1-02
昨夜の話である。
有賀は夜中にふと目を覚ました。枕元の目覚まし時計を見ると午前一時を五分ほど過ぎていた。有賀はいったん寝つくと朝まで熟睡するタイプで、夜中の一時という時間帯があることは知っていたが、それを経験したことは一度もなかった。部屋の空気は冷えていて鼻の頭が冷たくなっている。自分の部屋なのにどこかよそよそしい。なんだか見知らぬ土地へ旅行にきているような感じがして、少しわくわくしたという。
やがてすっかり目が覚めてしまい、暗闇の底で遠い天井を見上げていると、かすかな音が聞こえてくることに気づいた。
音楽ではない、話し声でもない。風の音でもない。弱々しく途切れ途切れで、少しでも気を抜くと闇の向こうに側に溶けて消えてしまいそうな音だった。
そうか、この音で目が覚めたんだ。
いったん意識すると、全身のすべての感覚が聴覚に集められ、音の輪郭がくっきりと立ち上がってくる。
すすり泣きのようだった。
どこからだろう。
目を閉じてみる。息も止める。
右側の壁だ。
有賀は物音を立てないように、そうっと布団を抜け出し、壁の方へとにじり寄った。
すすり泣きの声がわずかに大きくなる。
壁の向こう側は弟の航太君の部屋だ。
有賀は廊下に出ると、足音を忍ばせて航太君の部屋の前に立った。ドアに耳を当てる。間違いない。航太君が泣いている。怖い夢をみているのかもしれない。有賀にも経験があったので、これは起こしてやったほうがいいと判断した。
ドアを細く開いて中をのぞいた。天井に埋め込まれた常夜灯が部屋全体を淡い琥珀色に染めている。航太君は壁際のベッドの上でこちらに背を向けて横になっていた。
「航太」
小声で呼びかけてみた。
すすり泣きがぴたりと止まる。
起きているのかな。
有賀はドアの隙間をさらに少しだけ広げ、上半身を斜めにし、肩先から部屋の中にすべり込んだ。
「航太、どうしたの。大丈夫?」
布団がもそりと動いて枕の上の頭が半回転した。こちらを向いた二つの目が闇の奥で白く光る。
「おねえちゃん?」
「そうだよ」
ベッドの脇までそろそろと歩き、かがみ込んで枕元に顔を寄せた。
「どうしたの。怖い夢でもみた?」
航太君がいきなり有賀の首にしがみついてきた。中学生になってから、全然甘えてこなくなっていたので少し驚いたが、すぐに背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめてやった。腕の中の航太君がひっくひっくとしゃくり上げる。
「大丈夫だよ。ほら、夢だったんだから」
「違うんだ。夢じゃないんだ」
「おなかでも痛いの?」
「そんなんじゃない」
有賀の左肩の上で航太君はぐりぐりと首を振った。
だとすればいったいなにがあったのか。有賀にはさっぱり見当がつかなかった。だが、あわてて問い詰めることでもない。有賀は航太君の背中をぽんぽんと叩きながら、その息づかいが落ちつくのを待った。
「おねえちゃん」
「なあに」
こくりとつばを飲み込む喉の動きが伝わってきた。
「ぼく、人を殺してしまったんだ」
やっぱり夢をみたんだ。
有賀はむしろほっとして、航太君の後頭部をやさしくなでた。
「そっか、それで怖くなっちゃったんだ」
「うん」
悪夢にも色々あるが、人を殺してしまうという内容は、目が覚めてからもしつこくダメージが残りそうだ。まあ、誰を殺すかにもよるだろうけど――とまで考えて、少し興味がわいた。
「殺してしまった相手は悪いやつ?」
航太君の体がびくりと反応した。有賀の首に回された腕にぐっと力が入る。
「ハマモト君」
「小学校のとき、同じクラスだったハマモト君?」
肩の上で航太君がこくりとうなずく。
その名前は何度か耳にしたことがあった。いじめっ子というほどではないが、当時のクラスのリーダー格で、押しが強く、気の弱い航太君にとっては苦手なタイプだと思われた。中学に入り、別のクラスになったようだが、その存在自体が航太君にとっては未だに強いストレスとして刻まれているのかもしれない。
そうか、ハマモト君を――
えっ?
ここで有賀はどきりとすることを思い出した。
二日前、航太君の中学校で、同じ学年の男子生徒が亡くなったという話を聞いていたのだ。クラスが違うから葬儀への参列はないとのことだったが、小学校が同じだったので、個人的にお線香をあげに行った方がいいだろうか、という意味合いのことを母が言っていた。
「ねえ、航太。この前、亡くなった男子生徒って、もしかしてハマモト君なの」
「うん」
そういうことか。
有賀は航太君からそっと身を離し、その顔を正面からのぞき込んだ。
「同じ小学校だったもんね。そんな身近な子が亡くなったって聞いたらショックだし、夢にもみるよ」
「違うよ。違うって。さっき夢じゃないって言ったじゃないか!」
「え、どういうこと」
「だから、ぼくがハマモト君を殺してしまったんだって。でも、殺すつもりはなかったんだよ」
濁った黄色い光の下で航太君の顔がどす黒く歪む。
「あんなことで死ぬとは思わなかったんだ」
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