2-03
あれは僕が五年生のときでした。夏休みの半ばあたりだったと思います。父と海釣りに行こうということになり、朝の四時過ぎに、父の運転する青い車でB港の南防波堤に向けて出発しました。
釣り場までは約一時間半かかります。三時半起きだった僕は、途中で何度も眠くなり、助手席の背もたれを少し倒した状態で、短い居眠りをしては何かの拍子に目を覚ますということをくり返していました。
「うわっ」
父の低く鋭い叫び声で、はっと目を覚ました僕はとんでもないものを見てしまいました。
フロントガラス越しに見えている前方の道路上に、ぐちゃぐちゃに顔が変形し、髪の毛が束になって逆立ち、首が傾き、両方の腕が変な方向に曲がっている全身血だらけの男性がこっちを向いて立っていたのです。
ぶつかる!
僕は思わず目を閉じました。次に来るだろう急ブレーキの衝撃に備えてぎゅっと全身に力を入れました。ところが車はブレーキをかけることも進行方向を変えることもなく走り続けます。いつまで経っても何事も起きません。僕は恐る恐る目を開きました。前方にはインディゴブルーの空が広がっており、真っ直ぐに伸びる道路が昇ったばかりの朝日に照らされて金色に輝いています。フロントガラスに男のぶつかったような跡はありません。あのスピード、あの距離で、男性が車を避けることは絶対に無理でした。
いったいどうなっちゃったんだろう。
横目で父を確認すると、まっすぐ前方を見据える父の顔は怒っているかのように強ばり、ハンドルを握る手は小刻みに震えていました。
父もあれを見たんだと確信しました。
「ねえ、お父さん。今の――」
「黙れ」
これまで聞いたことのない恐ろしげな父の声に身がすくみました。
父も自分でそのことに気づいたのでしょう、「運転中に話しかけられると気が散るんだ」と付け加えましたが、いつもは他愛のない会話をしながらドライブをしているので説得力はありませんでした。
その後、釣り場に到着し釣りを始めましたが、まったく集中できず、父との会話もなく、ただただ苦痛でした。あのとき見た血まみれの男性のことも気になりましたが、それよりも、自分の隣にいる父の様子がおかしいことが恐ろしかったのです。
なぜいつものように、さっき見たものの正体について、わかりやすくくわしい説明をしてくれないのか。あれを見たのになぜブレーキもかけず、進路も変えず、そのまま走り続けることができたのか。なぜいつまで経っても一言も口をきいてくれないのか。
結局、釣果はゼロのまま昼前に釣りをやめ、撤収することになりました。帰り道は来たときは違うルートが選ばれました。家に着く直前、それまで無言だった父は突然口を開き、「今朝見たことはお母さんには内緒だ」と言いました。威圧感のある口調に、「なぜ」とは言えず、代わりに、「あれは何だったの」と聞きました。
「幽霊だ」
父の答えはその一言だけで、追加の質問ができる雰囲気ではありませんでした。それに何よりも、父の口から幽霊という単語が出たこと、しかもその幽霊に怯えているようにしか見えないことに僕は驚き、ショックを受けました。
この日以降、父は車を運転しなくなりました。いつも不機嫌で顔色も悪く、ほとんど口を利かなくなりました。母は最初、あれこれと気を使っていたようですが、いつまで経っても不機嫌なままの父に腹を立て、家の中の空気は徐々に悪くなってきました。
家族の中で父の変化の理由を知っているのは僕だけです。
父はあの男の幽霊に取りつかれたんだ。だから人が違ってしまったんだ。
僕はあのとき父に言われた「黙れ」の声が恐ろしくて、母に事情を話すことはできませんでした。
このことがあり、それまで抱いていた父への尊敬の念は崩れ去りました。
偉そうに語っていた『霊が見えること』のそれらしい説明は、自分が幽霊を見てしまったら軽く吹っ飛ばされてしまったじゃないか。父さんなんて屁理屈ばかりで、いざとなったら全然頼りにならないじゃないか。
こうして僕の中で父は軽蔑すべき対象へと堕ちてしまいました。
以来、僕の方から父に話しかけることはなくなり、父もそんな僕のことを避けるようになってしまったのです。その状態は今も解消されず、心のしこりとなって僕の中に居座り続けています。
西川さんの話はこれで終わりだった。
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