1-11

「東堂さん」

「なんだね、守山君」

「ぼくには今回の実験の目的がわかりません」

「さっき説明したじゃないか。目的は心の傷を消毒することだ」


 航太君はびくりと肩をふるわせ、有賀の横顔に悲しそうな目を向けた。


「その目的は達成されたのですか」

「うん、荒っぽいやり方になってしまったけど消毒は済ませた。これでもう傷口は化膿しないはずだ。でも傷そのものを治したわけじゃない。結構深い傷だから、修復にはある程度の時間がかかるだろうね」

 東堂さんは机の上に置いていたボイスレコーダーに手を伸ばし、「これは塗り薬みたいなものかな。あとでつぐみさんと一緒に聞くといいよ」と言って録音を止め、航太君に渡した。


「あの」

 有賀が遠慮がちに手をあげる。

「なんでしょう」

「いろいろとありがとうございました。私にはよくわからないことだらけで、まだぼうっとしてるんですけど、一つだけ聞いてもいいですか」

「どんなことでも遠慮なくどうぞ」

「一回目の実験で、守山君も私も、背中を掻かれたって感じたとき、乾いた固いものを引っ掻くような音が聞こえました。でも二回目では聞こえなくて、背中を掻かれる感じもありませんでした。あの音と背中を掻かれる感じは関係があったのでしょうか」

 それはぼくも気になっていたところだ。それに今の質問で、あの音は有賀にも聞こえていたということがわかった。航太君も東堂さんの返事が気になっているようだ。つまり、三人ともあの音を同じタイミングで聞いているのである。


「いい質問だね」

 東堂さんはスーツの腰ポケットに左手を突っ込み、反対の手の人差し指を口の前でぴんと立てた。

「ちょっと耳を澄ましてみて」


 カシカシ。カシカシ。


 あの音だ。

 東堂さんはマジシャンのような仕草で、ぼくたちの目の前に軽く握った左の手を突きだした。人さし指から順に開かれた手の中には薄っぺらな木の板切れがあった。東堂さんがその表面を爪の先でこするとあの音がした。

「効果音みたいなものだね。航太君が『〇〇を掻いてください』って念じたタイミングでこの音が聞こえると、箱の中の何かが動いてるって感じがするでしょ」

 そう言って、東堂さんはもう一度板を爪でこすってみせた。


「あの音をたててたのは東堂さんだったんですね。私、あの音が聞こえるたびに、ミイラみたいな干からびた手が箱のふたを内側からカシカシって引っ掻くイメージを思い浮かべてしまっていました」


 ミイラみたいな干からびた手?


 有賀もぼくと同じことを想像していたのか。それとも見えたのか。

 すごく気になるが、航太君の前であまり生々しい話はしたくない。明日、学校で聞くことにしよう。

 それはそれとして、東堂さんのいたずらめいた行動の意味がわからない。

 効果音、必要か?

 たんなる悪ふざけだとすれば悪趣味すぎるが、あの状況でそれはないだろう。東堂さんだから、なにか狙いがあるはずなのだ。ただ、その狙いをぼくたちが知っておく必要があるのなら東堂さんからの説明があるはずだ。でも、東堂さんにその気はなさそうだ。有賀が今の説明で納得したのなら、ぼくからこれ以上口を挟むのはやめておこう。


「航太君からは何かあるかい」

「今はありません。この録音を聞いてからよく考えてみます」

「うん、それがいいね」

 東堂さんはうれしそうだった。

「では今日はこれで失礼するとしましょう。ところでこの箱、どうしますか」

 三人が同時に箱を見た。その上面には黄ばんだ細長い紙が貼られている。


  ネンズレバ イカナルトコロモ カケルマゴノテ


 今、あらためて見るその文字の並びは、なぜか意味のある言葉としては頭に入ってこない。最初に見たときに感じた不気味さもない。いつの間にか神秘性が剥ぎ取られ、ただの古い箱になってしまったという感じがする。


「どうすればいいでしょうか。燃えるゴミに出すっていうのはだめですよね」

 燃えるゴミ?

 有賀よ、それはいくらなんでもやめておいた方がいいだろうよ。

 東堂さんはあははと笑った。

「そんなふうに思えるならもう大丈夫だね」

「ごめんなさい。ゴミは言い過ぎでした。でも、これって結局はただの古くて汚い箱ってことですよね。そんなものが家にあっても仕方ないですし」

「航太君は?」

「姉と同じ気持です」

「じゃあこうしよう。守山君、キミが買い取りなさい」

「え、ぼくがですか。っていうか、買い取るんですか」

「それがベストな対処方法なのだよ。ときに守山君、今、キミの持ち合わせはいかほどかね」

「なんでそんなことを――」

「いいから、すぐに確認する」

 確認した。ぼくの財布の中には970円しか入っていなかった。せめて千円あればまだ格好がついたのに、小学生の財布みたいでかなり恥ずかしい。


「航太君、キミが支払った1740円には足りないけど、この金額で守山君に箱を売ってもらえないかな」

「売るだなんてとんでもないです。箱だけ引き取ってもらえたら、もうそれだけで十分です」

「気持ちはわかるけどね、今回の場合、航太君が売る、守山君が航太君から箱を買い取るという手続きが重要なんだ。モノの売買というのは契約行為だ。この契約行為によって、箱と航太君のつながり断ち切られ、守山君がそれを引き継ぐことになる。だからね、金額の大小ではなくて、売った、買ったという行為そのものが重要なんだよ。あと、航太君がこの箱を買ったときの条件をできるだけ忠実になぞるために、買い取る金額は、そのとき財布に入っているお金全部とするのも外せないポイントだ」

「ちょっと待ってください。じゃあもし、今日ぼくが一万円持っていたとしたら、それ全部を払わなきゃけなかったんですか」

「そういうことになるね」

 どっと冷や汗が出た。そんな金額が財布に入っていることなどまずないが、月初めの小遣いをもらいたてのタイミングだったらやばかった。


 こうしてぼくは、航太君に970円を支払った。財布は空っぽになり、古い木箱がぼくのものとなった。東堂さんは満足そうにうなずいた。


「ではこれで失礼するとしよう。つぐみさん、このバスタオルももらっていいかな。航太君、塾のこと考えておいてね。守山君、帰るよ。箱、忘れないように」

 ぼくはあわてて木箱をバスタオルで包み、小脇に抱え、部屋を出ていく東堂さんのあとに続いた。


 確認したいことがたくさんある。このままではモヤモヤだらけだ。でも、そう感じているのはぼくだけなのかもしれない。有賀も航太君もすっきりとした顔をしていた。箱を手放すことができたからなのか、それとも今回の実験は成功だったということなのか。


 早足で歩く東堂さんに追いつき、「あの」と声をかけたが、午後六時からの授業に間に合わないからと、前からやってきたタクシーを拾って行ってしまった。去り際に、今日のことに関する説明は後日あらためて行うので、それまで何もせずに待つようにと指示された。


 一人残されたぼくは、少しずつ濃くなる夕闇の中で、走り去る赤いテールランプを見送った。

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