1-15

 航太君は、秋祭りで怪しげな男から変な箱を買った。

 箱には、念じるだけでどこでも掻いてくれる孫の手と書かれていた。

 箱を買って帰ったその日につぐみさんに見つかってしまった。


 興味を持ったつぐみさんは、航太君に試してみようと持ちかけた。

 航太君はつぐみさんの指示によって、『お姉ちゃんの背中を掻いてください』と念じ、つぐみさんは誰かに背中を掻かれたと感じた。

 箱に書かれていることは本当だと信じたつぐみさんは、その使い道についてあれこれと妄想を膨らませた。テレビのアナウンサーがニュースを読んでいる最中に背中を掻いたらどんな反応をするだろうか。卒業式の祝辞を読む校長先生も面白そうだ。ドミノ倒しの世界記録挑戦中の人ならどうだろう。

 そんな妄想を広げながら眠りについた翌日、航太君と同じ中学校に通うハマモト君が亡くなったという知らせが入った。死因は脳内出血。中学生としてはかなりまれな死因だ。


 そうか、掻く場所は背中でなくてもいいんだ。もしハマモト君の頭の中を掻けって念じていたら、同じことが起こったのかもしれない。


 この瞬間からつぐみさんの妄想は航太君を主人公とした物語へと移行した。物語は細部にわたって緻密に作り込まれていった。


 秋祭りの情景、ハマモト君と航太君の軋轢の背景、丹波屋から箱を買う場面、航太君が箱に向かってハマモト君の頭の中を掻くように念じる場面、その結果としてのハマモト君の死、夜中に行われた航太君の罪の告白、愛する弟の苦境に寄り添う姉。


 つぐみさんの中でこの物語は現実の出来事と混じり合い見分けがつかなくなっていく。ハマモト君が脳内出血で死んでいるという事実が物語を強固に支え続けたのだろう。つぐみさんは本気で航太君を心配し、姉として何をしてやればいいのだろうかと悩む。

 家でも、学校でも。

 休み時間、妄想の世界に浸りきっていたつぐみさんに、タイミングよく(悪く?)声をかけてしまったのが守山君だった。


 ――元気ないな。どうかした?

 ――航太が人を殺したかもしれないの。


 この瞬間から、つぐみさんの内面で育まれてきた物語は外の世界とつながり、現実と混じり合い、守山君もつぐみさんの相談相手という登場人物の一人となったのである。


「守山君」

「はい」

「大丈夫かい」

「何がですか」

「キミは今回の事があるまで、つぐみさんの妄想癖のことは知らなかったんだよね」

「ええ、知りませんでした。でも、普段の話題がUFOとかムー大陸とかだったんで、普通の女子とはちょっと違っているなとは思っていました。だからかな、ほとんど全部が作り話というのには驚きましたけど、正直それほどショックは受けていません」

「そうか。うん、それならいいんだけど」

「お気づかいありがとうございます」

「今、つぐみさんは、背中を掻かれたと感じたのは強い自己暗示によるものだったということで納得しているだろう。ただし奇妙な箱を巡る物語はまだ継続中のはずだ。弟が人を殺してしまったかもしれないというやっかいごとは解決しているけどね。もちろん、そのままでいてもらっても問題ないんだ。でも、もしキミが本当のことをつぐみさんに伝えるべきだ、あるいは伝えたいと考えるなら、そうしてくれてもかまわない。それに関しては、つぐみさんの一番の理解者であるキミの判断に任せるよ」

「しばらく考えてみます」

「うん」


 東堂さんは壁の時計を見て、もうこんな時間かとつぶやいた。五時五十分。一時間近くも話をしていたことになる。そろそろ塾の生徒たちがやってくる。


「今日はこれで帰りますね」

 ぼくは腰を上げ、「それでは」と軽く頭を下げて出口へと向かった。

「おいおい、忘れ物だよ」

 東堂さんは長机の上に置いたバスタオルの包みをポンポンとたたいた。

「え、それは東堂さんが引き取るんじゃないんですか」

「寝ぼけたことを言っちゃあ困るな。これはキミが航太君から買い取ったものじゃないか。なぜキミのものをボクが引き取らなきゃいけないんだ」

「だって、箱を持ってこいって言ったのは東堂さんですよ」

「言ったよ。今日の説明をするときに実物があった方がわかりやすいからね。そして説明は終わったわけだから、持って帰ってもらわないと。そもそも、こんな物騒なモノを大事な生徒たちが勉強する場に置いてはおけないよ」

「ちょっと、待ってください。今、何て言いました? 物騒なモノって聞こえたんですけど」

「さっき説明したじゃないか。万が一の可能性を考慮しなければならないって。それがもしカミノテだったらどうするのさ。ここでの授業中にうちの生徒が、『ああ神様、明日からの期末テストができないように学校をぶっこわしてください』なんてことを口にしないとも限らないからね。持ち主以外の願い事に反応はしないと思うけど、箱の正しい使い方なんて知らないから絶対大丈夫とは言えないだろ」

「ぼくだってそんな物騒なモノ、持って帰りたくないですよ」

「心優しいキミなら大丈夫。キミが変な気さえ起こさなければ何の実害もないただの箱さ。持ち帰ったらすぐに押入れの奥にでも仕舞っておけばいい」

 本当に嫌だったが、こうまで言われれば持ち帰るしかなさそうだ。


「結局のところ、これって、ただの古い箱なんですよね」

「まず間違いないと思うけどね。念のため丹波屋については調べておくよ。まあ、あまり深刻に考えないで預かっておいてくれたまえ」

 自分で物騒なモノっていったくせに――という文句をぐっと我慢して、ぼくはバスタオルの包みを抱えた。

「箱のことで何かわかったら連絡するよ」

「お願いします」

「それまで箱の保管をよろしく」

「では、ぼくはこれで」


 教室を出た。

 廊下の中ほどで、おしゃべりに夢中になっている三人の小学生女子とすれ違った。


 雑居ビルの外に出る。ひやりとした空気に首をすくめ、ふと見上げた向かいのビルの向こうには、悲しいほどにきれいな夕焼けがあった。


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