1ー12

 三日が経った。

 まだ東堂さんからの連絡はない。

 有賀には笑顔が戻った。窓際の自席で外を眺めている後ろ姿は、日なたぼっこをしているハムスターのようだ。もう大丈夫だとは思うが、その後の航太君の様子についてたずねることは控えている。東堂さんから説明を受けるまではアウトとセーフのボーダーラインがどこにあるのか全く見当がつかないからだ。


 休み時間に二人の間で交わされるのは、『セントエルモの火』『シーサーペント』『ヒヒイロカネ』『人体自然発火現象』などのムー的な話題か、先週リリースされたスピッツの新曲の歌詞がいかにへんてこで素晴らしいかなど、相手の関心や嗜好をまったく考慮しない自分の趣味の世界に関するマニアックな話題である。だからこそ新鮮で、質問することは山ほどあって、退屈することなく、いくらでも話し続けることができた。


 そんなこんなで概ね以前の学校生活に戻ったような感じではあるが、放課後になり、校門を出てからの一人の時間は、あの実験のことを考え続けている。二つの可能性を想定し、それぞれのケースで、あの実験がどのような意味を持つのかを突き詰めていくという地味な作業だ。


 その一、箱には特別な力などなく、ただの古い箱だったという可能性。


 この場合、頭の中を掻けと念じた航太君の行為とハマモト君の死は無関係である。たまたまタイミングが合ってしまい、航太君は、自分のせいでハマモト君は死んでしまったと思い込んでいたということになる。でも、これらは本当に偶然だったのだろうか。偶然で片づけるには全部の状況がピンポイントに合致しすぎているのではないか。第三者の立場にあるぼくでさえそう思うのだ、航太君が自分のせいでハマモト君が死んだと考えてしまうのは無理もない。つまりこのケースで最も重要なのは、航太君自身が、偶然タイミングが合ってしまったということを納得できるかどうかだ。そう考えると、東堂さんの実験は、箱がただの箱であることを証明するためのものだったということになる。


 東堂さんが航太君に見せたかったストーリーはこうだ。

 最初の実験で、ぼくと有賀は背中を掻かれたと感じたが、それは強い思い込みによって生じた錯覚だった。航太君が箱に対して念じた事実とハマモト君の死、箱の入手経緯と外観、意味ありげな貼り紙、箱の内部を掻いたかのような効果音。これらの情報が総合的に作用して、ぼくと有賀の脳が反応してしまった。その体験の後に東堂さんからのミラータッチ共感覚等の説明があり、脳の思い込みが解消された。よって二回目の実験では何も感じなかった。

 これら一連の流れを航太君の前で見せることによって、箱がただの箱であることを納得させた。


 ぼくが個人的にすっきりしないのは、今も背中に残るあの爪の感触だ。理屈の上では東堂さんの説明で錯覚だったと理解はできる。きのうの昼休みに、有賀の話題の中に出てきたキリストの聖痕というやつも、心が肉体に直接的な影響を与える事例だ。今回もその類似ケースで、それをぼくは身をもって体感したということになるのだろう。そう、理屈は理解できる。でも、あれが錯覚だったと心の底から納得するにはまだ時間がかかりそうである。

 ぼく個人の体感はどうでもよいが、このケースだった場合は、航太君の取り越し苦労だったというところに落ち着くわけで、まあ、よかったねで終わることができそうだ。


 その二、箱は貼り紙に書かれている通りの力を持っていたという可能性。


 この場合、頭の中を掻けと念じた航太君の行為によってハマモト君は死に至ったということになる。しかし、航太君が罪に問われることはない。航太君の行為とハマモト君の死に因果関係があることを警察や検察は客観的に証明できないからだ。


 誰だって一度は心の中で憎いやつを抹殺したことがあるのではないか。殺さなくても死んでしまえと思ったことならあるはずだ。今回、航太君にはそこまでの気持ちすらなかった。それでも、航太君の行為がハマモト君に死をもたらしたという事実は厳然としてある。そのことが刑法上の罪に問われないとしても、むしろ問われないからこそ、航太君が抱えなければならない罪の意識は大きく、いつまでも残ることになる。

 これはとても難しい問題だ。

 こういった背景を踏まえた上での、東堂さんの実験にはどんな意味があったのか。


 最初の実験で背中を掻かれたあの感覚は、錯覚ではなく、箱の力によるものだった。しかし、まったく同じ条件で行われた二回目の実験では何も感じなかった。つまり、箱の力は発動されなかった。さらに行われた最後の実験でも東堂さんの身に異変は生じなかった。

 ここでぼくは思い出す。実験の前に東堂さんは航太君に確認していた。


 ――念のために確認したいんだけど、航太君がこの箱に念じたのは、まだ一回だけということで間違いないね。

 ――はい。


 東堂さんは意味のない確認は行わないと思う。その言動には必ず何かの狙いや理由がある。だからこの確認にも意味があったはずだ。


 最初の実験ではぼくも有賀も背中を掻かれた。この実験を行うことにより、箱の力が発動したのは、ハマモト君への一回目と合わせて全部で三回ということになる。もし箱の力が三回しか使えないという条件があったのなら、この時点ですべて使い切ったことになる。それはぼくと有賀に対する再実験で何も起きなかったこととも整合する。


 願い事は三回まで。

 東堂さんはそのことを知っていて、あるいは予測して、箱の力を無効化するためにまず二回の実験を行い、効力を発揮できる三回分を使い切った。その上で脳の錯覚の話をぼくたちに聞かせ、仕切り直しの実験で何も感じなかったのは脳の思い込みを解消したからだと思わせた。

 何のために。

 もちろん、航太君のためにだ。

 箱はただの箱で、航太君が念じたことで何も起きたりはしなかったんだよと。


 いずれにしても航太君が見せられた一連の実験は、箱に力が有る無しに関わらず、ハマモト君の死と航太君の行為が無関係であると納得させるためのものだったということになる。

 今さら何をしようとハマモト君が生き返るわけではない。

 でも心の傷を負った航太君を救うことはできる。

 そのためには今回の出来事における倫理的、道義的な側面には一切触れない。

 東堂さんはそう割り切ってあの実験を行ったのではないか。


 そしてよくよく考えてみると、今回の対応において東堂さんは嘘の説明は一切行っていないのだ。箱は最初からただの箱だったとも、不思議な力を持っているとも言わなかった。その判断は、ぼくたちにゆだねられている。東堂さんは判断材料だけを巧妙に提示して、航太君の行為とハマモト君の死が無関係であることを納得させたのだ。その納得は、東堂さんからの一方的な説明によるものではなく、自分自身で判断して得られたものだ。だから腑に落ち、すっきりする。これから先も揺るがない。

 それが東堂さんのやり方なのだ。


 この結論に至った翌日、実験の日から数えて四日後の金曜日、午後五時過ぎに例の箱を持参して東堂塾まで来て欲しいという連絡を受けた。

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