1-06

「航太君、おじゃまするよ」


 返事を待たずに東堂さんはドアを開き、「勉強中だったかな」と言いながら、何のためらいもなく顔を突っ込み中をのぞき込んだ。学習机の前に座っていた航太君は、見知らぬ男がぬしぬしと部屋に入ってきたことに驚き固まってしまった。


「航太、今、大丈夫?」

 航太君は、「誰?」と有賀に目で問いかけた。東堂さんは有賀が説明しようとするのを手で制した。

「ボクは東堂という者で学習塾の先生をしています。とは言っても、今日の用件は勉強とは関係ありません。航太君が秋祭りで買った古い箱の後始末のために来ました」

 航太君の目が一瞬泳いで有賀をとらえた。有賀は表情を引き締めて小さくあごを引く。航太君にはそれだけで通じるらしい。その視線は再び東堂さんに向けられた。


「いきなり何を言い出すんだと思ったでしょう。それになんだかあやしいやつだなって。そこで自己紹介代わりに一つ問題を出しましょう。メモと筆記用具を準備してもらえるかな」

「え?」

 とまどうのも無理はない。だって意味がわからない。そういうことに疑問を持たない有賀に、「早く準備しなさい」とうながされて、航太君はレポート用紙とシャープペンシルを机の上に出した。


「ではボクの言うとおりのことを書いてください。まずは、A=B」

 航太君の順応力は高いようで、もうとまどう素振りは見せず、さらさらと式を書いた。

「続いて、B=C、C=D、さて、ここで質問です。今書いた三つの式が成り立つ場合、A=Dである。これは正しいか、正しくないか。航太君、答えてくれるかな」

「正しい、と思います」

「うん、正解です。航太君は数学が苦手だと聞いていたけど、数学のセンスはあるね。うちの塾にくれば、間違いなく数学が得意になるよ。今夜、お母さんと相談することをおすすめしておこう」

 航太君はちらちらと有賀を見る。有賀は声を出さずに、「だまって聞く」と口だけを動かした。


「次は応用問題です。Aを航太君、Bをつぐみさん、Cをこの守山君、Dをボクだとしよう。さて今からは、A=Bという式は、AとBが等しいではなく、AはBを信頼していると読み替えることにします。まずは航太君のところからはじめよう。航太君はお姉さんのつぐみさんのことを信頼している。つまり、A=Bが成り立つ。どう? これは正しいよね」

「えっと、信頼っていうのは姉としてという意味でしょうか」

「特に条件はつけなくてもいいんだけど、まあ、そういう意味と考えてくれてかまわないよ。姉としていつも航太君のことを気にかけてくれている、決して裏切らない、そんな感じかな」

「わかりました。だったら、A=Bが成り立つでいいです」


 東堂さんは少し首をかしげた。ぼくもなんだかちぐはぐなやり取りだなとは思ったが、具体的に何が変なのかと問われても明確な答えは浮かばない。ただ、違和感を覚えたのはボクと東堂さんだけで、有賀本人はなんとも思っていないようだ。


「次、つぐみさんは、ここにいる守山君のことを信頼している。だから今回の航太君のことを守山君に相談した。合っていますか?」

 東堂さんは有賀に質問を振った。「はい、合ってます」という返事に、ぼくはにやけそうになるのをぐっとがまんした。


「これで、B=Cが成り立ったね。さて、Cの守山君、聞くまでもないと思うが、君はボクのことを信頼かつ尊敬しているよね」

 尊敬というのが余計だが、この流れでいいえとは言えない。「もちろんです」という大人の返事に東堂さんは満足そうにうなずいた。


「これで、C=Dも成り立った。さて、ここで最初の問題に戻ろう。A=B、B=C、C=Dが成り立つとき、A=Dが成り立つのだった。つまり、航太君にとって、ボクはお姉さんと同様に信頼できる人ってことになる。初対面なので実感はないだろうけど、論理的には正しみたいだ。というわけで、とりあえずボクのことを信頼してください。ここまではいいかな」

 航太君は机の上のレポート用紙に目を落とし、しばらく考えてから、「信頼します」と言って顔を上げた。


 東堂さんは部屋の真ん中にどすんと腰を下ろしてあぐらを組んだ。

「キミたちも突っ立ってないで座ろうか」

 なぜか偉そうに指示をする。ぼくは東堂さんの斜め向かいに座り、有賀はベッドの端に腰をかけた。東堂さんは、「さて」と言って両手をこすり合わせる。


「航太君、キミが買った箱のこと、それからハマモト君のことについて、ひととおりは聞いている。でもそれだけではちょっと足りないんだ。あといくつかの質問と、やってもらいたいことがある。それでまずは実物を見せてもらいたいんだけど――」

 東堂さんは、「箱はどこにあるのかな」と言いながら、部屋の中をぐるりと見渡した。ぼくもつられて周囲に目を向けたがそれらしいものは見当たらない。


「あ、箱なら私の部屋です。航太が自分の部屋には置いておきたくないって言うから、古いバスタオルにくるんで押し入れにしまってるんです。すぐに取ってきますね」

 有賀はあわてて部屋を出て行き、壁の向こうでドタンバタンと動き回っているなと思ったら、ぱたぱたと母親とそっくりなスリッパの音を響かせながらもどってきた。


「お待たせしました」

 それは薄っぺらなバスタオルでぐるぐる巻きにされていた。東堂さんの指示で床に置かれ、全員の視線が注がれる。

「バスタオルに包んでおくというのはいい考えだね。この手のものはできるだけ目に触れないようにしておくのが正し扱い方なんだよ」

 目に触れない方がいいと言った矢先に、バスタオルは東堂さんの手で取り払われてしまい、細長い木の箱が姿を現した。


「ほう、これですか」

 東堂さんの目つきが変わった。

「拝見します」

 東堂さんは箱を手に取り、目の高さまで持ち上げると、これまでぼくが見たことのない真剣な顔つきになった。箱の角度を変えてすべての面をくまなく観察し、指で表面をなぞり、目を閉じて重さを確かめるような仕草のあと、東堂さんの動きが止まった。部屋の中から一切の物音が消える。ぼくは息を止め、有賀は膝の上に両手をそろえ、航太君は少し前かがみになり、それぞれが東堂さんの様子をうかがう。


「ありがとう、よくわかりました」

 東堂さんが箱を持った手を下ろすと、ほうと三人が同時に息を吐いた。でも東堂さんの表情はまだ固いままだ。

「守山君も見てみるかい」

「うわっ」

 ほいと渡されあやうく取り落とすところだった。

「なんですか、いきなり」

「だって見たそうだったから」

「それは、まあ、そうですけど」


 ぼくは姿勢を正し、息を整え、顔の正面に箱を掲げた。かなり古い。うん、相当に古い。手に馴染む乾いた木肌の感じ、かすかに感じる昔の匂い、全体に暗く沈んだような色合いから受ける印象が、古い寺院の柱などから受ける感じとよく似ている。一方で、箱に貼られた黄ばんだ紙と、そこに書かれている文字が片仮名という取り合わせにはどことなくちぐはぐな感じがした。何が引っかかるのだろう。ぼくはもう少しよく見てみようと顔を箱に寄せてみた。

(うっ)

 今のは何だ。

 箱の中にあるモノが一瞬見えた。いや、見えたような気がした。艶のある飴色、関節の浮き出た指、骨に貼り付いた皮、そんな映像が鮮明に浮かんだ。

 それは干からびた人間の腕だった。正確には、右腕の肘から先がミイラ化したものだった。でも、もう何も見えない。ぼくの目の前にあるのは、ただの古い木の箱だ。


 ふと視線を感じて顔を上げると東堂さんと目が合った。じっと観察されていたようだ。東堂さんは何も言わずに手を差し出した。ぼくも無言で箱を返した。

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