1-09
「航太君、キミはこの部屋で音楽を聴くことがあるかい?」
東堂さんからの唐突な質問に、航太君はもうとまどうことなく、「音楽ですか?」と聞き返した。
「そう、ポップス、ロック、アイドルグループの歌、ボカロ、ジャズ、クラシック、何でもいいんだ。ジャンルは問わない」
「最近はワンオクをよく聞きます」
「いいね、ワンオク。僕も好きなバンドだ。スマホとヘッドホンで聴くのかな」
「ヘッドホンは持ってないのでスマホとイヤホンです」
「それは好都合だ。では今からいつものように音楽を聴く準備をして欲しい。何のために? って顔をしてるね。次の実験に入る前にちょっと準備をしたいんだけど、航太君に先入観を与えるとまずいから、準備の打ち合わせ内容を聞かせたくないんだ。ボクとつぐみさん、守山君の三人で準備の打ち合わせをする間、イヤホンでワンオクを聴いていてもらいたいのさ」
「わかりました」
航太君は机の脇に置かれたリュックからスマホとイヤホンを取り出す。
「打ち合わせの内容は実験が終わってからであれば聞いてもらって差し支えないからね。このボイスレコーダーで録音しておくとしよう。じゃあ今からスイッチを入れるよ」
東堂さんは胸ポケットから取り出したスティック型のボイスレコーダーを机の上に置いた。航太君は東堂さんにうながされてスマホに繋いだイヤホンを両耳に押し込み、窓の外に目を向けた。話を聞かないだけでなく、打ち合わせの様子も目に入れてはけないと考えたのだろう。有賀によく似たその横顔を見ながら、素直で気配りのできるいい子だなと思った。
「さてお二人さん。そういうわけで聞いてもらいたいことがある」
振り向いた東堂さんは、もう少し近くに寄るようにと手招きをした。ぼくと有賀は東堂さんの前に並んで座った。
「まずはミラータッチ共感覚の話をしよう」
それは初めて聞く単語だった。
「想像して欲しい。今、キミの目の前を小さな男の子が走っている。その男の子が石にけつまずいて転び、膝をすりむいてしまった。それを見ていたキミは、自分自身が同じように膝をすりむいたときのことを思い出し、あるいは想像し、思わず、『イタタタタ』となってしまう。
この感覚、わかるよね。
他人の痛みはわからないという人がいるけれど、そんなことはない。子どもの頃に転んだ経験がある人なら、目の前で膝をすりむいて泣く男の子が感じている痛みは、かなりリアルにわかるはずだ。そして他人に共感できるのは痛みだけではない。人がくすぐられているところや極寒の屋外で凍えている様子を見たときも、くすぐったさにむずむずしたり、寒さにぎゅっと体が固まったりする。
この他者に共感するという能力があることで、人間は他人の仕草や表情から心の中を推し量れる。この人は何をされると喜ぶのか、腹を立てるのか、それとも悲しむのかがおおよそわかる。それって社会生活を営む上でとても大切な能力だよね。そしてたいていの人間はこの程度の共感力を持っている。自分が他者の痛みを想像できるのと同様に、相手も自分の感じていることをわかってくれているという前提があることで、人と人とのコミュニケーションが成立している。
と、ここまでは前置きだ。
世の中にはこの共感力が桁違いに強い人がいるらしい。その人を仮にCさんとしようか。たとえばCさんの目の前で、AさんがBさんの手首をつかんだとする。それを見ていたCさんは、あたかも自分の手首がつかまれたかのように感じてしまう。あるいはCさん自身が誰かの手首をつかんだと感じる場合もあるという。それはさっき例にあげた膝のケガのときのような、過去の経験や想像を交えた痛みとはレベルが違っていて、今まさに自分の手首をつかんでいる指の感触や力加減までが生々しく伝わってくるリアルな感覚らしい。
こんな風に、目の前の他人に生じている感覚が、そっくりそのまま自分自身のものとして感じられてしまうことをミラータッチ共感覚と呼ぶんだ。アメリカの某大学で、学生に対して行われたある調査では、2351人のうち45人にミラータッチ共感覚があることが認められたという報告がある。およそ百人に二人の割合だね。この人数、学校の同学年の生徒の中にミラータッチ共感覚の持ち主が何人かいることになるから、ボクは意外と多いなと思った。
さて、ここまでの話で誤解しないで欲しいんだけど、さっきの実験で、キミたちが背中を掻かれたと思ったあの感覚をミラータッチ共感覚だった言いたいわけではないんだ。もしキミたちがそういう感覚の持ち主だったのなら、日常的に今回の実験以上のことを経験しているはずだ。そんな人なら、背中を掻かれた感じがした程度のことは、ああ、またかって受け流すだろう。思わず声を出してしまったキミたちはごく普通の人間だってことだ。
おっと横道にそれてしまったな。
ミラータッチ共感覚についてもう少し話そう。
他人が手首をつかまれているのを見ると、自分の手首がぎゅっとつかまれたと感じる。
どうしてそんなことが起きるのか。
簡単に言ってしまえば、脳がそう感じさせているということになる。たとえばドアに指をはさんでしまったとしよう。そのとき、指先にある痛みを感じる細胞や圧力を感じる細胞が刺激されて電気的な信号が送り出される。この電気信号は神経を伝わり脳のある特定の場所に到達する。信号を受け取った脳ではいろいろと複雑な反応が生じて、最終的に指の痛みやドアにはさまれたという感覚が生まれるというわけだ。つまり痛みは指先自身が痛いと感じているのではなく、この神経から送られてきた電気信号は『指先が痛い』という状況だと脳が判定して、ボクたちにとっての『痛い』という感覚に変換しているんだね。
今、この一連の反応を仮にD反応と呼ぶことにしよう。
ミラータッチ共感覚を持つ人は、他人が目の前でドアに指をはさむと、その状況を見たときの視覚情報だけで、つまり、指の神経からの信号がないままにD反応が生じてしまうと考えれば説明がつきそうだ。ではなぜそんなことが起こるのか。もしかしたらすでに解明されているのかもしれないけれど、ボクはそこまでは知らない。だからミラータッチ共感覚の話はこれで終わり。
ははあ、なんだかピンとこなかったって顔をしているね。もう少し身近なことを例にあげようか。ミラータッチ共感覚は視覚情報によって引き起こされる脳の反応なんだが、聴覚で得た情報――つまり言葉が脳に勘違いをさせるケースならキミたちも知っていると思う。
あなたはだんだん眠くなる。あなたの腕が重くなる。
そう、催眠術だ。
他にもある。人間は悪口を言われ罵倒され続けるとどうなるか。ストレスが溜まり体調を崩す、そして胃に穴が空く。ストレスを感じるのも胃酸を過剰に分泌させるのも、すべては脳の機能だ。その脳に働きかけたのは言葉だ。
ということで、ボクの話はこれでおしまい。ああ疲れた」
東堂さんは大きな伸びをして、振り向きざまに航太君の肩をとんとんと叩き、イヤホンを外すようにゼスチャーで指示をした。
「お待たせ。打ち合わせは終わったよ」
今のが打ち合わせ?
ぼくと有賀は顔を見合わせ首をかしげた。
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