて絵を斜めにしたからそう見えたんだよね。でも元の絵はこうだった」


 東堂さんはホワイトボードを真っすぐな状態に戻した。いびつに引き伸ばされた人が白い板面上にぺたりと貼り付いている。


「そろそろ気づいて欲しいな。いいかい、ホワイトボードがアスファルトの路面、このバランスの悪い人の絵が車に轢かれてしまった人の形状、守山君の位置が車の運転席、西川君の位置が助手席だ。実際の路面は水平で床と同じ高さにあり、車からの目線はもう少し低かっただろう。正確に再現するならホワイトボードを床に置いて、キミたちは実際に車に乗っている位置と高さでこれを見下ろせばいい。そして今のように両者の位置関係がある条件を満たすと、アスファルトの上で縦長に引き延ばされて横たわっている人が、あたかも道路上に立っているように見えるんだよ。そういう場所が九年前の八月十二日の早朝に、B県S市内の県道上に存在したということだ。最初に西川君のお父さんがそれに気づき、思わず上げた声で目を覚ました西川君もそれを見てしまった」


 ぼくはさっき聞いた西川さんの話を思い起こした。


〈フロントガラス越しに見えている前方の道路上に、ぐちゃぐちゃに顔が変形し、髪の毛が束になって逆立ち、首が傾き、両方の腕が変な方向に曲がっている全身血だらけの男性がこっちを向いて立っていたのです〉


 記事にはこんなことも書かれていた。


〈事故の状況から、泥酔し道路で寝ていたところを車にはねられ、その後、複数の車にも轢かれた可能性がある〉


 道路上に仰向けに寝込んでしまった男性を一台目の車が轢き、その後も何台もの車が通過し、男性の体は薄く縦長に引き伸ばされ――


「さっきの記事をもう一度よく読んでごらん。事故の発生は十二日の未明、男性の遺体が発見されたのが午前六時過ぎとある。そして西川君たちが家を出発したのが午前四時過ぎ、釣り場までは約一時間半で着く。だとすればB県S市内の県道を走っていたのは午前六時よりも前だ。西川君たちの乗った車は、被害者の上を通過した複数台の車のうちの一台という可能性があるよね」


 ちらりと西川さんの顔を見た。顔面蒼白という言葉があるが、人の顔って本当にここまで白っぽくなるんだと思った。


「父は――」

 言葉が続かない。無理もないと思う。第三者であるぼくでさえかなりのショックを受けている。


「釣りをしている最中も、帰りの車中でも、お父さんは小学生の西川少年にどう説明すべきかをずっと考え続けていたんだろうな。さっきのようにトリックアートの原理で真相を説明するのがこれまでのお父さんのやり方だ。でもそれはダメだ。悲惨な状態の遺体を自分の乗っていた車が轢いたと知ったら、小学生の心に大きな傷を残してしまう。

 たぶん、他の説明をいくつも思いつかれたんじゃないだろうか。でも当時のキミに子どもだましの説明は通用しなくなっていた。お父さん自身がそういう教育を施してきたからね。そしてお父さんが選んだのは幽霊だった。幽霊だったとすれば合理的な説明は不要だ。後日、事故のことをキミが知っても、幽霊だったことの説得力が増すだけで、真相に思い至る可能性は限りなく低い。

 キミが見たお父さんの怯えた姿はお芝居だったかもしれないが、被害者の遺体を轢いてしまったことで罪悪感を抱えられていたのかもしれないね。それが被害者の死因とは無関係だったとわかったとしても、そりゃあ嫌なものだろう。その後、お父さんは車を運転することはなかったというから、怯えというか、後味の悪さはずっと引きずっておられたのではないだろうか。

 いずれにしても、お父さんは、熟考の末に真相を封印された。キミがお父さんに失望したであろうことに気づかれても沈黙を通された。小学生だったキミの心を守るためだ。それをボクは今、台無しにしてしまった。お父さんに無断で余計なことをしたかもしれないが、西川君にはこのタイミングで真相を知ってもらうのがいいと判断した。だから封印を解いた。でもそれはボクの独断だ。最初に言ったように、その責任はすべてボクにある。ボクからの話は以上だ」

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