1-08
「いいかい、航太君。成功すれば守山君の背中が掻かれる。失敗すれば何も起こらない。ただそれだけのことだ。誰も困らないし、危険なことも起きない。さあ、肩の力を抜いて、あの夜と同じように念じてごらん」
航太君は顔の前で静かに合掌した。その目はじっと箱にそそがれている。口元がわずかに動いた。
――ここにいる守山さんの背中を掻いてください。
来る。
ぼくは全身を固くしてその瞬間に備えた。
一秒、二秒――
あっ。
カシカシという小さな音と同時に、少しギザギザした爪が背中の真ん中を二回往復する感覚があった。
ざあっと全身に鳥肌が立つ。
まさか、本当に掻いたのか。あの骨の浮き出た干からびた手が、箱の中で指を動かして。
ぼくは身動きできなくなった。一ミリでも動けば、まだ背中に残る爪跡の感覚が全身に広がりそうな気がして、息をすることすらできなくなっていた。
「どうだった守山君? いや、聞くまでもないか。キミのその様子からするとちゃんと掻いてもらえたようだね。ひとまず実験は成功だな」
東堂さんのあまりにものんきな言い草に、ぼくは怒りを通り越してどっと脱力した。
「成功って――」
そう言うのがやっとだったが、おかげで息ができるようにはなった。
「航太君、見ての通り安全性は証明された。ただ、実験というのは再現性の有無が重要なんだ。なのでもう一回やってもらいたいんだが、大丈夫かな」
何だって。もう一回、あれを?
「東堂さん、ぼくはもう――」
「安心しなさい守山君。次はつぐみさんだ」
え? 有賀でも試すのか。それはちょっときついだろう。航太君に繰り返し精神的な負担をかけて、それにどんな意味があるというのか。
「つぐみさん」
「あ、はい」
「いいですか、守山君にやったのと同じことをお願いしても」
「それが航太のためになるんですよね」
有賀はすっかり姉の顔になっている。
「すべてはそのためにやっているのですよ」
「すいません、今さら変なことを聞いてしまって」
東堂さんは、「お気になさらずに」と言って、再び航太君の方へと向き直った。
「では、はじめようか。航太君、お姉さんの背中を掻くように念じてください」
航太君はためらっているようだ。そりゃそうだろう。ぼくに対する実験が成功したということは、この箱が「本物」であるということなのだから。
「あの――」
「ん? どうしましたか」
「いや、何でもありません。やります」
航太君は再び箱に向き合い合掌する。小鼻が膨らみ眉間が小さく盛り上がった。
――おねえちゃんの背中を掻いてください。
カシカシという小さな音。
「あっ」
有賀が声を漏らした。
わかる。わかるぞ有賀。今、お前の背中をあの爪の先が往復したんだな。
「いかがでしたか、つぐみさん」
「あ、はい。誰かに背中を掻かれたような感じがしました」
「二回目の実験も成功ですね」
そして全員が黙り込んでしまった。
ぼくは思った。これはやってはいけない実験だったのではないか。ぼくと有賀に対する実験はどちらも成功した。東堂さん風に言えば再現性が確認されたということになる。それはつまり、秋祭りの夜、航太君がこの箱に向かって念じたときも同じことが起きたであろうと、当然そうなるわけだ。
背中へのあの感触はまだありありと残っている。先端部分が鋭く尖ってギザギザした爪だった。力はそれほど強くなかったが、あの動きが掻くという行為だと考えればほどよい力加減だった。もし背中が痒いときであれば心地よかっただろう。
そうなのだ、掻く場所が背中であれば、まったく問題はないのである。
だが、あの尖った爪の先が、あの力加減で、頭の中――脳を掻いたらどうなるだろう。医学的なことはわからない。脳の実物なんて知らない。柔らかくてもろいのか。意外と丈夫なのか。でも、細い血管なら傷ついてしまってもおかしくはないのではないか。その結果としての脳内出血はあり得るのではないか。
――ぼく、人を殺してしまった。
それは夢ではなく、思い込みでもなく、現実の出来事だったのだと、先ほどの実験は証明してしまったのではないか。そして何よりまずいのは、事実がどうであったかではなく、有賀も航太君も、おそらくぼくと同じことを考えているだろうということだ。
東堂さんはこうなることを想定していたのだろうか。それとも想定外のアクシデントだったのだろうか。よけいなことをして、かえって事態を悪化させてしまっているではないか。いずれにしても、こんな実験はするべきではなかった。
ぼくは東堂さんに相談したことを激しく後悔した。
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